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2001年公開作品『モンスターズインク』のすごいところまとめ

20年以上前の公開当時から大好きな映画だったんだけど、そろそろ6歳も観れるかなと息子と一緒に10年ぶりくらいに観たらめちゃめちゃ面白かったので「すげえな」と思ったところを箇条書きっぽくまとめる。ポリコレ万歳主義ではないんだけど、そういうところを含めて先見性というか予言めいたところとか俺が20年の時を経ておっさんになって違う受け取り方ができるようになった部分も含めてつらつらと思いついた順番に書く。ネタバレ配慮ゼロで本編を観たことがある人向けに書く。細かいあらすじはかったるいので極力端折るけど、観てない人でも「へー!」くらいにはなると思うし、この作品が好きな人には「なるへそ」と思ってもらえるよう努めるが、観たことある人もない人も本エントリを読む前でも読んだ後でもいいから是非観てほしい真っこと素晴らしい映画であった。

 

・サラリーマンの話である

モンスターたちがモンスターだけがいる社会で暮らす世界で、人間界の子供を脅かして叫び声をあげさせることで電力的なエネルギーを得られるという設定で、子供を効率的に驚かせることで利益をあげる会社が舞台となっている。営業部のエースに相当する子供をめちゃめちゃ驚かせるのが得意なコワモテのサリーが主人公で営業サポートに相当するバディのマイクがもう一人の主人公である。

 

・外見における多様性を大事にしてる作品である

サリーは哺乳類、熊、猫、その他を思わせる毛むくじゃらの身体の大きな獣のようなデザインで、相棒のマイクは一つ目で爬虫類を思わせるぬめっとかしっとりとかしてそうな肌質で体も小さい。でも仲良くやっている。モンスターという大きな括りと会社の使命を全うする仲間という部分でアイデンティティを共有しているので、お互いの見た目とかをいちいち気にしない。他の会社スタッフのモンスターの造詣も色々ぐちゃぐちゃ。とても多様性。一方で一つ目のマイクは、受付嬢のメデューサを思わせる一つ目の女性を口説きにいっていて、「一つ目のやつは一つ目の女にいく」というのも今になって観ると改めて面白くて「相手の容姿で相手を否定したりはしないが、恋愛的感情を抱くのは自分にとって個人的に好ましい属性になるのはそれはそう」を描写していて良い。

 

・それでも差別や偏見は当然存在する

人間の子供のブーがモンスターの世界にやってきてしまうことから物語は二転三転していくわけだが、モンスターの世界において人間はおっかねえ存在でモンスター社会に存在してはいけない存在。お互いの違いすぎる容姿を特に気にしないモンスター社会においても忌避される人間という異物。結局これが差別や偏見の本質ではある。いくら多様性多様性と協調姿勢を強調して言ってもそれは結局その共同体における多様性であり、異物への嫌悪感や差別感情は世界中のどんな個人も程度の差はあれど内包している。だから順風満帆のバディであったサリーとマイクですら対立してしまう。サリーのブーに対する感情の変化もすごく自然な全く論理的ではない「絡んでみたらそんな悪いやつじゃないかもな、いいやつじゃん」によって齎されるところがとても良い。個々人において差別や偏見を乗り越えるのは理屈くさい対話ではなく、お互いをお互いに個として認め合う交流なのだろう。2023年の現実社会でも自分でその可能性に気づいて確かめるためにアクションを起こさないといけないのだが、20年前より多くの人にとってそれは難しいことなのだろうなと皮肉めいている。

 

感染症のパニックを扱ってる

モンスター社会においては人間の子供はなんかヤバい病気を持っていると思われており、人間の子供の靴下を静電気で背中につけたモンスターが帰ってきたら、即警報が鳴って防護服に身を纏ったチームに取り囲まれて、靴下は即焼却、靴下がついてた本人は馬鹿ほど消毒されて全身の体毛を丸刈りにされてしまう。当時はただのギャグと思って観てたけどアフターコロナの世界では皮肉めいたユーモアにしか見えない。人間の子供がモンスター界に入り込んでるらしいという報道がテレビで加熱して、目撃者とされる一般人が街頭インタビューであることないことを捲し立てるシーンも、コロナ禍を思い出すし、現代のSNSの嫌な感じを思い出すし、関東大震災でみんなで韓国人を殺していってた感じを思い出す。

