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2021年4歳の息子に課金してよかったもの

みんなよくやってる買って良かったものみたいなのやろうかなと思ったけど、自分に関してはあんまないなーと思ったので息子に課金してみて特に良かったものをまとめようかなと思ったので書く。ジャンルとしてはほぼ知育系の話になります(電動鼻吸い機とかの話はしません)

タイトルでは2021年と言いつつ、まぁ「これまでに」みたいな総括的なやつではある。あと、「これ良かったよ!おすすめおすすめ!」というノリよりは「そっち系に課金したい親ならこんなんもおすすめよ」みたいな、そういうリアクションを期待してたりはする。インターネットでおなじみ、雑に語ると知見が集まる的な。なので、雑に淡々とやっていきます。そういうわけでツッコミ待ちが趣旨なので、内容としては「ふ、ふつ~~」という印象になることが予想されます。

 

小学館の図鑑NEOシリーズ

特に小学館がオススメなわけではないけど(特に中身を自分で比較検証してないので)なんかネットの比較ブログとか色々見た結果なんか小学館にした。

https://www.shogakukan.co.jp/pr/neo/series/

全部揃えようとなると結構大変。『きのこ』とか『危険生物』とか、我が子を野に放ってサバイバルさせる予定がないとなかなか手が伸びなさそうなやつもある。

まぁ何はともあれ図鑑。一応自分ががっつり図鑑がある家に生まれて、今思うとアレなかったら結構いろいろ大変だったんだろうなーって気はしていて高いけど買わないといかんなとは思ってて、いつだったか取っ払いのカネが入ったときに全ツッパでけっこうな量を買った。「まずは確実に楽しく読むであろう『動物』1冊くらいからでもいいのでは?」みたいなステップバイステップ説も一瞬夫婦のあいだで出てきたのだが、俺のなかで図鑑っていうのは「好きそうだから買い与える」ではなく「興味を持つ入り口」みたいなもんだから、本人が興味あろうがなかろうがとりあえず図鑑を開けば知識に触れられる状態を家に置いておくってことが大事であって俺も全然読みたくねえよって感じの『鉱物』とか『星座』とか、とりあえず図鑑っていうのはどうせ買うなら多ければ多いほどいいんだよ論者の俺だったので、だから取っ払いのカネで宵越しのカネは持たないノリでガーッと買ったんだったと思う。

動物園に行った後は図鑑を開いて今日見た動物を調べるし、水族館に行った後も魚の図鑑を開くし、散歩して公園に行った後には花の図鑑や虫の図鑑を開くし、月食の夜には宇宙の図鑑を開くし、うんちしたくなった息子はうんこ我慢して内股でもじもじしながら人間の図鑑を持ってきて「口から入った食べ物はどうやってうんちになるのかな?」の消化器系人間断面図の見開きを探してページを手繰るので「頼むから漏らさないでくれ」と思う。情報にアクセスできる楽しさを覚えてくれるので図鑑はやっぱりいいなぁと思う。あと、俺も読んでて暇つぶしになる。

 

トランポリン

例に漏れずコロナ禍で買ったやつ。

跳ぶのが楽しくていいよーっていう以上に、なんというかトランポリンを家の中に置いておくと、家の中に「ステージ」として機能する一角が存在するのがいいなーと俺は思っている。息子の興が乗って歌を歌い始める時とか何かしらの即興劇(ごっこ遊び)が始まる時に、平場より一段高いトランポリンがあるのとないのとでは、子どものパフォーマンス力(演出力)が全然変わってくるのではないかと思っている。子どもの想像力が豊からしいのは結構なことなのだが、大人のみなさんはご存知の通り想像力なんてものは頭のなかでいくら壮大に奔放であろうとも他人にもちゃんと伝わるようなアウトプットにならないとなんの意味もないのである。何かを演じるごっこ遊びをやる際に、演じ分けや親にもそれぞれに役割を与えようとする際に、物理的な高低を作る舞台装置があると子どもは子どもなりに色々考えるので面白い。トランポリンじゃなくていいけど、子どものいる家には何かしらの高低差があった方が絶対いいと思う。子どもがテーブルの上に上がりたがるのとかも、結局はそういうことなんだと思う。

 

ナンジャモンジャ

子どもとボドゲをやりたい、やらせることでなんか頭良くなるはずだからぜひともボドゲを楽しめる子どもになって欲しいと考える親はきっと世の中にたくさんいるでしょう。これは自信を持って言えるんですが幼い子どもにボドゲデビューさせるんなら一番オススメなのはナンジャモンジャです。大人になってゲームに慣れ親しみすぎると「ルールが簡単」の判断基準がすでにバグってしまうところがあるんですけど、色々試してみた結果たぶん一番ルールがシンプルで簡単なゲームはナンジャモンジャです。ナンジャモンジャより先に、いちごりらくらいならイケるやろと思って試した時があったんですがルールが複雑すぎたのかなかなかうまくいかずどうしたもんかなと思った後にナンジャモンジャを試してみて、それですんなり楽しく遊べるようになったのでこれは入門には最適だなーとなりました。お陰様で今はいちごりらはもちろんのこと、ババ抜きや7ならべやオセロもできるようになりました。

