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悪い芝居vol.29 『ラスト・ナイト・エンド・デイドリーム・モンスター』配信上映感想文

waruishibai.jp

まず、俺が一番最初に言うべきは、そうだな、買え!今すぐ配信上映のチケットを買え!今月末の6月30日いっぱいまでしか見れないらしい。だから今すぐ買え!まぁ、月末で区切りがいいのはわかるけど7月1日2日の土日はなんとかならなかったんかという気持ちはあるが、悪い芝居が6月30日金曜日までと言ってるんだから仕方がない。買え!そして観ろ!明日の日曜に予定があったとしても、平日の仕事終わった後に観ろ!退勤後に急いで劇場に赴かなくても家で見れる幸せを噛みしめろ!

もうこれはズイショさんがブログを書いてアップしたら必ず見るようなズイショさんの感覚を信じてる層にあたるそこのお前に向けてのみ言ってるんだが、俺は基本的に人にものを勧めない。気さくに作品を褒めることはあるが、ちょっとやそっとじゃ勧めない。わかりやすい例でいうと、俺は千と千尋の神隠しは人に勧めるかもしれないが「トトロは観た方がいいよ」と言うことはきっと生涯ない。もういい加減ぼちぼち自分にとってつまらないものを殊更に否定したがるノリは加齢に伴い薄れては来たのだが、「俺は本当に面白いものしか勧めないぞ!」という気概だけは失いたくないよね。

この俺の宣言を信じて、ズイショさんのブログ好きなやつは、この配信チケットを買って、観ろ!

 

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はい、そういうわけで同じリンクを2回貼ったわけなんですけど、なんでこんだけ観ろ観ろと冒頭で煽ったのかというと、いつも悪い芝居の感想文を書く時は「ふーん面白そうじゃね」と少しでも思ってもらえるように熱気のフレーバーの籠もった感じで書くようにしてるんですけど、今回のコレは、たぶんそういうのじゃなくてなんか朴訥としたひとりごちた感想文になる予感がしてたので、宣伝要素を冒頭に固めたんです。

なので、この後は、ただの滔々とした感想になります。

 

とりあえず、僕、この悪い芝居という劇団と、その劇団の公演の脚本・演出をずっとやってる山崎彬という人を足掛け10年くらい見てるんですけど、そのあいだ僕も10年くらい生きてるわけです。で、人間、のんびりぼんやり長生きしてしまうと調子に乗るわけです。こんだけ長いこと生きてたらなんやかんやの人生経験も積んで、昔よりかはいろんなことをわかる人間になってるぞ、俺には物の良し悪しがわかるし、人の良い悪いもわかるぜ、僕みたいなしょーもない人間はそういう風に考えてしまいがちなんですね。今回の悪い芝居はそんな調子こいて生きてる自分が今までちゃんと受け止めてこれなかってそのことに気づいてすらいなかったことに気づいてしまって、頭ぶん殴られたようで衝撃的でした。いや、まあ、悪い芝居にもその他世の中の色んなコンテンツにも、これまで昭和のテレビくらい何度も何度もぶん殴られて来て、そのたび衝撃を受けてそのうちにまたそのことを忘れて調子に乗って自分をブラビアと勘違いする昭和のテレビくらい俺がポンコツってだけの話なんですけど。時間よ止まれ!!

山崎彬という芝居の世界で生きてる人を長らく追っかけてて、好きだから追っかけてるんですけど、好きな人の全部が全部好きかというと別にそんなことはない。それは恋人と同じですよね。一緒に居酒屋で飯食ってめちゃめちゃ話してて楽しいし、どっちかの家のテレビでソファに並んで座ってネトフリの映画をワイワイガヤガヤ突っ込みながら観るのもめちゃめちゃ楽しいし、セックスの相性も最高だし、だけど居酒屋の店員にタメ口なの気になるな、、みたいなのあるじゃないですか。それが好きじゃなくなる理由嫌いになる理由にはならないけど、ちょっと気になる。なんでこの人、居酒屋の店員さんにはタメ口なんだろう、釣り船屋の船を運転してくれるおっちゃんには敬語なのに。。みたいな。そりゃ海の真ん中で命握られてるおっちゃんには敬語だろ!ていうか船を出すタイプの海釣りにデートで一緒に行くとかお前ら仲良いな!!みたいなのあるじゃないですか。