 

・エネルギー問題の話でもある

作中の舞台となる会社・モンスターズインクはモンスター社会の電力を支えるインフラ企業でもある。つまり、世の中にとって必要な企業なのである。その大義名分と作中のキャラクターそれぞれがそれぞれなりの向き合い方をしている。自分の仕事の正しさに疑問を持つもの、大義名分を盾に事勿れ主義でやり過ごそうとするもの、大義名分を傘に不義理やコンプラ違反を行ってされを正当化しようとするもの、大義名分のため・社会のためなら多少の犠牲はやむを得ないと考えるもの。世の中のこと何も知らん若い時分に見た時はシンプルな勧善懲悪アニメと思って観ていたが、311やその後の福島の原発云々を知った今に観返すと、なんとも言えない感慨というか、予言めいたものを感じる(もちろんそれ以前にあったチェルノブイリを踏まえた構想なのかもしれない)。作中では最後、みんなが幸せになる新たなエネルギー源が見つかって終わるけど、現実にはそんなものは今のところまだない。

 

・もう一度、サラリーマンの話

出世のために、社会的役割を全うするために、悪事を許容するやつらが色々出てくる。サリーはブーと出会いそこに疑問を持つし、マイクは「今までどおりでいいじゃないか」とサリーを説き伏せる。今回改めて一番グッと来たのはサリーが子供を脅かすシミュレーションを実践したのをブーが見ていて、サリーがブーに怯えられるようになってしまうシーンだった。昔見た時は「今まで仲良くしてたのに怯えられたら悲しいね」くらいに考えていたが、今おっさんになって観るとあのシーンは「お前の仕事は子供に対して、他人に対して、胸を張れるか?」みたいに見えて思うところがあった。生きていく以上食いっぱぐれるわけにはいかないし、社会に必要な汚れ仕事もあるかもしれない。けど、それで本当にいいのか?お前はこれからもそのように生きていきたいのか?みたいなシーンに見えてグッとくるところがあった。先にあげた東電に限らず、最近だとビッグモーターがあったりとか、もっと普遍的に今の日本?先進国?の企業体質と会社員として生きるということ、全部含めてどうなんだみたいな話に見えた。

 

・イエティの存在

サリーとマイクは会社の暗部に触れて、口封じとして人間界の雪山に追放される。そして、そこで出会うおそらく過去同じように追放されたイエティがまぁ〜アホだけどいいやつ。そして、そういう風に資本主義丸出しのモンスター社会を追放されたやつが人間界でいわゆるUMAとして認識されている。UMAという存在は人間に怖がられたり追っかけられたり大変なご身分だが、彼ら自身が実は人間社会と変わらぬ効率を追い求めて極度にシステム化された資本主義のモンスター社会から追い出されたはみ出し者であるという設定はなんという皮肉であろうか。しかもイエティはちょっと間が抜けてるけど普通にいいやつ。社会の世知辛さ、そしてその社会から追い出されたやつは別のどんな社会にいっても異物扱いされてるっていうこの描写は大変に示唆的である。

 

