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批評をするうえで心がけたいこと

作品を馬鹿にするだけの批評が面白く感じられることはそりゃまぁある

でもそれってたぶん本当はそんなに面白くない

批判的な腐す批評はカウンターとしてならあった方がいいだろうなと思う

俺も「世の中的にはみんな大絶賛だけど俺は全然納得いってないけどね、つまんなかった」みたいなことはたまによく言う

でもただのつまんない映画を批判してアテンションを集めるのはつまらないと思う

俺が批評したい時は常に他の奴らのアテンションが気に食わない時だ

ただの面白い映画をめちゃめちゃすげーって騒いで盛り上がるノリも商業的には必要なのかもだがつまらないことも多い

コンテンツを面白がる層は「党派性とかじゃなくて、面白いものは面白い!面白くないものは面白くない!」てノリでいたいんだと思うけど全然できてないと思う

SNSには一人でカーテン締めて膝を抱えて暗灯りのなかブラウン管で映画を観てつまんねーなおもしれーなと考えてたことを忘れてた奴らが多すぎる

おわり

『ゴールデンカムイ』大リスペクトハチャメチャ勢い感想文

※最後にこの一行の【数字のところ】を埋めて公開ボタンを押すのですが、書き終えた結果全体で【16,309】字くらいになりました。飲み物とか用意してからゆっくりあったかくして読んで下さい。

 

読んだ!?みんな読んだよね!?

ゴールデンカムイ、めちゃめちゃ面白かったよね!!おじさん今年36になるんだけど、最近はめっきり漫画に触れる機会も減っちゃってさ、サブスクの配信サービスとかは色々登録してるし色々観てはいるんだけどそこまで心揺さぶれるかっていうとあんまりそういうことも減っちゃって「面白かった」「あんまりだった」以上のことってなかなか無くてさ、よく聞く話で結局若い頃のときに刺さったコンテンツがオールタイム・ベストになったまま歳を取っていくしかないんだねみたいな話を聞いたことがあって、そういうもんなのかなと思ってたんだけど。

ゴールデンカムイに関しては、36歳でこんなに心を揺さぶられて感情移入させられる漫画体験ができるなんて夢にも思わなかった。ありがとう!ゴールデンカムイありがとう!野田サトルありがとう!

そういうわけで今回は全員読者は本編ゴールデンカムイを読んでる前提のネタバレ全開大前提で、かつ、まぁすでに話題沸騰でいろんな人がいろんな論評や考察をしてるしなので、大方は端折って本当に「俺も語りて~!ここは自分の言葉で喋らせてくれ~!」っていうところだけピックアップして語っていく感じなんですけれども、繰り返しになりますがネタバレ全開でたぶん実際に漫画を読んでから見た方がいい文章にはなると思いますので、漫画の方を読む予定の人は回れ右な!回れ右!はい、ネタバレ回避したい人が回れ右して帰るまでの待ち時間は、ゴールデンカムイには厳密には関係ない、僕の北海道にまつわる思い出話でつなぎます。

 

まぁ僕自身がですね、北海道の出身でして、大学進学を機に関西に身を移しました。それで、これ内地(道民が主に本州・その他北海道以外の都道府県のことを内地と呼ぶ)に住むようになった道民あるあるなんですけれども、まず第一位が「北海道出身だと自己紹介すると修学旅行で行ったか行ってないかを教えてくれる」、これがまー、あるあるです。なんでそんなこと教えてくれるんですかね?京都の人は絶対いちいち教えられないと思うんですよ。広島の人たちもいちいち修学旅行で行きましたとか言われないでしょう。なんで北海道だけはみんないちいち教えたがるの?まぁ、遠いからなんでしょうけど。

それで、第二位が、とりあえず「いいですね~」みたいなことを言われる。雪いいですね、大自然いいですね、おおらかでいいですね、色々言われます。で、僕が本当に関西に出てきてすぐの一番それを言われてた時期、もうそれは15年くらい前の話ですから、当時はまだ自虐も皮肉もdisも今より遥かに言いやすい時代でしたから、僕は北海道を褒めて旅行したい住みたいなどと言う人にはこんなことを吹聴していました。

「いや、雪あるのいいよね羨ましい、簡単に言いますけどあんなん非日常だからいいんですよ。観光で行くからいいんです。ディズニーランド楽しいけど家に毎日ミッキーとミニーとドナルドとデイジーグーフィーが家にいたら嫌でしょ?絶対邪魔やしテンション高めで五月蝿いし嫌でしょ?誰を一番先に帰しますか?答えなくてもわかります、目を見ればわかります、グーフィーでしょ?絶対グーフィーですわ。消去法じゃなくて普通にまずグーフィーって。それと同じで、生活に雪があるのすげ~邪魔。だいたい北海道なんてね、そもそも人が住むにはあまりに大変な場所なんですよ、大雪は降るわ、めちゃめちゃに寒いわ、バッタが出たら農作物も食いつぶされて、そこらへんはヒグマがうろうろしているし何よりどこそこ山だらけ、経済も交通も何もかも発展した現代でも車で1時間2時間移動しないと街らしい街と街らしい街を行き来できないくらい人が住めるところが限られてる。めちゃめちゃじゃないですか。で、更に北海道に移住した人々っていうのはね、そんなところにわざわざ出てきた人たちなんですよ。こんな住みにくい土地に「新天地だー!」つって来るなんてね、どうせ内地に何かうしろめたいことがあったどうしようもない奴らなんですよ。僕の先祖もどうせそうなんですよ、道民の血脈なんてね、みんなどうしようもないに決まってるんです。だから道民のいわゆる県民性?みたいなものもね、アメリカみたいなもんです。移民の集まりで、歴史が浅いのがコンプレックスで、でも一人ひとりはなんとか生き抜いて生き抜いて今を勝ち取った奴らの集まりですから、プライドだけは高い。コンプレックスは強いしプライドも高い。こんなタチの悪い奴らなかなかいないですよ。でもね、そんな奴らが頑張って、みんな家族も仲間も大事にするし結束心だけは強いですから、そうして畑作・畜産・酪農を発展させて、ニシンは獲れなくなったけど、ラーメンとかスープカレーとかよくわからないぽっと出のメニューを北海道名物とか言い張って、今の北海道があるんですわ、みなさん引き続きそんな北海道をよろしくお願いします」と。