山崎彬という劇作家・演劇人が大好きでずっと尊敬してるんですけど、都度の公演を追っかけるなかで時たま気になった(めっちゃ悪く言うと「鼻についた」)のが、実際の社会のなかで起きてる事件とリンクするときの近さでした。悪い芝居では「あ、明らかにあの事件をモチーフにしてやっとるなー」みたいな公演が時たまそれほど高頻度ではないんだけれども出現する。単に人殺しが出てくるとかホームレスが出てくるとか自死を考えてる人が出てくるとか、今この世の中に現に存在してるしんどいやつが物語に組み込まれて出てくるのは勿論まったく気にならないんですけど、たまに「完全にあの事件じゃん」ということがたまにある。過去公演を振り返ると『なんじ』の怪しい新興宗教は気にならなかったけど『嘘ツキ、号泣』のトラックで人混みに突っ込むやつの描写は気になる。そういう受け取る側のニュアンスかもしれないけど、やっぱし僕はモチーフとの距離感、そしてそのモチーフとの時間的な距離感を気にしてしまって、「よくある殺人事件」ではなくて「明らかにあの殺人事件」が物語のエッセンスとして採用された時に、まだ被害者遺族がバリバリ現役で生きている良くも悪くも全くまだまったく終わってない事件を普通に創作のなかで取り入れてるのって傲慢なんじゃないか?センセーショナルさを取り入れることが優先されている不誠実な態度なのではないかと山崎彬の作品に感じることが過去に何度かありました。それが作品を感じて評価するうえでの減点要素にはならないんですが、作品と現実の事件との節操のない距離感での近さを感じた僕が、作品と僕とのあいだに距離感を作ってしまって、色々と感情が動きにくくなってその結果加点自体しにくくなってしまうみたいなそんな感じ。今回の作品の下敷きの片一方となっている『ラスト・ナイト・エンド・ファースト・モーニング』も僕にとってはまさにそのような作品でした。

で、今回の『ラスト・ナイト・エンド・デイドリーム・モンスター』も上述した話でいうと全くそこに合致する話で「あ、あの事件をモチーフにしてるな」っていうのは、NHKの集金への言い訳じゃなくてマジでテレビ持ってない人以外は全員知ってるような二つの事件が想起されると思います。というか、明らかなので隠さずそのまま言ってしまえば酒鬼薔薇事件とその後にある『絶歌』の出版騒動、そしてもう一つは光市母子殺害事件です。

風化して世の中から忘れ去られることが良いことというわけでは全くありませんが、少なくとも僕くらいの世代にはいずれも未だ生々しく思い出される事件であり、関係者も多く存命していることは間違いなく、それを取り扱った創作というのはやっぱり傲慢ではないか、安易ではないか、配慮に欠けていると世の中から怒られるほどの公演規模ではないからこそできる攻めてるようで攻めてない題材の取り入れ方になってはいないか?やっぱりそんなことを前半見ながら考えてしまった。

が、芝居を観終えたあとは、思いの外そんなことなかったなーとなったし、これまで同じような原因でかぶりつきになれなかった過去に観た公演についても俺は誤解していたのかもしれないなーと思うに至った。

 

悪い芝居・山崎彬の作る演劇は、いつだって挑戦的で挑発的だ。ちゃんと引用してない良い加減なのだが、悪い芝居の掲げる売り文句にあったような舞台と客席との距離を自在に行き来する作風というのは、つまり客席にいる「私」と舞台上に立つ「誰か」とその物語を書いて演出する「山崎彬」との距離感をコントロールすると言い換えることができるのだが、これはありがちな演劇論を踏まえた比喩であり、現実問題として俺は、「私」と「誰か」のあいだの距離はいつだって変わらないと思っている。二者のあいだには大きな川が流れていると思っている。深く、流れも激しく、決して向こう岸には渡れない川がそこにあり、その向こう岸にあなたがいる。決して渡れないが、幸いにも距離はそれほどにない。だからお互いに石を投げ合い受け取り合うことはできる。「ゴミ出しといてー」とか「ゴミ出しといてくれてありがとー」とか、共に同じ世界を生きるための意思疎通くらいはそれなりにできる。しかし、それだけでは人間は通じ合うことはできない。いや、どうしたってそんなことできないのかもしれないが、少なくとも石を投げ合うよりはマシな何かはないか?それが表現であり創作であり芝居だ。表現っていうのは、相手に石を取れるように投げるのではない。川面に向かって豪速球で石をぶん投げる。水飛沫が弾ける。そこに太陽の光が射す。投げた俺には虹が水飛沫に光が屈折して七色の虹が見える。その虹が、向こう岸にいるあなたにも見えるかどうか。表現とは概ねそういうことなのではないかと俺は考えている。俺が今こうして書いている文章も全く同様で、僕はあなたに向けて書いているのでもない。ただ、水面に石を叩きつけているに過ぎないのだ。僕とあなたのあいだに流れる川は、同じ川だが両岸から見える景色はそれぞれ全く違ったもので、それでも同じお天道様の下に生きているから、同じ虹なら見れるはずだと石を水面にぶん投げる。それが俺の考える表現だ。