・ブーが日本人(ないしアジア人)っぽいこと

ここまで、色々ポリコレとか社会問題を先取りしてて素晴らしいぞっぽい論調で書いてきたんだけど、そのうえでブーが少なくともアジア人っぽいキャラクターデザイン(あと、英語音声で観ると拙い日本語を喋ってる時がある)なのが面白くて。20年前なので、CG技術がたぶんというか当たり前だけど今より未発達なんだよね。で、2023年、AIの描くイラストが人間イラストレーターの職を脅かすだのなんだの騒がれてる昨今だと忘れちゃいそうだけど、昔は「不気味の谷」って言葉があったんですよ。コンピューターとか科学技術とかを使って人間っぽいものを作っても、なーんか人間じゃない不気味なやつになっちゃうからみたいな。ピクサーも実際、CG映画は虫とかオモチャとかモンスターとか魚とか車とかを題材にして、だいたい人間は悪役というか感情移入しなくていい「なんか怖い存在」として登場させてたイメージ。最初のトイストーリーのオモチャを魔改造する子供とかはその典型ですよね。その中で、ガチの人間を味方キャラかわいいキャラとして登場させるって意味でモンスターズインクのブーはめちゃめちゃ攻めてるんですけど、今改めて観ると、なんつーか、「これ白人黒人でやったら不気味の谷に引っかかるからダメだけど、アジア人の幼女なら、まあ多少不気味でも許されるっしょ」感があるんすよね。怒りはないんだけど

ここまで話した通り、ポリコレ含め色々配慮とか提言がてんこ盛りのめちゃ面白映画だと思ってるんすけど、絶対そういう理由でアジア人にしたでしょ技術力不足をそういう形でカバーする狙いっしょと思って「欧米人こいつめ〜!」くらいは言わせてくれよ、そこは言わせてくれよとなります。

 

・ともあれ一流エンタメ映画

あーだこーだ言うてますけど、ここまであーだこーだ言うたの全部気にしなくてもすごく面白い映画。一分一秒ずっと飽きさせないぞ!という気合を感じるし、実際に一分一秒飽きることなく終わる本当にすごい映画。モンスターズインクに一言なにか言うならば「俺は100点」なんですよ。久しぶりに観て初めて思ったことを書いたのであーだこーだになってますけど、本当にエンタメとして面白い。

自分の役割を全うしようとする言葉足らずの腕力も行動力も一流のやつと、そいつでうまいこと自分が恩恵を受けようとする口が回るやつとのバディものっていう様式も伝統美ですし、そこに異物がやってきて歯車が狂っていくなかでバディが喧嘩しながら互いに成長しながら最後までバディとしてお互いをリスペクトし合うのも伝統美だし、細かいユーモア、アメリカから他文化への投げキッス、伏線がぐるぐる回収されて、それまでの地味な設定の開示から当たり前のように始まる大アクションシーン、ゴールには別れしかないのにそこに向けて危険に立ち向かう矜持、本当にすべてが最高。いや、本当にオールタイムベストな映画ですわ、モンスターズインク。

皆さんも是非是非ご鑑賞ください。

 

以上です。

野田地図26回公演『兎、波を走る』感想文

MIWA以来何年振りか数えるのかもめんどくさい久方ぶりの野田地図観劇。

チケット争奪戦にヤキモキするのが面倒で「まあとりあえず一回は観たし」とずっと敬遠していたのだが友人がよろしく二人分のチケットを当選させてくれたお陰で2回目の野田地図観劇の運びとなった。

 

観た人が「ふーん」と思いながら読むことを想定しており、ネタバレへの配慮もなければ、観てない人向けの丁寧なあらすじ解説もない。そこんとこよろしく。

 

まあ、「いつもの」と言ってしまえばそれまでであんまりなのだが、しっちゃかめっちゃかの愉快な虚構を楽しくおかしく違和感と共にベタベタと貼り付けながら舞台は進んでいって、そして虚構をベロンと剥がせば違和感だけが残って、そのつぎはぎの違和感が作るシルエットはあるひとつの現実に起こった事象をまるっと立ち上がらせる。そんないつもの野田演劇。

 

「いつもの」飽きたよ、と言うのは簡単だが、それが本当に嫌なら野田地図なんかわざわざ観なくていいので、そこを突っつくのは野暮というか詮なしだ。一方で野田秀樹自身もそれだけではあんまりに直線的だと思ったのか、直情的に作劇した結果なのか、さらにもう一つメタバースの要素を足してくる。