今の時代はもうちょっとマイルドに言わないとダメですけどね、15年前の言い方なんで勘弁してほしいんですけども、北海道なんてそんなもんですよそんなもん。今はもうそんなことなかなか言えないけど、時代が変わったから言えないけどもと思っていたら、この俺が20歳前後から使ってたそんな北海道への愛憎入り交じった地元自虐dis、それを良い部分も悪い部分も全部混ぜこぜの闇鍋にしてこんなエンターテイメントに昇華させる漫画が出てくるなんて、当時20歳の俺に教えに行ったらさぞやびっくりすることだと思います。

今回はそんな漫画、ゴールデンカムイの感想文です。ここまでで既に2300字!やっと感想が始まるよ!みんながんばれ!

 

まー、本当にどえらい漫画だったなぁ。ストーリーそのものの壮大さも後になって各キャラの過去がどんどん挿入されていく構成の難解さも非常にガチャガチャしていて、そのくせ突拍子のないユーモアや大丈夫かよくわかんないギリギリのセーフともアウトとも言う気が起きないギャグをポンポンと交えながら描く一大叙事詩あるいは大河ドラマとも言えるような、そんな作品でした。作者もキャラもやりたい放題の本作をここまで読んでて手放しに熱狂できる作品たらしめたのはやはり作品全体の通奏低音とも言えるテーマが一貫しまくってたからなんだろうなぁとは改めて思います。その通奏低音とは何か、「そのように生きるより仕方がなかった人たち」ばかりが溢れかえって描かれていることが何よりこの作品を支えた背骨だったと思う。

何につけてもまず、杉元と第七師団という日露戦争の生き残り組がいます。それぞれに様々な事情を抱えて戦場にその身を投げ出して、生きて帰ってきたものの手元に残ったものは何もなし。なんとか生き延びて地獄のような戦地から日本に戻ってきたところでそこには取り戻すべき日常も、帰るべき故郷もない者たちばかりでした。僕もゴールデンカムイを全話無料公開のタイミングで読み始めたクチではあるのですが、このゴールデンカムイの大団円に向かうタイミングがウクライナ侵攻と被ってしまったというのは非常に複雑な気持ちにさせられるところがあって、戦争は人の人生を狂わせるばかりで本当に無いに越したことは無いものであるんだなと、現実と結びつける形で頭を過ぎることが読んでる最中に何度もあった。しかしまぁ描かれている時代がそもそも戦争を肯定する時代だったという側面は事実としてあるとしても、彼らは決して望んで率先してそうしたわけではなく、それは今の時代でもなくなっているとはとても言い切れない理不尽な運命の連鎖によって彼らの戦争に駆り出されていくことが必然となるし、その先の未来も無ければ帰る場所もないなかで金塊争奪戦にも身投げのように臨むに至るのである。彼らは誰も殺し合いなぞしたくはなかったし、金塊なんか誰も本当は必要としなかった。ただ、「そのように生きるより仕方がなかった」、そんな境遇の人たちだったんだろうなと考えます。

そして、それと対になるようにもうひとつの「そのように生きるより仕方がなかった人たち」として際どい冗談混じりにずっと描かれていたのが、刺青を背負った網走監獄からの脱獄囚なんだろうなというのも鮮やかな構図として捉えられます(あとまぁ江渡貝くんとかも)。ほとんど全員、伊達に網走監獄に収監されてただけあってアンモラルなクズばっかりであるのは間違いないんですが、彼らはみな社会のモラルと自分自身の生来のあるいは生まれ落ちた環境に起因する性根と衝動に基づくプライオリティが乖離してしまっていて、そんななかで結局人から何かを奪ったりとか誰かを殺したりとか決して許されない形でしかできない自己実現を目指して懸命に生きようとした人物たちとして作中で描かれているように感じられます。不謹慎ギャグっぽい描き方が多いですが、むしろ作者の意図は真逆で、美化しすぎると不味いのでギャグにしておこうというバランス感覚なのだろうなとも思われる。

ゴールデンカムイの作品世界は明治初期の北海道ですが、自分の生き方を誰もが本当の意味で自由に選ぶことなんてできっこないことなんて、令和の現代でも実はそんなに変わりはありませんし、いつの時代だってそれはそう。人類史ずっとそう。その命題に向き合って「そのように生きるより仕方がなかった人たち」をこんなにたくさん人が死ぬ形で物語として紡いだことは真っことにすべての先人に対する鎮魂歌たりえると思うし、同時にそのように生きるしかない人々がどちらが前かを自分で決めて己の足で前に進む物語を紡ぐということは真っこと今を生きるすべての人々への人間讃歌だなというのが率直な感想だ。*1

これは、僕の考えたやつじゃなくて、ツイッターで誰かが言ってたやつで、なんかリツイートでタイムラインに流れてきたやつなんでURLわからんから的確な引用じゃないし引用元不明で申し訳ないんですけど、ゴールデンカムイは「帰る場所(故郷)」と「還る場所(死に場所)」を探す人たちの物語だみたいなの見かけて、これはすごいその通りだ、うまいこと言ったなというか作品世界を的確に言い表してると思って感心したんですけど、本当にこのまんまだと思う。みんな生きる意味を失って生きる意味を追い求めて死に場所を探してる、そのうえでそれぞれの結末や未来が待っているっていうのは繰り返しになるけど鎮魂歌だし人間讃歌だなーと思うんです。ほんで、そういう通奏低音を踏まえたうえで、食べて感謝ヒンナヒンナをずーっとやってたのもすごくアクロバティックな構想だったなー。人間みんなどう死ぬかを考えるし、それって死んだ後に何を残せるだろうかってことだろうし、そして残してくれたものにどう向き合おうかという遺された側の話にもなってくるし、つまり豪快グルメギャグ漫画としていろんな動物の命を美味しく頂いてヒンナヒンナし続けたことで、主要キャラがバタバタと死んでいく終盤においても、その全ての死が未来に向けて誰かのために繋がっていくその感覚を読者は既にこの漫画から十分に学んでいるので、強気すぎる疾走感のまま大円団に向かって走り切ることができたのだろう。

