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フェイクニュース(デマ)が起こりにくい報道を望む

安倍晋三銃殺事件の流れを見て思ったこと。

まず、当日の事件発生後まもなくして、犯人が元海上自衛隊所属であったことが報道されて、凶器は手弁当で犯人が自ら作った銃であるらしいという報道が流れた。ネットでは、たかだか数年の自衛隊経験で発砲訓練を受けれるか受けれないかとか、凶器を作れるか作れないかなどが話題になっていた。

その翌日土曜日には「犯人は特定の団体への恨みがあったらしい」という報道があり、ネットではなんらかのカルト宗教が関与してるのではないかと侃侃諤諤だった。

参議院選を明けた今日月曜日には統一教会という名前がマスメディアからも名指しで出てくるようになり、この先どうなるかは明日以降の話なのでよくわからない。

 

この数日のあいだでよく見かけたのは、元海上自衛隊所属であるということは真っ先に取り上げられて喧伝されたのに対して、「特定の団体」が何なのか濁されたままに報道されていたその非対称性はなんなんだろうみたいな意見だ。「特定の団体」を明記しないところに情報統制を邪推しているような意見も散見された。

 

市井の人の一人である俺にはもちろん何も真相はわからんのだが、報道する側の裏にある言い分を汲めば「ファクトは報道する、ファクトかわからないものは報道しない」ってことなんだろうなというのは分かる。元海上自衛隊所属であることは調べたら分かったファクトで、警察発表が「とある団体」に留まるのであればそれを現時点のファクトとして流す。別にそこに嘘偽りはないんだろう。

つまり、それは断片的なファクトを無作為にファクトと確定できたものから順に垂れ流すという態度に他ならず、それがファクトであるということが確かでさえあれば、どれだけその先に憶測の余地があろうとも速報性に価値を見出して号外を垂れ流しても全く問題がないという、そういう態度に見受けられる。

 

昔はそれで良かったのかもしれない、とも簡単には言い難いが、少なくともSNSでみんながピーチクパーチク簡単に騒げる現代においてはいい加減やめた方がいいんじゃないかなーと一連の流れを見て思った。

他の競合する報道機関が裏取りまで終わらせて報道している速報を同じタイミングで報道できていなかった場合にそれがものすごい失点になるというマスコミの文化はなんとなく知っている。昭和から続くそういう文化のまま今の報道機関が存在しているんだろうなってのは別に想像するに容易い。

 

でも、今はもう、SNSでみんながピーチクパーチク言える現代ではらそういうの本当害悪でしかないんだよなーってのを今回改めて痛感した。

 

少なくとも俺が知りたいのは全体だし、少なくとも断片的なファクトから憶測をばら撒き合うゲームを望んではいない。ましてや断片的なファクトを投げるのが報道機関の役割で、その先の憶測は市井の人が勝手にやってるだけで知ったこっちゃないなんて態度は、変な言い方だが主従が逆転していると思う(マスコミが主従の主であるべきだ、と言うことは勿論できないので言い方が難しいぜ)。

 

俺は、速報性は要らない、考える材料だけが欲しい。速報性の価値を盾にして、市井の人の考えを混乱させることを仕方ないとするのは時代にそぐわないよ。何とかしてくれ。

 

何とかならないんだろうけど、思うのはそんなところ。

 

以上です。