ここが俺にはちょっと強引というか、作品として小さくまとめてしまったように感じられてしまった。メタバースVRアバターやAIや、ここらへんの取り扱い方がいかにもおじいちゃん的な感覚に思われるのは作ってる人が実際におじいちゃんなのだから仕方ないのだろうとは思いつつ、北朝鮮という自称ネバーランドとそのまま重ね合わせるのはいささかおじいちゃんの悪い側面が前に出すぎているのではないかと、観ていて座りが悪かった。

そういう、ある種の不満を感じつつ、この演劇に一定の説得力を持たせているのは現実と虚構を行き来する領域侵犯を試みる人間を否定するように立ち塞がるサイバーな赤外線を思わせる赤い紐、それに行く手を阻まれ絡め取られボロ雑巾のように死んでいく高橋一生、或いは『オイル』の時と同じように、楽観的に次の時代を目指して去っていく人々に取り残されて一人ぽつねんと立ち尽くす松たか子。信念の核以外は時代や環境やシチュエーションによって根こそぎこそぎ落とされたことを雄弁と示す彼らの身体性こそが、違った価値観を自由に行き来することなど人間には到底できもしない不条理と、それをできると信じ込んで進んでしまった人間たちも決して後戻りはできないという人類の歩みの不可逆性を物語る。

人間は正しいと思って前へ進む。間違っていたと気づいたなら引き戻せばいい。その時その時で正しいと思う道を選び直せば良い。

そんな現代的で合理的な考え方の甘っちょろさと机上の空論の虚しさを問い質すという形で、この作品における北朝鮮問題(拉致問題及びよど号ハイジャック事件)とメタバースという新しい世界作りへの諫言はなんとか接続して成立してたのだろう。

 

近年の野田秀樹の特に実際の事件事故事象を取り扱った野田秀樹作品に対してなんともコメントしにくいところは、作品のメッセージ性としては「みんなもうちょっと冷静になって立ち止まって落ち着いて考えてみようよ」がある癖に言ってる本人の筆が乗りすぎている。良いように言えばエンターテイメント性との両立を強く心掛けているし、悪く言えばはしゃぎすぎている。まあ簡単に言えば「落ち着けよと言ってるお前が一番落ち着いてない」と思うのだが、もちろんこれに「なんだかんだ感動して啜り泣いて、エンタメと消費している我々観客」みたいな、俯瞰で全部織り込み済みな野田秀樹すごいね、って落とし方もできないことはないんだが、さすがにそれは野田秀樹を甘やかしすぎなんじゃねえかなと思わないでもない。本作にしてもフェイクスピアにしても遡ればキャラクターにしても、太平洋戦争を扱うのと同じ手癖でやるには、ちょっと焦りすぎなんじゃねえかなとは思う。でもまあ、ジジイに生き急ぐなって言ってもそれは無理な話なのかもしれないとも思う。

ともあれ、現在進行形の事象であればこそ、いつものノリでびっくり箱の中にしめしめとエンタメ爆弾として隠しておくいつものやり方で扱うにはどうなんだと微妙な気持ちにはなりつつも、まあ問題意識は腑に落ちた。

実際の拉致の現場を描いたシーンの気持ち悪さ、やりきれなさったら大したもんで。思い出したのは、俺が子供の頃、20年以上前のことだろう、とある都市伝説がまことしやかに流布されていたことを思い出した。中国だか東南アジアだか、観光旅行に出向いた若い女が現地のショッピングモールの試着室に入ったきり、姿を消してしまい、その女は両腕両脚を切り落とされたダルマ女として、今もこの世界のどこかの見世物小屋に晒されているのだ。そんな都市伝説に頼るまでもなく、一人の人間の人生を大きく台無しにする不条理なんざ実際に蔓延っていて、そしてその不条理は未だなんの精算もされないままただ今もそこにあり、そしてそんな現実には目配せもしないまま、今も我々は都市伝説とさして変わらないあれこれに怯えながら新天地を求めて魍魎跋扈する次の時代に飛び込もうとしている。そんな現代人の千鳥足に対する警鐘はさすがに俺だって聴こえた。鐘を叩いてるのがおじいちゃんだったので、多少うるさすぎるきらいはあったが、それが聴こえないほどこちとら馬鹿じゃない。

