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悪い芝居vol28『愛しのボカン』配信公演感想文

『愛しのボカン』の話をします。よろしくお願いします。ボカン!

 

あのー、悪い芝居というもともと京都を拠点に活動して今では東京の劇場での上演を主に行っている演劇団体があるんですけど。僕、一番最初に見た公演が今調べてみたら2008年で、それから一時期見れなかった時期を挟みつつも、僕が大阪在住なので東京のみでの公演に足を運べなかったことがありつつも、なんやかんや数えてみるとびっくり干支一周分以上ずっと応援してる劇団があるんですね。

まぁ干支一周分って書いてしまったせいで僕の頭の中では今中華テーブルに十二支の料理がグルっと乗ってる満漢全席が回ってますけどね。牛とか馬とか鶏とか明らかに食えるやつら以外は全部エビマヨと同じノリでマヨネーズ絡めてるだけだけどね。全然関係ないけどエビマヨってあれ中華料理なの?いつも「全然中華料理ですけど?」みたいな感じでメニューにあるけど、あれ本当に中華料理なの?中国ってマヨネーズあるの?少なくとも発祥の地ではない気がするけど。あと中国のキューピーちゃんは絶対もっと髭とか生えてると思う。

 

霊感体質の犬「わん!わおーん!わん!わおーんわんわんわん!わん!わん!わん!(こら!これから他人の作品の感想文を書いて褒めて応援してみんなにオススメしようっていう時に政治的なコメントをするなんてどういう了見だ!猟犬だけに!俺の犬種がイングリッシュ・スプリンガー・スパニエルなだけに!出てけ!俺のご主人様の体から出てけ!滅!滅!滅!)」

 

はい、僕の体から特級呪霊が祓われたところで改めましてこんにちわズイショです。ズイショさんのこのブログも干支一周とは行かずともだいたい10年くらいですね。ズイショという名前の由来は、もちろん「随所」で、アカウント名はzuiji_zuishoで「随時随所」。いたるところで、いついかなる時でも、存在していたりいなかったりする、どこにでも遍在しているような、そんなやつになりたいなという考えで自ら命名しました。それは、どこにでもいるありふれたやつって意味ではなく、悪いやつでも迷惑なやつでもめんどくさいやつでもいいけど、どんな時でもどんな場所でもどんな国でもどんな時代でも、こんなやつが一人くらいいたっていいだろう、そんなやつになりたいなってことです。そう思ったところでなかなかなれないけれど、なろうとしなけりゃなれるはずもない。そういう名前のズイショです。伊集院光さんのラジオで初めてネタが採用された時はラジオネームがカタカナのズイショだと意味もイントネーションもわかんなくてちょっと伊集院さんが困ってる感じだったので、それ以降は素直に「随時随所」で送ろうと決めました。あと、またちょっと話戻って申し訳ないんですけど、干支は何周記念みたいなのあんまやらないね。デパートとかは何十周年とかよくやるのに。丙午とかがその立ち位置なの?

 

そういうわけで、10年以上ものあいだ観るたびに、僕に単に刺激というには大きすぎる感銘と、自分の人生を振り返るより仕方ない時間と、誰かの胸に何かを突き刺してやりたい衝動と、人をリスペクトしたいし愛したいし何よりまっすぐに目を合わせて見つめ合いたい勇気とその心の根拠を与えてくれる、悪い芝居。その悪い芝居の最新公演、『愛しのボカン』の感想文を始めたいと思います。

 

そういうわけでも何も、ここまで全然関係ない前置きが長いよ。この無駄な前文より感想文の方がちゃんと長くなるのか自分でプレッシャーがかかってくるから。

なお、僕が見たのはWEB版の配信公演で来週の4月17日まではネットでチケット買ってパソコンでもスマホでもブラウザでいつでも見れるらしいので、この感想文を読む前に見てみるかという人も、感想文を読んでみてから見てみるかという気になった人も、是非是非見てみてください。

 

チケット販売してる直通URLはこっち

https://t.pia.jp/pia/event/event.do?eventBundleCd=b2203262

 

 

まぁ、まずそもそも演劇?お芝居?ってなんなの?なにそれ?って人が大半だと思うんで、そこをまず簡単に説明しなくてはいけないかなと思うんですけど。

まず、チケットを買いますよね。で、チケットを買うと、何時にどこに来て、どの椅子に座れっていうのが確定するんですよ。で、その決められた時間場所に出向いて、決められた椅子に座って、約束の時間を待っているとですね、目の前に人が出てきてそれは一人の時もあれば何十人も出てくる時もあるんですけどとりあえず目の前に人がたくさん出てきてなんかワチャワチャやります。で、そのうち目の前でワチャワチャやってる人たちがいなくなるんでそしたら帰っていいよってムードになるので席を立って帰ります。ただこれだけ。なにそれ怖っ!