あと、子どもとナンジャモンジャをプレイした大人は95%の確率で「こういうゲームは子どもの方が得意なんだよね」と言います。言い訳をするな。

 

MAPS

反出生主義者の気持ちもわかるくらい将来の日本がヤバいなと僕自身も自覚するなかで爆誕させた息子なので、世界に目を向けて欲しいなという気持ちはあるわけです。そこで約に立つのがこのMAPSという絵本。世界の色々な国々がどういう国なのかをゆるーいノリでほぼほぼ9割イラストメインでずらーっと並んでいて、見開きにその国の国土の地図がいっぱいに描かれていて、そこに所狭しとその国の民族衣装とか、その国の馴染みの料理とか、どういう山とか川とか湖があるかとか、どういう動物が生きているとか、どういう文化があるかとか、ごった煮で紹介してくれます。まだちょっと4歳には難しいかもなーとは思いつつも一緒に読んでるなかで覚えているのは断片的な知識であったとしても、ジグソーパズルのピースのように蓄積していってくれれば、いつかそれがジグソーパズルのピースのようにハマっていって出来上がればいいなぁと思いながら一緒に読んでいます。こういう地道な積み重ねによって、スペイン=トマト祭り牛追い祭り、ドイツ=ビール、以上なにも情報を持たない俺のような教養残念人になることを回避できるのだろうと思っている。

 

地球儀

MAPSで遊ぶ際の付属品です。地球儀を買って以降はゴー☆ジャスをテレビで見せないよう常に注意しています(テレビ出てないから大丈夫だろ)。

あと、月食の時は地球儀を持った息子が地球役で、俺が太陽役をやって遊ぶなどもしました。その時、地球儀が傾いてるのちゃんとしてて偉いなぁと思った。

 

マグフォーマー

磁石でひっつく、なんかブロックみたいなやつ。良さを説明するのが難しい。いや、そうだな、良さを説明する時にほかの競合をdisるのはあまり行儀が良くないということは重々承知しているんだけど、それでもあえて言うならやっぱ磁石でひっつくので一人で勝手に遊べるってのがでかい気がする。プラスチックのパーツをジョイントさせるようなタイプの同じ趣旨の玩具も色々家にはあるんだけど、やっぱ「固くてはずれないからお父さん外して」みたいなのよく言ってくるんだよね。俺でもテトリスファミコンでプレイしていて「たまにコントローラーのAボタンがめちゃめちゃ重くなって回転させにくい」とかなったらすっげえストレスだと思うんで、磁石で勝手にひっつくし、引き剥がそうと思ったら難なく剥がせるっていうのはストレス無く「何を作るか」に集中できて良いのかもしれない。

アフィリンクちゃんとやるのめんどくさいんで、なんかテキトーなAmazonリンク貼ってますけど、でかいの買えば買うほどいいし、買い足すと買い足すだけ良いです。買えば買うだけ子どもが勝手にでかいもの作るようになるので。

あと、マグフォーマーはボーネルンド社が本家で、他メーカーの模造品もめっちゃたくさんあるんですけど、磁力が足りないといくら買い足してもできることが限られてしまうのでやや割高の本家買うの一択と聞いていて、なんか他社商品に外で触れるたびに確かにそうっぽいな、と思っています。

 

KATAMINO

Katamino Family (Spiel)

Katamino Family (Spiel)

  • ギガミック(Gigamic)
Amazon

ナンジャモンジャの次はこれかなー、くらいにちょうどいいゲーム。決められたピースを組み合わせてマスに隙間なくピースを敷き詰める、みたいなルールのやつ。「まだ早いかなー」と思いつつトランプのゲームとか色々やらせているなかで(「できるじゃん」「やっぱまだ難しいか」それぞれある)やっぱこういう、「物理的にズルできないゲーム」は強いな、と思う。隙間なく敷き詰められれば勝ちだし、それができなきゃ負け。シンプルながら、ズルできないのが面白い。リンク貼ってるファミリータイプは対戦できるようになってて、ハンデ戦もできるようになってるので、まぁまぁ盛り上がって楽しい。

 

ストライダ

お前そんなんばっかやな、と思われそうなので、いやちょっと待ってくださいよー、運動とかもちゃんとやらせてますよー!と、行列の司会が紳助だった頃の東野幸治の顔真似でストライダー。

まずはペダルのない二輪車に跨がらせて、地面を蹴って進むことを覚えさせる。それがすっかり馴染んだら、ペダルをつけて自転車走行を覚えさせる。大事なのは二輪に身を委ねてサドルに体重を預けられる体幹とハンドルを握る両腕だけでバランスを取ることで、それができるようになったら「ペダルを漕ぐ」なんてことは簡単にできるようになるよって思想らしくて、後でペダルとチェーンを後付で実装できる順番の商品。まだ息子はペダル付けてないけど理に適ってるなーと思う。むしろ、補助輪なしでチャリ乗れるようになったのが小3だった自分としては、最近の子は無駄なく効率的にこういう訓練ができて羨ましいなーと思う。補助輪つけてペダル漕ぐ練習だけして、その後補助輪外して漕げるか、みたいな順番はたしかに微妙なのかもなーと思う。