最後、松たか子が一人になって終わった。これは実に歪なラストである。世の中がどれだけ歪に捻くれようとも、最後に共にいる人を探す権利は誰にだってある。俺にだってあなたにだってある。俺は松たか子ではないから、どれだけ世界に取り残されても、隣にいる誰かを想像できるかもしれない。抱きしめ合うことができるかもしれない。そしてその一方で、その権利すら奪われる不条理がこの世にある。それが堪らない。「私がその当事者だったとしたら」を思わせるという意味では、過去の野田地図作品と比べても、本当に抜群にとても後味が悪かった。ので、良かった。

 

以上です。

ネタバレ配慮ゼロ『君たちはどう生きるか』感想文

なんも考えずテキトーに思いつくままぽつぽつと書きます。

 

ボスラッシュ面みたいなセルフオマージュの嵐というか、集大成というか、走馬灯というか。「いやー観た観た」という感じになれたので俺はとても良い気分になった。俺の倍以上生きてるジジイがこんなんやってるんだから俺もまだまだへこたれちゃいれねえなと有り難く思った。面白い面白くないは人それぞれで良かろうとは思うが、現時点で見かける感想の「面白くない何故ならこういうところが全然ダメ」みたいなやつには「いいや、こういう意図でやってるんだよ、そんなこともわからないのか、何もわかっちゃいない」とまでは言わないが「そこはたぶんこういう意図でやってるんじゃないかな」と言える程度に特に破綻はなかったけどなぁ、くらいは思う。今更、ジジイの宮崎駿に時代性に即したアップデートなんざ求めてる方がどうかしてるし、もはや作家性くらいしか求めるところはない。まあポニョの時とか「こんな時代だからこそ」みたいなこと結構言ってた気がするのでその観点から酷評されるのは仕方ないかなとは思う。そういう意味で俺は宮崎駿を「いやー観た観た」の気持ちになれたので良かった。

 

引退作として『風立ちぬ』やって、やっぱもう一個やるって言い出したってことはたぶんラピュタみたいなものをやるんだろうと踏んでいたので最初の方は「え、これまた風立ちぬみたいなやつ!?」とめちゃめちゃ心配にはなった。でもまあその後ファンタジーとアドベンチャーに飛び込んでくれたのでほっと胸を撫で下ろしたわけだが、じゃあ本編までの導入がかったるい風立ちぬのセルフオマージュの意味しかないのかというと勿論そんなわけはなく、と俺は考えており、毎日元気に早起きして元気よく飯食って元気よくラッパ吹いてたら女の子が空から降ってきたみたいな、現実ってそんなもんじゃねえよ、そんなみんな毎日元気良くやれねえし色々あるんだよって感じで終わってみれば必要な長い導入だったなと思う。

いきなり乱暴で個人的な話になるんだが宮崎駿作品についてよく思っていたのが、あくまで通過儀礼・イニシエーションとしてのアドベンチャーであって、意外とジブリ主人公って精神的成長そんなしてないよなーみたいなところがあって。もちろん乗り越えるべき試練をみんな乗り越えるわけだが、それは時が来たからであってみんなその時がいつ来てもいいように備えていたというか、シンプルに人間ができていた。パズーもさつきも宗介も千尋も、みんなびっくりするくらい人間ができている。彼らが経験する冒険は、自分は大人になれるという「証明」のための冒険であり「成長」のための冒険ではないっぽいなーみたいなことはずっと思ってて、それと比較すると今回の主人公はめちゃめちゃ「成長」のための冒険をしていて、ラッパ吹いてたら女の子が降ってくるとかじゃなくてかったるい人生が少年なりにあるんだよ、みたいなことだと解釈した。そして、それでいうとハウルというジブリキャラクターが割と異色で、色んなことをどうこうする力を持っていても精神的に未熟な青年(?)が精神的に少し逞しくなる物語だったので、同じように「成長」のために冒険する少年を何も知らないままただ自分なりの眼差しを向ける父親役としてハウルを演じた木村拓哉に白羽の矢が立ったのは合点がいった。というか、この展開で木村拓哉が父親ならたぶんそういうことだろう、冒険がちゃんと始まるだろう、と安堵した。