たとえば音楽のライブとかみたいに感動した時、ひゅーひゅーとかありがとーとか叫ぶことも別にダメではないんですけど(上演中はお静かにしないとダメですけど)、今はいかんせんコロナ禍というのもありまして、どうしても拍手くらいしかできないんですもんね。そう考えると、アレですねコロナ禍においては芝居を見るっていう行為はもはやほとんど囚人の慰問ライブと一緒ですね。犯罪を犯して刑務所で罪を償いながら更生の日々を過ごして釈放の日を待ち焦がれる囚人たちを慰めるべく、ミュージシャンとか落語家とか、あとはよくわかんないけどハンドベルを練習してる町内会の奥様方とか、あとはなんだろウエスPとか?そういう人たちが刑務所を訪れて、社会復帰へ向けた単調な毎日を繰り返す囚人たちを楽しませようとパフォーマンスを披露するっていうことがよくあるらしいんですけど、囚人はなにせ罪を償ってる真っ最中で私語厳禁なんですよね、調子こいた自己主張とか言語道断、言語道断どころか発声禁止なので、パフォーマンスに対して拍手で返す自由しか残されていない。コロナ禍だと、芝居を見ようがライブを見ようが同じような有様で、つまり舞台・ステージに足を運ぶということはコロナ禍の現代において金を払って囚人体験をしにいくようなもんなんです。それでもいいじゃない、本当に俺たちなんてコロナ禍だとかコロナ禍じゃないとか関係なくいつだって生きることは囚人みたいなもんなんだから。声を発することも許されない。発したところでその声は誰にも届かない。それでも、何かを伝えたい、せめて拍手だけでもしたい、せずにはいられない瞬間が人生にはやってくる、その瞬間を作ったのはお前だ、お前が受けた衝撃はお前が呼び込んだもので、お前の人生を彩っているのはやはりお前自身だし、お前に拍手をさせてお前に賞賛をさせるお前を感動させた何かにはもちろん感謝とリスペクトを持ちながら、拍手をしたお前自身をお前が引き連れて明日に行け。そんなことを思わせてくれる、そんな芝居でした。

あ、もう感想入ってたんだ、びっくりー。

はい、そういうわけでね、いや感想入ったどころか終わったんだよな。終わったなー。ま、だいたいそういう芝居だったんです。勇気をもらえるというと陳腐ですが、自分が根を張る大地をひとつもらえるような、そんなお芝居でした。

 

この芝居は岡本太郎をオマージュというか下敷きとした作品で、作中にも岡本太郎の言葉をそのまま引用したり、明らかに強くインスパイアされた言い回しが数多く登場する脚本となっています。とはいってもそれはすべてオマージュとインスパイアであり、別によくある岡本太郎という人間の半生を描くとかそういう類なものではありません。ただ、岡本太郎という人間がいなかったら決して存在することはなかったであろう人間たちの物語で、それは岡本太郎という人間がいなかったら書かれなかった物語ということで、それはこれを書いた脚本・演出の山崎彬という人間の今は岡本太郎という人間がいなかったら無かったという証左であり、その山崎彬という人間がこの『愛しのボカン』という演劇を作らなければ、この俺が腕を後ろ手に縛られているので(すぐ乾燥した唇の皮を剥いで血まみれになってしまう癖が僕にあるので母親が愛ゆえに縛りつけているのだ)口に割り箸を咥えてひとつひとつ丁寧にタイピングして書いているこのテキストもこの世には存在しなかったし(割り箸の咥えてるあたりはもう血で真っ赤なのだ)、ここまで読んだあなたの今の心にあるいくつかの感情もなかったということだ。かっこを使う文章表現はShiftを押しながら別のキーを押すという非常に高度な割り箸2本咥えが必要になるのでもうやめたい。

岡本太郎の思想と言葉を多分に引用して含むこの物語は、言葉としてはわりかしに説教くさい。ビレバン御用達の岡本太郎語録、僕も大学に入った頃に手にとって読んだこともあったが、どうしてもサブカルチャーのファッションの一つに過ぎないように思えてあまり刺さることはなかったんだ。なんか、携帯についてるのが太陽の塔のストラップのやつとか嫌いだったな当時は。そして、今回の『愛しのボカン』を観て、俺は当時の僕の浅はかを恥じたし、そんな僕を恥じて悔い改めさせたこの演劇に脱帽した。岡本太郎の言葉は今でも変わらず説教臭く思うし、成功した年寄りらしい言葉のようにも感じる(岡本太郎は散々口を噤んでアートに身を捧げ、やっと成功した晩年におもしろへんてこおじいちゃんとして認知されて言葉を紡ぐようになったという見方があるのを知るのも観劇後だったが)。それでも、俺がそんな偏見とか自己見解を吹き飛ばして岡本太郎の偉大さを噛み締めさせられるのは、岡本太郎の思想を受け取って作られた、とんでもなく俺の心を揺るがしたベラボーな演劇が眼前に存在したからだ。俺はまだ岡本太郎のことを何も知らない。ただ、岡本太郎がいなければ今回のこの観劇体験はなかっただろうという確信はある。敵の敵は味方?いや、それはおかしいな、あ、あれだ、烈海王が死刑囚対決のなかで怒李庵海王に敬意を払ったみたいないやいいや、忘れて。忘れて。たぶん全然違うわ。