 

各キャラについて語りたいことはたくさんあるが、全部を話すとキリがない。良かったキャラについて思いつくままボロボロと喋っていきたい。

 

まず、第一に、俺はやっぱり土方歳三について話したい。創作上の土方歳三史なんてものがもし仮にあるとするなら、間違いなく以前以後の基準になるだろうカッコいい土方歳三だった。

俺、一回函館に旅行に行ったときがあって、で、ゴールデンカムイでも大事な舞台となる五稜郭に行ってみたら「五稜郭って本当に星の形をしているのよ」って見せるために外観を一望できる五稜郭タワーとかいう展望台みたいなものがあってさ、そのてっぺんにいこうと思ってそのタワーのエレベーターに乗ったら壁にでっかく土方歳三の辞世の句が載っててさ、「たとえ身は蝦夷の島根に朽ちぬとも魂は東の君やまもらん」だってさ。その時の俺の解釈では「なんやかんやあってわけわからんクソ田舎の北の最果てで死ぬことになってしまったけど、俺がなんでこんなメにあってるかというとお前のためだ、俺の魂はどこにいたって東のお前と共にある」みたいな感じなのかなと思っているんだけど(この東の君が、近藤勇なのか、江戸幕府将軍様なのかはたぶん諸説分かれるんだろうけどあんま詳しくないので知らん)、それを見た10年くらい前の当時の俺は、望まない死を望まない土地まで流れ流れてやむなく迎えて無念を抱えて死んでしまう強い志を持ったお侍さんが今こうして死後も函館という土地で客寄せパンダとして利用されて「こんなところで死ぬなんてな」と辞世の句を読みながらも今は「土方と言えば函館!よろしく函館!」と言われている現在が気の毒すぎて爆笑してしまった。が、そんな10年近く前の思い出があったからこそ、実は死んでいなくて、志を何一つ曲げることなく、老獪なバラガキとして金塊争奪戦に邁進するゴールデンカムイ土方歳三には胸を鋤くような思いであった。開拓民の土地が舞台ということで誤変換はそのままにしておきましょう。

実は生きていた土方歳三が再び、自身の志と日本という国のために自分がやるべきことをやる。こんなん面白いに決まっているじゃない。土方歳三を描いた作品は数えてみれば枚挙に暇がないであろうが、俺のなかで一番の印象に残っているのは残念ながら(嫌いな人もいるだろうけどすいませんという意味で)三谷幸喜の書いた大河ドラマ新選組!!』だ。このドラマでの新選組についてのイメージを自分で振り返ると、なんか盛り上がった若者たちが結託して立身出世を目指してみたらなんやかんや出世してしまい、時代の中心に食い込みすぎてしまい、最初の理想も青春の思い出も何もかもを天秤に掛けなくてはならない決断を迫られ続け、かつての仲間を切り捨て、仲違いもしながらそれでもどうなるか全くわからない未来に向けて突き進むしかない、そんな調子こいた大学生たちが作ったベンチャー企業みたいな連中だったんだろうなと俺は認識しているのだが、そんなあたふためちゃめちゃな組織をどうにかしようと自分自身浮かれた大学生レベルだったくせにとんでもない重圧のなかで一丁前の指揮官の顔をしなければならなかった男、それが俺のなかでの土方歳三のイメージだ。あと、土方歳三の面白い話でいうと「しれば迷いしなければ迷わぬ恋の道」という句もある。恋は大変という、それだけの、とてもダサい句である。「それはそうだね」とも思うが、逆に言えばわざわざ句にして残すまでもない、自明の理のことをわざわざ残すことをキザだと思ってんのか?んー?というとてもダサい句だなと俺は思う。けど、そんなダサい句をキザったらしい顔で残してしまう土方歳三はやっぱりチャーミングだ。自分の志や感性に嘘をつかずにそのままカッコをつけて、そういう生き方をしたかった男なのだ。しかし、自分を取り巻く世界というものは決して自分の思う通りにはいかず、自身を翻弄する大渦となる。ロマンチックで自信家で、日本のために自分にできることをしたいと実直に望み、そんな自分を誰より信頼してくれる近藤勇という大将を持った土方歳三が、何も果たせず敗れ去り自身の生を終えることはどれほどの思いであったであろうか。俺は五稜郭タワーのエレベーターで彼の辞世の句を見て爆笑しながら彼の生涯を偲んだ。

そんな彼が実は生きていたというフィクションがゴールデンカムイの中であって、そのフィクションの中で彼はジジイになっても変わらず躍動している。土方歳三の死は若すぎた。だって、もう今の俺より若いんだぜ!?彼は大学あがりのベンチャーの感覚で日本の転換点となる動乱に身を捧げるより仕方なかったし、だからこそ死ぬほかなかったんだろう。そんな彼を創作の上で、北海道の監獄に囚人としてずーっと閉じ込めて、土方歳三ジジイを爆誕させたゴールデンカムイやっぱりありがとうなんだよな。ここまで書いたことを踏まえても、俺にはあの土方歳三のリアリティが本当にとてつもなくリアルなんだ。俺の知っている、とても青臭い土方歳三。馬鹿みたいな恋に悩む歌を書く土方歳三。うっかり築いてしまった新選組という場所を守るために鬼の副長になるしかなかった土方歳三。最後は国に追われる土方歳三。そいつが、監獄に閉じ込められて、何十年かしらないけどクソほどたっぷりある時間を費やして自分のそれまでの人生を振り返り続けて、さぁ脱獄だ自由の身だどうしようってなった結果があの土方歳三って、そんなもんめちゃくちゃカッコいいじゃないですか!史実では箱館戦争で死んだはずの土方歳三が黄金争奪戦に、日本の未来を描いて参戦するっていうのがそれだけでめちゃめちゃ良いですよね。経緯も動機もいいし目的もめちゃめちゃいい。そして死ぬ。歴史のうえからもう一度いなくなってしまう。それを最後まで悔しがるのもいい。託すものは託すけど、それで満足ではなくて無念は残るのが、すごく土方歳三。いくつになっても男子は刀を振り回すのが好きだろう?もっと振り回していたかったのだろう。