君たちはどう生きるか』というタイトルとどれくらい紐づけていいのかわからないが、主人公はとにかく与えられてばかりの主人公にしたかったんだと思う。たぶんそれが主人公的にも生きてて面白くなかったんだと思う。正確には、与えられることを当たり前に考えていた主人公が、空襲によって母親を奪われて、「奪われる」ということを知って、なおかつ新しい母親も新しい住処も与えられつつ、しかし一度奪われたものは二度と取り返されない与えられないその不条理を知って、そっぽを向いて、しかしそのそっぽの先にも何もないみたいな、そんなどうしようもないやつが手放したくない何かを探すためには冒険しかないよねー、みたいな。ざっくり言うとそんな話だったんかな。

セルフオマージュボスラッシュは語るとキリがないし鬼リピして網羅して紹介する人がすぐにネットに出現すると思うので割愛するけど、俺あんま宮崎駿知らないんだけどカリオストロもちゃんとキャリアにカウントしてくれるんだ!と嬉しくなった。後半に傾くに連れて身体能力がアップして躍動する主人公、そいつが姫を助けるように幼い母親を助けに行く、あそこすげえカリオストロで「そこもやってくれるのね〜」と嬉しくなった。もひとつ嬉しかったのが、再開シーンで二人が抱き合うところで、普通に抱き合ってた。カリオストロのルパンはクラリスを抱きしめることができなかった。何故ならクラリスはまだ幼いからすぐ良い男に靡いちゃう女で、ルパンはそのことをよく知ってるおっさんだから。でも、主人公と幼い母親は気兼ねなく抱き合うことができる。ここは異論あるだろうが、苦難を共にした友達だからだ。俺は全体通してここのシーンが一番グッと来て、「母親もしょせん他人で、他人同士として親愛の情を結ぶことができる」みたいな話だと思って、「お前それ分かるのに80年かかったなぁ!!」て笑い泣きしちゃったんだよね。

鈴木Pももちろん変な人なんですけど、その人がなんかで高畑勲をモデルとしてるっぽいキャラがいるみたいなことを話してるらしくて、映画を観た後だとそれって絶対青鷺じゃんと思って、ポスターのあの鳥めっちゃかっこよかったじゃん。でも本編では全然かっこよくない変なやつで、それもよかった。いや、みんな高畑勲すげえすげえ言うてますけど、あいつひどいっすよ実際は!みたいなやつなのかと思った。ただ高畑勲がひどいやつなのは別にみんな知ってる。

あとはなんかあるかな、インコな。かわいくないな!キャラグッズやる気ないの!?他の出てくる鳥全部、丸呑み系の鳥だから、わざわざ刃物持ってるあいつら、内臓が軟弱なあいつら、砕いて解釈するしかないあいつら、たぶん人間の対比(追記。対比はおかしいな、丸呑みする鳥の中で唯一調理を試みる丸呑みできない鳥としてインコが登場しているのはおそらく、人間に近い存在として設定されていて、それは人間と食との関係でもあり、人間とフィクションとの関係も意識されていると思う。丸呑みはできないし、できないのが人間の良さでもある。切り分けて咀嚼して必要なところだけを受け取る。それは弱さでもあり強さでもある。また、賢さでもあり卑しさでもあり、誠実さでもありずるさでもある。そういうところが人間らしさなんだろうという前提であり、人間らしさのメタファーとして、インコが採用されたのだろう)なんでしょうね。

以上です。