とは言っても、石をぶん投げて水飛沫をぶち上げて虹を見せるのにもコツがいる。ぶん投げる石の形も重さも投げ方自体も様々で、悪い芝居・山崎彬という人はここらへんのコントロールが抜群にうまい。ここまでの比喩を一瞬ぶん投げるけれども、端的に言えば企みが豊かで多彩な人だ。客にどんな虹を見せたいか、そのためにはどうすればいいかを考え抜きながら創作をずっと続けてきて、そうして俺はそこに虹を見てエモーショナルな何かを受け取り続けていた。俺は山崎彬をそういうものを俺に与えてくれる人と信じていたし、だからこそ現実に近すぎる事件を取り扱った時はどうにも舞台と客席のあいだにある川が濁って見えて、それをノイズに感じて虹を見つけにくくなっていく。

だけど、本作は俺にとって全く違った。「最後の祈り」と銘打ったこの芝居は、俺にとっては「最後」かどうかはどうでもよく「祈り」の芝居であることを初めて殊更に強く感じられた芝居だったのかもしれない。

劇団主催で脚本演出出演ってたぶんそこまで珍しくないとは思うのだけど、過去の公演すべてを観れてるわけではないんだけど、山崎彬は割と出る人で、出ない時は本公演ではない番外公演と銘打ったりとか、明らかに新人お披露目を頑張りたい時とか、結構そこらへん露骨に見える人な印象だし、自分に役を与える時はめちゃめちゃ重要な役を普通に自分で引き受けるじゃんみたいなところはもともとあったけど、『愛しのボカン』に続いて今作と二回連続で役者としては出演しなかったのはなんか色々心境の変化はあるんだろなーと思った。

で、山崎彬が出演しなくなるとどうなったかというと、今作に関してで言えば、俺がちょっと微妙に思っていた現実の時間を生々しくモチーフにした物語になぜ山崎彬がこだわって来たかがすーっと入ってきたんだよなぁ。

『ラスト・ナイト・エンド・デイドリーム・モンスター』は、いつものように山崎彬が豪速球を水面に叩きつける芝居ではあるのだが、そこにどんな太陽が照り付けて、どんな虹が他人に見えるのか何も考えちゃいない、むしろ教えてくれ、て感じが強く強く伝わってきて、俺があんまり苦手な身近な生々しい事件を扱う作風を続ける理由は、それだったんだということをまず一番に感じた。演出家が、出演者の良さを引き出せるように選定して、かつ演じるキャラクターの魅力を演じられる人を選定して、とするのは当たり前だが、特に今回の公演の前の二作が演劇に携わる者なら誰でも共感できるのに対して、今回は山崎彬の問題意識とそこから生まれた脚本の中のキャラクターに合致する人(あるいは出来る人)を招いてる感じがこんな感覚を俺に齎しているのかもしれない。過去二作の公演に比べるとキャスティング全体について「こいつの良さを引き出す」より「この人ならこれを出来てくれるはず」という信頼の比重が少しだけ多いように見えた。

センセーショナルな事件を演劇に取り入れるのは安易ではないか、そうして鼻白んでいた自分を恥じるより仕方がない。山崎彬は、ただ自分の生きている世界で起こっている他人の悲惨や理不尽に、同じ時代に生きる一人として想像し続けて、自分の考え抜いた結果を、同じように心を痛めてるかどうかもわからない向こう岸の人たちに虹は見えるかどうかと川面に石を投げつけて飛沫を立て続けていただけなのだ。

これは全て俺の妄想で、まるで出鱈目かもしれないけれど、俺の妄想はそんな形に落ち着いた。

自分がどうなったらどうしよう、俺の大切な人たちは俺がどうなったらどうなってしまうだろう、俺さえどうなればどうにかなるだろう、俺がどうなることを俺を大切に思ってくれる人たちは望むだろうか。

いつもなら考える「よくあるモチーフだな」ではなくて、俺が考えることはそれだった。

 

以上です。