 

はい、次、尾形!尾形百之助!初登場時はいきなり罠にちょろっと引っかかって「なんだぁ!?」と素っ頓狂な声をあげながら銃を失ってナイフ一本で杉元に挑む羽目になってまるでモブかのようにボコボコにされた尾形百之助!!よくよく読み返すと最初に刺青脱獄囚を長距離スナイプでこめかみ射抜いて一撃死させてるんで山猫キャラはまぁ最初からあったんだとは思うけどその後の「なんだぁ!?」の印象が強すぎて、再登場後のクール山猫キャラが急なキャラ変に見えて客にこっちが恥ずかしくなっちゃった尾形百之助!!お前、そんな大人気キャラになるやつやったんや!!藤井風とかと中学同じだったやつとかも今こんな感じなのかなぁ!?

尾形は、とりあえず殺し合いが好きだったんだと思います。冷酷無比に敵を殺して生き残る、そういられる自分が好きだと思ってるしそういう自分でありたいと思ってるしそうあらねばならないと思ってるからこそ、そもそも殺し合いそのものが好きなのはひとつの本心だったろうし、だから一緒に戦ってくれるやつら(敵味方問わず)というのも、そんなに嫌いじゃなかったんじゃないかなーっていうのが俺のイメージする尾形。だから、杉元も嫌いじゃないし第七師団の面々も(鯉登あたりはちょっとわかんないけど)嫌いじゃないし土方陣営の面々も別に嫌いではない、むしろ自分と同じ闇を抱えているみたいなところで繋がりを感じてすらいたようにも見える。「そう生きることしかできなかった」という意味では登場人物のなかで誰よりも極端で、殺し合いの中に身を置くことこそが何より生を実感することになるし、殺し合いのなかでしか人との繋がりを感じることができなかった男、その闇の深さと儚さからたぶんめちゃめちゃ二次創作で小説を書かれているであろうことが想像するに容易すぎる男、尾形。長距離スナイプ合戦を繰り返し続けるだけでたぶん生涯半径100m以内で接触したことが全くないロシア人スナイパー・ヴァシリとのカップリングとかあるんだろうか。半径100m以内で接触することがない二次創作があるなら読んでみたい。しかし、「殺し合いに身を投じてでもこのように生きるより仕方ない」同じ穴の貉みたいな謎の絆が敵味方の垣根を越えて感じずにはいられずテンションを上げさせられてしまうゴールデンカムイにおいても、お互いの背景も何一つ知らないまま同じスナイパーとして互いを認め合い殺し合うという繋がりだけでこれだけ多くの人を沸かせる尾形・ヴァシリの関係性は、割りと漫画全体を通しても象徴的なのなのかもしれないとも素直に思う。

で、終始生き生きと金塊争奪戦の殺し合いに参戦し続けた尾形の最後なんですけど、結局尾形っていうのは自分のために生きるしかなかった男だったなぁと思うんですよね。自分にとって利益になるように生きるっていうのとはちょっと違うくて、なんかうまく言えないんだけど自分のために他者を蔑ろにするように生きることを自分自身に課してしまっていたのが尾形という男で。で、それが最後ああなったのは、結局、あの最期が、彼が山猫として生きるようになってからの半生でほとんど唯一の他人のために生きようとした結果なんじゃないかなと思ってて。このまま自分が毒で死んでしまったらアシリパを人殺しにさせてしまう、そうはさせないために、アシリパという他人のために今自分が取るべき行動がたまたま自害だった。尾形はなにも最後自分の人生を悔いて憎んで捨て鉢になって自害を選んだわけでもない、むしろ血に塗みれる日々のなかで人とのつながりを知り、自身の生を満喫して、そしてその先の今際の際で少しくらい誰かのために行動してみようかなと思って、ずっと自分を縛り付けてできなかった他人のための選択がたまたま自害だったんだろうみたいな、俺の中ではそういう解釈になっている。もちろん死の際だからそういう結論に至ったのかもしれないけど、最後にひとつ「誰かのために自分がそうしたいと思ってそうする」をできたってのは尾形というひとりの人間が自分の人生に落とし前をつけられたんだなーってことで、金塊争奪戦に参加して一緒にご飯食べたり殺し合ったりする友達がたくさんできて良かったね、って感想になる。

 

で、ある意味、尾形と対になる存在として描かれてたのが谷垣なのかなー。最後の最後の直前まで自身の人生で背負い込んだ呪縛を行動原理にしていた尾形とは対照的に、谷垣は二瓶と出会って以降ずっと第七師団の一員としてロシアに乗り込むまでに至った自分の半生を少しずつ精算しながら他人への恩や感謝を通じて生きる意味や戦う意味を改めて獲得し続けている。「そう生きる以外ない人間たち」の物語のなかにありながら「人間が絶対に変わることができないなんてことはない、やり直すことはできる」という最終盤までほんの1ミリの一つもないとさすがに読者としてもしんどすぎる作者が描きたかったもうひとつの大切なメッセージを作品としての長い道中のなかでちまちまと提示する役割を、谷垣ニシパが一手に引き受けていたといっても過言ではない。谷垣ニシパの「再生の物語」が主旋律となるメインストーリーの隣で常に伴走していたからこそ、この漫画がよくよく考えれば過酷で息の詰まるような苦しいストーリーラインであるはずなのにスルスルとワクワク読める仕上がりになってるのではないだろうか。ある意味では、作中一番優遇されているキャラだったとも言える(そして、お前だけそんな優遇されてるばっかりなのはずるいから帳尻合わせるからなって意味で作者から執拗なセクハラを受け続けていたのかもしれない)。