 

なんの話だっけ?そうだ、岡本太郎の言葉の引用を含むこの芝居は、テキストのうえではかなり説教くさい。そんな話だっけ。結論からいうと、しかし実際の演劇を見るとこれがまるで説教臭くない。不思議なことに。それはなぜだろうか。

それは、岡本太郎の引用の言葉を発する役者ないし演じるキャラクターが、岡本太郎に突き動かされて言葉を発しているだけで、なぜ自分がこんなことを口走っているのか、いつだって自問自答を求められているかのように演じているからだ。引用する言葉だけに留まらない、物語全体が岡本太郎の思想によって躍動されている。なので、舞台に立つすべての演者が、岡本太郎のことを考えながら、岡本太郎のせいで自分の口から飛び出ることになった与えられた言葉をどのように吐き出そうか、どのように生きようかを逡巡しながら演じざるをえない。そして、そんな状況を作り出した脚本演出の山崎彬もおそらく状況は全く一緒だっただろうで、岡本太郎インスパイアの作品を書こうとしたばっかりに、岡本太郎に常に見られているような感覚のなか執筆しただろうし、岡本太郎に書かされているような感覚で書いたのだろう。その結果、岡本太郎に言わされながら何を言わされてるか考えなくてはならない役者が生まれ、そして、そんな役者と舞台から何かを俺は受け取るのだ。と、一瞬勘違いしてしまうのだが、それは違う。

 

俺は舞台上の役者の台詞から何かを受け取ったわけではない。きっと俺もまた、岡本太郎から受け取ったのだ。

役者も、脚本演出の山崎彬から受け取ったわけではない。やはり岡本太郎から受け取ったのだ。

脚本演出の山崎彬も、、、、、?いや言い出しっぺのお前は誰から受け取ったんだ?それもやっぱり間違いなく岡本太郎から受け取ったのだ。

かくして説教くさい芝居は、説教くさい劇空間ではなくなる。

なぜなら、説教を実際にかましてくれてるやつは、劇場という空間には残念なことにかどうかは知らないが、どこにもいなかったのだから。

劇場という空間にいたのは、岡本太郎に説教されながら脚本演出をほどこした山崎彬と、岡本太郎に説教されながら演技をしていた演者と、岡本太郎に説教されていた観客と、あとは岡本太郎に説教されながら芝居を支えたスタッフさんしかいなくて、基本的に岡本太郎vsその場にいる全員だったのだ。これが演劇だ!と思った。俺は配信公演で見たから「生で見たかったなぁ」とは少し思ったけど、相手が故人なので生じゃなくても一員になる気分がサクッと持ててテンションあがったのはよかった(お前、死人が出てよかったって言ってるけど!?)。

 

この芝居は、演劇に足を突っ込んだ登場人場合たちが多い物語なのだが、それでもやっぱり普遍的な話の気がする。なぜ俺は生きるのだろう?俺は何をすればいいのだろう?俺は他人とどう付き合えばいいのだろう?いつでもどこでもつきまとう問題に思いを馳せている演劇であり、岡本太郎の言葉だと思う。答えはどこにもなくて、何が問題かを考え続けるしかないことを教えてくれる。考え続けることを忘れている自分に気づかせてくれる。そんな岡本太郎リスペクトの作品だったなーと思う。

でも、この作品、一番楽しいのは、そんな岡本太郎にリスペクトするやつなんかいくらでもいるし、そいつらが一つの集団になることなんて全然あるし、気の合う仲間、気心の知れる仲間、喧嘩はするけど話せる仲間、そんな可能性は当たり前にいくらでも存在するっていう当たり前のことを、そういう岡本太郎があんまり教えてくれなさそうなことをまず第一の念頭にやってるのが、本当に僕が同じ世界に生きていると思わせてくれる、この演劇の愛おしさなのだった。こんな岡本太郎との対話をみんなで試みるベラボーをやってみようと旗を振ってくれた、山崎彬の優しさなのだと思った。俺はそれが何より嬉しかったし、俺たちが楽しくやれるように俺もそうありたいと思った。

 

えーと、最後にネタバレなんですけど、ここまで書いたような内容を全部ひっくるめていろんなことを「ボカン」と呼ぶらしいです。これ読んだ人みんなほんとに見てね。ボカンと楽しい気分になれます。

 

チケット販売してる直通URLはこっち

https://t.pia.jp/pia/event/event.do?eventBundleCd=b2203262

 

 

じゃ、おなか空いたんでペヤング食べて寝まーす。血まみれの割り箸で。

以上です。