谷垣は、ある意味では他のどのキャラクターよりも、物語開始時点ですべての自分の人生の答え合わせを終えてしまって、生きる意味を失っているやつだったのかもしれない。鶴見中尉のような(もちろん鶴見中尉の行動原理はそれだけではないが)復讐したい相手すらいず、ただ漫然と今更故郷にも帰れないので兵士として生きているのが初登場時の谷垣の印象だ。ただ、やっぱ谷垣は良いやつだからね。刺青を背負った脱獄囚である、人を殺めて投獄されてた言うまでもなくアウトローの二瓶との出会いと二瓶との別れを通して、谷垣は本当に自分に正直に誠実に生きようとするように変化していくのが見ていて気持ちいいというか、胸を鋤く思いだった。金塊争奪戦には興味を示さず離脱を繰り返す彼だが、北海道で出会った人々への恩に報いるために、結局金塊争奪戦の行く末までを見届けることとなる。それを谷垣にさせたのは、やはりボタンの掛け違い(自分のボタンは弾けがち)で自分をどん底まで突き落とした過去への反省と、二瓶から教わった自分が生きたいように生きるという志と、その二つが融合した結果、過去を振り返っても後ろめたいことが何一つない真っさらで真っ直ぐな自分のままインカラマッとこれから築く家族たちと生きていきたいという谷垣の思いになったのだろうみたいな風に考える。谷垣はインカラマッと産まれたばかりの我が子を置いて最後まで死地に飛び込む。家族を本当に大事に思うなら、そんな無茶はしない方が良かったのかもしれない。それでも谷垣がそう動いたのは結局この金塊争奪戦全体が谷垣にとってその後の人生を胸毛を張って生きるための通過儀礼であったということだろう(ムワァ)。

谷垣ニシパはめちゃめちゃ出会いに恵まれた。けどそれ以上に、それらの出会いに意味を見出して何かを受け取れる谷垣ニシパ、人との出会いとその縁をひとつひとつ大事にするやつだから、結局谷垣の再生の物語は谷垣自身が切り開いた結果なんだって、そういう手放しに頑張ったね源次郎って思わせてくれる純朴さがやっぱり谷垣にはある。で、そういう意味でもっともわかりやすいキャラクターだから、最終回の付録でも今更言うことないからああいういじられ方を作者からされてるんだな。

 

んで、まー、語ろうと思えば鯉登も月島もアシリパさんもキロランケも鶴見中尉もみんなみんな書けるんだけど、長いし疲れてきたな。もうこれで最後にしよう。杉元佐一。

ほんと、漫画読んでてアニメとか観てて「来週どうなるんだろう」「どんな結末になるんだろう」とかじゃなくて、「杉元佐一死ぬな!」ってフィクションのキャラクターの生存を願ってたことって本当にいつ以来だろ。いいおっさんでもこんな風に思うことってまだあるんだってびっくりしたよ。それひとつとってもありがとうだけど、この漫画の主人公を勤め上げててめえの人生に向き合い続けた杉元佐一にめちゃめちゃありがとう。

この作品全体、みんなめちゃめちゃ頭が良くて狡猾で金塊争奪戦っていうのはそういう駆け引き重視で進められるわけだが、杉元佐一はちょっと違う。もちろん、ジャンプ漫画の熱血主人公みたいに頭が悪くてなんとかなるさで生きているっていうほどではない。けどやっぱり他のキャラクターに比べると無鉄砲で無茶をやるところが多い。しかし、その一方で決め台詞は「俺は不死身の杉元だ!」で、純然たる意味での生への執着はキャラクターの中ではトップクラスでなはいだろうか。死にたがりみたいな無茶をやるくせに誰より死んで堪るかと自分を鼓舞しながら命の取り合いに身投げするこのアンバランスさを違和感なく読者に受け入れさせるのが杉元佐一の最大の魅力のように自分としては考える。杉元はなんでこんなに死にたくもないくせに危険に身を投じるのか、寅次との約束のため、梅ちゃんのため、アシリパさんのため、色々理由はあるんだろうけど、結局杉元っていうやつはまだ何もわかってなかったんだと思う。自分が何のために生まれたのか、自分が何をやるべきなのか、どう生きるべきか、誰のために生きるべきか、何もわからないまま死んで堪るかという執念だけが、彼の歩みを止めることなく彼の身体を突き動かし続けた。界隈では杉元とアシリパさんの関係が変に恋愛関係にならないところがいい!なんて話もあるらしいが、純粋に杉元はそれどころではなかったんだろうなーみたいなことは個人的に思っている。死んだ寅次との約束もあって、目が見えない梅ちゃんが今もどこかで生きている、約束を果たすためにもカネが欲しい、いつ殺されるかもわからない金塊争奪戦があってそこにアシリパさんも飛び込んでる、アシリパさんを手伝いたいし金塊見つかれば梅ちゃんにカネは送れるし、本当に杉元はそういう風に思ってただけなんだろうなーと思っている。死んでもいいやと思ってるやつは恋愛しないし、それと相反するようにまだ死ぬわけにはいかないと思ってるやつも生きることだけ考える。そんな、いそうでいない変なやつだったなーと思うし、そんないそうでいないやつの行動実際に見てみたらすごい優しくてすごいカッコよかったってのが率直な彼への印象だ(土方は杉元と違って女遊び大好きだったくせに「俺に似てる」みたいな感じでいくのずるいし土方だな~と思う)。

杉元、めっちゃ好きな愛すべきキャラなんだけど、喋れと言われると困るな。いいヤツなんだよな。まぁでも大変なヤツだったよ。伝染る病で家族を失って、故郷を捨てて、成り行きで従軍して、馬鹿ほどロシア人を殺して、よく考えたら除名された流れって詳しく描かれてたっけ?まぁ、杉元佐一はどこに行ってどこで死にかけようがあのカッコいい杉元佐一なんだってことなんだろうけど。でもやっぱり谷垣ニシパが序盤中盤から担ってた「再生の物語」があったけど、結局これは杉元の再生の物語だったんだってのが最終話でしっかりと明らかになったのは良かったなぁ。ほんとうに死ぬのかどうかわからなかったし。生きてて良かったし、死ぬようなタマじゃなかった。最後まで生きて生きて殺し合って、血みどろになりながら、自分が生きる道を見つけ出したんだ。アシリパさんに故郷へ帰ろうと語るあの一連の下りは、もうびっくりするくらい「全部台詞で喋ってるんじゃん」という良くない最終回にありがちな感じだったにも関わらず、あんなに心に染みるのはなんでなんだろう。ひとつは、杉元がどこかにいってしまうことをずっと危惧しているアシリパさんの不安そうな顔がパッと晴れること、もうひとつは、作中ずっとみんな何を考えているかわからんかったなかで一人だけいつも思いの丈をそのままに語り続けていた杉元が率直に語ったシンプルな言葉を俺がそのままに受け取れることができたということだろう。

 

はい、まぁそんな感じでもう終わりますけどね。「虎は死して皮を残し、人は死してなを残す」なんて言葉もあるが、まさしくゴールデンカムイはそれすら覆して、己の皮に刻まれた暗号によって歴史を動かし名前は誰にも覚えてもらえない人たちが、そんなことはどうでもいいよとばかりに自身の生き様を追求し続ける、そんな物語だったのかなという風に考える。刺青人皮の御仁ら自身はもし語り継がれたとしても悪名としてしか残らないどうしようもない奴らだ。そんな奴ら歴史になんか残さなくていい。それでも、そいつらは生きてたんだ。そいつらの刺青を奪い合った、また歴史に名を残さない奴らも多くいる。しかし、だから、今がある。そいつらが素晴らしい尊敬できるやつだったわけではない。だけど、そいらが生まれて生きてたから今がある。

そんな風に錯覚させて(本気で錯覚してるわけでなはいので少し大げさな言い方ですが)、まるで史実に合流してるかのように締めくくるのがまたすごいなと思うんですよ。よしながふみの『大奥』に近いようなやり方かもしれない、この金塊争奪戦はフィクションではなく実際に起こった出来事だ。しかし、今の世にはその伝承は遺されていない。権利書は秘密裏に交渉され、残った金塊はもうない。もしこれがノンフィクションなら徳川埋蔵金を探す糸井重里みたいなやつが現れて探されてるかもしれない。しかし、そうはならないのは現実に白石が残った金塊を全部使い切っちまったからだ。だから、今は現実に北海道の自然が国によって保存されている事実と、金塊なんかあるわけない五稜郭だけが残っていて、ゴールデンカムイがフィクションであっても実際にあった語られるぬ歴史であっても、どちらでも今現在の北海道・日本に合流できる。見事な締めくくり、そしてそれを成立させる立役者・白石。作者は杉元のやつは強いやつは強いから優しくできるみたいに書いてたけど、俺は白石のことも誰よりも現金で小ずるくていい加減なやつだからキロランケや海賊房太郎の死からも何かを受け取れる優しい男だったと思うぜ。

 

みんな最高、楽しかった楽しかった。ゴールデンカムイ面白かった感想文。語り足りないけどとりあえず一回これくらいでおしまい。

 

最後に、この文章はとりあえず「この漫画おもしれー!うおー!」ってことだけを言いたいのであんまりネットでも色々言われてるめんどくさい話題に触れたくないのが本音なのではあるが、たぶん書いておいた方がいいんだろうなと思って書いておく。

俺は先述のとおり北海道のとある地方の出身なわけだが、1986年生まれの俺でもアイヌ差別というものの存在については身をもって知っている。と言っても、俺は和人で差別を受けた側ではない。アイヌが透明に見える和人だけで形成されたコミュニティというのもそれはそれで北海道のどこかしこにいっぱいあったのかもしれないが、たぶんその頃は俺んちがあんまり貧乏だったのもあって、そこらへんがごった煮の地域に住んでいたんだろうと今なら簡単に想像がつく。そんな俺が幼稚園生・小学生だった頃は親も学校の教師もあるゆる周りの大人がアイヌに対する差別心丸出しの言葉を当たり前のように公然と吹聴していたし、それを見て育っていった俺もアイヌに対する差別心を当時は当たり前のように内面化していた。付け加えて言えば俺のそんな差別心を育てた要因は、周りの大人たちの日常的なアイヌたちへの侮蔑がすべてだったとは思えなくて、実際近所に住むアイヌの人々(大人も子供も)に理不尽なことを言われたりされたりという経験の積み重ねも記憶にある以上やっぱりそれもあったんだよなと思う。しかし当然、ご近所トラブルを起こしまくるアイヌの人々というのが実際に俺の記憶どおりに存在していたとしても、それは過去に受けた迫害・現在進行系で投げかけられる差別を受けた結果だろうということは容易に想像がつくし、逆にそのような被差別に対する憤りを投げかけられて受け止めた経験から俺の周りの大人たちもアイヌの人たちを疎ましく思う気持ちを育てていったのだろうということも容易に想像がつく。今、インターネットで見かけるエコーチェンバー的な対立みたいなことなんだろうなぁと思うが、わざわざインターネットなんて例を持ち出すまでもなく在日韓国人や部落を引き合いに出せば内地の人には「ああ、そういう話なのね」とすんなり伝わるものなのかもしれない(逆に、北海道で俺が生きてた分にはそこらへんの問題を見かけたことがないので俺にはわからないのだがたぶん同じような話なのだろうと想像する)。まぁ、シンプルに、差別問題というやつは別にインターネットが登場する遥か以前からそこかしこに存在していたし、もっといえば人類史上ずっとスタメンで登場し続ける不動のレギュラーなんやで、という話ではあるのだろうな。が、もちろん今でもまだまだ勉強不足な俺ではあるが、それでもそういうふうに自分のなかにあった差別心とか、その差別心はどこから生まれたかとか、ひいては他人の中にあるそれらについて考えようとできるようになったのは、それからもう少し大人になってからのことである。その時、アイヌを明らかに差別して内心で下に見ていた時期が俺の人生のなかにあったことは申し訳ないとしか言いようがないが揺るぎない事実だ。

こういうふうに考えている人たちが、特に北海道にゆかりのあるゴールデンカムイ読者の中にどれくらいいるんだろうみたいなことはやっぱり考えてしまう。地域差はあるのでなんともなのだが、俺の住んでた地域限定でそんなアイヌ差別が罷り通っていたというのはどうにも体感的には考えにくい。やっぱり俺が生きた1990年代の北海道ではアイヌ差別はポピュラーに罷り通っていたのだろうと思うし、そんな時代で幼少期を過ごした俺は当時の自身の内面を恥じる気持ちもあって、そんなに手放しに「北海道を舞台にこんなすごい漫画を描いてくれてありがとう!北海道にあるアイヌという立派な文化をこんなにピックアップして広めてくれてありがとう!」とはとても言える心持ちにはなれないのだ。同じように考えてゴールデンカムイは面白かったけどここらへんに触れないようにしている人たちがどれくらいいるのだろうと思うし、自分だって過去には差別心やらなんやらを抱いていたくせに時代が変わったポリコレポリコレみたいな言い訳を自分にして過去の差別感情を忘れたふりをして「アイヌは北海道の素晴らしい文化です」とか言っちゃう人がどれくらいいるんだろうとも考えてしまう。

今現時点の北海道においてアイヌ差別はもう全部解決してなくなってますみたいな馬鹿な話はありえないだろうが、俺が生きた当時よりはマシになっているだろうと思いたい(まぁ、他の差別問題や世の中全体の流れを見てもさすがに少しはマシにはなっているでしょう)。で、そういうアイヌ差別についての生々しい実体験を持たない世代(それはアイヌ側も和人側も含め)知らない世代(これはさすがにアイヌ側にはあまりいないのかもしれない)がゴールデンカムイなんかをきっかけに素直に「アイヌの文化は素晴らしいな、現代人としても学ぶべきところがいっぱいあるな、これからも後世に語り継いでいくべきものだな」と思って、何かしらのアクションや考え方の変化につながるのであればとても素晴らしいことだしそれは作者もその他関係者も望むところだと思う。本編の最後に「アイヌと和人の努力によって」ってフレーズがあって、それが物議を醸してるようだけど、「和人」と「自分」を同一して「和人=俺すげえ!」じゃなくて、それこそアシリパさんと杉元のように、手を取り合ったアイヌと和人がいて、そういう関係を結べる人たちがたくさんいたことで、今がある、みたいなそういうふうに考えることはそんなに難しくないというか、ゴールデンカムイってまさにそういう話だったじゃんとも思うわけで。なので、あんまりそこらへんでそういう風に考えられない党派性にまみれてしまった俺と同じ世代くらいから上のおっさんおばちゃんとかは少なくともしばらくはなんも言わない方がいいのかもなぁとかそういうふうに僕は考えるんですけど、ま、なかなかそんな理想は遠く儚い現代ではありますよねぇ。

 

で、あとすいません、ここまでの「最後に」言うて始めたくだり、勢いで本編の感想書いてたら書き忘れそうだなと思って忘れないうちに一番最初に書いてるんだけど、めちゃめちゃテンションだけの話の後に最後なんか湿っぽくなっちゃって、最後まで読んでくれたみんなごめんな!!謝るよ!!でも俺、謝ってみたものの、最後まで読んでくれてありがとうとか言ってるけど、まだ書いてねえんだよ!!アイヌについての自身の経験だけ書いただけで、ゴールデンカムイの感想は、今から書くんだよ!!ゼロから!!お前がここまで読んでたやつを!俺はまだ書いてなくて!!俺が、今から書くんだよ!!

だからそうなると、ここまで読んでくれたみんな、まだ俺の知らない俺に会ってるってことなんだよな。でもそれこそが人生の醍醐味だと思わないか?人は自分がどうなるかなんてわからないまま生き続けるより仕方ない。そこで歯を食いしばって生き抜いたからこそ、自分でも思いもよらない今まで知らなかった自分を見つけてくれる誰かと出会い、そういう出会いの積み重ねが己の人生になって、悔いのない生につながっていく。そんな人と出会うために俺たちみんな生きているのかもしんねえし、ゴールデンカムイという作品も、この俺の文章(まだ書いてないけど)を最後まで読んでくれたお前も、俺にこんな文章を書かせてくれた大事な出会いなのかもしれねえなぁ。じゃあ、ラストがこの感じになるんだっていうことがわかったから、そこに向けて、ちょうどいいように、今からテキストエディタの先頭に戻って頑張って書くから!もうすでに3000字くらい書いてるけど!また後でな!

またな!

*1:この作品がポリコレ的に云々みたいな話で対立が起きてしまうのも、そもそも善悪とかじゃなくてどう生きるかどう死ぬかみたいなのが作品の中核にあるため、そのテーマにグッとくるファンがそういう文脈やめてくれよ~みたいな感じで強い反発をしたくなって対立がより強まってるのかなーとかは思ってる。

ピカチュウは英語でもピカチュウだがヒバニーは英語ではヒバニーではない

近々5歳になる息子がいるんだが、実は1歳の頃からずっと英語教育に力を入れている。

俺自身は英語は全くからっきしだし、むしろ外国人と会った時に通訳を通して褒められたりした時に、サンキューではなくありがとうございますを言いながら元気よくハキハキ頭を下げるので「逆に珍しい」と面白がられるくらいだ。拙いにもほどがある言語でもじもじとサンキューを言うよりは、慣れ親しんだ言語でありがとうございますと言った方が身体も表情もついてきてそっちの方がよっぽど謝意がついてきて、伝わるだろうというのが俺の持論だ。

そういうわけで俺は英語がからっきしでまるでよくわからんしそもそも機械翻訳もこれからますます発達していくだろうし自身が今更英語を覚えようなんて気はサラサラなかったのだが、令和を目前に爆誕した息子についての話であれば話は少し変わってきて、俺は全く勉強しなくても国語のテストは学生時代全く苦労したことがなく常に満点に近い数字を稼げていたので国語に加えて英語でも同じようなマウントを取れれば受験戦争において非常にマウントが取れるだろうし、何よりこの息子が大人になる頃に物理的ではないにせよ経済的に日本が沈没している可能性を考えれば英語を喋れるということは生き方の選択肢を大きく増やすことになるだろうと思って英語にウエイトを置いた環境にカスタマイズしている。俺んちを。

良い時代だねと思うのはネトフリにせよYouTubeにせよ、子供向けのアニメやなんやを英語で摂取する環境がめちゃめちゃに整っている。今の時代、どこの家のお子さんも基本的には映像コンテンツで暇な時間を潰す傾向はあるとは思うんだが、我が家では原則英語コンテンツを見せるような方針にしている。それをずっと継続した結果、英語がまるでわからない俺には聞き取れない流暢な発音の英語で人形遊びをするに俺の息子は至った。まじでたまに何を言ってるのかわからん。

そういうことをやっていると逆に日本語が疎かになって苦労するぜ、みたいな言説も界隈にはやはりあるそうで俺も少し不安に思ったこともあったのだが、日本語しか喋れない父親である俺がブログを見てもお分かりの通りめちゃめちゃ日本語を喋りまくり続けまくる人間なので大丈夫だろうという結論に至った。中島みゆき的に言えば鱗剥がれ落ちながら登っていくしかないくらい父親も母親も日本語の洪水を叩きつけていくのであれば、まあそこらへんはなんとかなるだろう。

そういうわけで何かうまそうなもんを口に頬張ったらヤミー!と叫ぶ洒落臭い子供が育っていくわけなのだが、4歳5歳の子供と言えども一丁前に社会的動物の一端を担っているだけあって保育園や幼稚園にいるあいだは空気を読んで日本語コミュニケーションに徹してあんまり英語を喋ったりしないらしい。家では英語で一人遊びしてるのに。大したもんだ、日本語が読めて英語も読めてそのうえ空気まで読めるなんて実質トリリンガルじゃん、トリンドル玲奈じゃんと感心していたのだが、最近ちょっとした問題が発生したのである。トリンドル玲奈だけに、と言おうと思ったが特にトリンドル玲奈は問題を起こしていない。濡れ衣である。

きっかけは忘れたが、息子はある日ポケモンに興味を持った。ポケモンポケモンと言うのである。それで、ネトフリだかYouTubeだかでポケモンも少しくらい見せてやるかと思って、それもやっぱり英語で見せてやっていたのだが、俺も小学生くらいの時分にポケモン初代赤緑を遊んでカルチャーショックを受けた世代だったのですぐに気付いたのが、ポケモンの名称は和名と洋名が違うパターンがある!!

ピカチュウは英語でもピカチュウなのだが、フシギダネは英語ではフシギダネではない!!そして、俺にはフシギダネの洋名は難しくてよく聞き取れない!!

これはたぶんそのうち面倒なことになりそうな予感がするなぁと思いつつもそれはその時解決すればいいやと思いつつ、とりあえず英語のポケモンをその後も見せていたのだが、その面倒は思ったよりも早くやってきた。

ある日、幼稚園から帰ってきた息子は、幼稚園の同じ組の子供とポケモンの話をしていたら「それは違うよ」と言われたみたいな話を拙い言葉で語ったのであった。

最近のポケモンらしいので俺は知らないんだがヒバニーというポケモンがいるらしく、しかしそのヒバニーというのは和名で、海外に英語コンテンツとして出荷される際にはスクローバニー?という洋名で説明されるらしく、家で英語版アニメを見てそれに習ってスクローバニーという息子は、他所のお子さんに「スクローバニーじゃないよ、ヒバニーだよ」と嗜められたそうな。

息子はやはりこの出来事が承伏でき兼ねる様相だったらしく、少し不機嫌そうにその顛末を我々両親に語った。なんなら、明日にはヒバニーはスクローバニーでもあるということを改めて向こう様に伝えたいということまで話してきた。

俺は、言葉を選びながら息子と話した。

日本語しか話せない幼稚園のお友達とお前は仲良くできるか?できるよなぁ、お前は日本語が話せるものなぁ。

英語しか話せないお友達が目の前に現れた時、日本語しか話せない幼稚園のお友達は仲良くなれるかなぁ?ちょっとわからないな、だって、日本語と英語は違うんだから。

お前はどうかな?英語しか話せないお友達が目の前にいた時に仲良くなれるかな?仲良くなれるかもしれないよ、だってお前は英語でお話ができるんだから。

英語を話すお友達と日本語を話すお友達がいるところにお前もいたらどうかな?お前は日本語も話せるし、英語も頑張って話している。

お前は英語しか話せないお友達の気持ちを日本語しか話せないお友達に伝えてあげることができるし、日本語しか話せないお友達の気持ちを英語しか話せないお友達に伝えてあげることができる。

そうしたらみんなお友達になれるかもしれない。お前がいたら、みんながお友達になれるかもしれない。

お前は英語が得意なのが自慢だけど、それは英語を話す人と話すためのものだ。英語が話せない人に英語が話せることを自慢するためのものではない。お前が二つの言葉を話せることで、もっとたくさんの友達を作れるし、そうしたらもっとたくさんの人たちがお前がいることで友達になれるかもしれないよ。

だから、日本語しか話せない人には日本語で話せ。英語しか話せない人に出会った時はお前の出番だ。自分が話せる英語を話せない人には英語を教えようとせずに日本語で話せ、だってお前は日本語も話せるんだから。

 

そんな話をしながら、難しい話を聞かされて疲れ果てて寝惚けまなこになっている息子を見て、俺は何一つすべてを繕って天を仰いだ。俺にできなかったことを息子に求めている俺に気づいてしまったからだ。

人間は分かり合えないし、分かり合えなかった時はいつだってそれっきりだ。そんなことは分かりきっている。バベルの塔がぐんぐんと聳え立っていって、そのうちに瓦解することを俺はとうの昔に知っている。

そのうえでなお、俺はなお、こんな綺麗事を息子に浴びせかけている。罪深いなと考える。

いつか、俺が、どこそこの外国人に「どこでどう生きて今ここにいようと同じ人間さ、今日ここで会ったことは本当に素晴らしいことだ、俺もあんたもみんな素晴らしい、あなたが大好きだ、会えて嬉しい、これを素敵な出会いにしたい」と伝えたくなくなった時に、ただ日本語をくっちゃべって頭を下げる俺の横で、俺の息子が通訳してくれたら嬉しいだろうなと思うのであった。

 

以上です。