 

おりがみ大全集

なんかわからんけど息子が折り紙が大好きで、You Tubeでこれ作ろうあれ作ろうみたいなことをずっとやってたので、「じゃあ買え」となって買った。

俺は折り紙とか全然好きじゃないので付き合うのはちょっと嫌なんだが、目的があって道筋が示されてて、それを愚直になぞると成果物があがって目的が達成できる、みたいな成功体験を積み重ねるのは割といいのかもなぁと思って好きにやらせている。出来ないことに出くわすと投げ出してしまいがちなのは子どもでも大人でもあるあるだと思うのだが折り紙の手順書はその後のゴールまで全部見えてる全体のなかで「ここだけ出来ないから手伝って、あとはできる」みたいな応援要請の仕方をしてくるので、その考え方って大人でも大事だなぁと思う。

 

NumberBlocks

なんか、イギリスだったかな?どこだかの欧米の国のEテレ的なテレビ局が作ってるCGアニメ。数字を擬人化しているんだけど、「こんな数字へ触れ合わせ方あるんだ!?」と普通にびっくりする。9君が狭いスペースを通り抜けるために3君かける3に分裂したりとか、5かけ5の25のブロックで構成された25君がくしゃみをすると外枠を残して4かけ4の16君が飛び出したりとか、1君から10君までが階段上に並んでそこからみんながひっついていって50君が爆誕したと思ったら5君だけ残ってたりとか、これを幼少期から見せられてたら公文式入る時かなりアドバンテージアリでスタートできるなって感じの内容で、すごいなーってなります。あ、何で課金しているかというと、You Tube有料課金とかでもいいんですけど、Netflixで見るようになったりとか、あと、絵本をAmazon洋書で買ったりとかです。

 

MathLink

NumberBlocksの付随で買ったもの。これで実際に1~10までを並べたうえで1と9、2と8、3と7と、ニヤニヤしながらくっけつて10を作っていって最後に5が残るのをキャッキャ楽しんだりなどしている。

 

すごろくやのゲームブック

プログラミング思考を育む!みたいなおもちゃたくさんありますけど、正直ボールを転がすルートを作るやつとか、電車の進む方向を制御するためにレールを組み替えるやつとか、あの手のおもちゃって難易度高すぎて、賢いお子さんなら楽しく遊べるかもしれんけど、できないやつはできないよって気もする。

本当に万人の子どもに丁度いいプログラミング思考(まぁ、なんかお前ら偉そうにそのワードを推してるけど、単純に成功経験も失敗経験も因果関係に落とし込める考え方を育てようってことなんでしょ?)を学べるオモチャってなんだろうねって考えたら、スタートはこれくらいなんじゃないかなーと思います。選択肢を辿っていくとストーリーが分岐する、まぁそのまんまのストーリーブックのすごいシンプルな子ども向けの難易度低い仕上がりのやつなんですけど、これは僕の人生を振り返った時のすごい個人的なエセ真理なんですけど「死にゲーの経験は大事」ってのがあって、失敗を繰り返して何回も繰り返してやっと成功してそうやって学習していくって経験は絶対生きていくうえで損がないなと思うんですけど、それの一番ライトな経験を提供してくれるものとして、すごい丁度いいなーと思いました。

 

英語学習系

実は、英語学習系が一番高額課金していて、1歳の頃から課金しまっくてます。ただ、これは僕よりも妻の方に英語を身につけて欲しい強い思いがあって、息子が生まれて間もない時から夫婦で話し合いつつズイショさん的に色々考えてみた結果「俺は国語の勉強一切しなくても常に満点が当たり前の受験戦争だったので、そんなボーナスステージが国語英語二科目になったらラクだろうし、あとこいつが大人になった頃の日本どれくらい終わってるか考えたら怖いし、じゃあ英語学習に課金するのはアリかな」となったのでだいぶやってます。ただ、ズイショさんは英語については大卒なのでペーパーテストはそれなりこなしているものの言語習得という観点からでいうと全くからっきしなので妻に任せっきりにしてます。なので、ここでの言及は避けます(本当に英語学習をズイショさんに相談したい人はDMでもください)。すでに英語が聞き取れないバカ耳の僕には息子が発する英語が全然聞き取れないし、ライオンやライスの話をしている時に息子が俺のRとLの発音にダメ出しをしてきたりするので概ね順調なのかなとは思っています。息子が英語も話せるバイリンガルに育つのか、英会話はできないけどカラオケでの英語歌詞はやたら発音がいいだけの残念なやつになるのか、将来が楽しみです。

 

課金しなくてよかったもの

読んでるとすぐ子どもが寝ちゃうのが売りの朗読本なんですけど、「言葉がわからなくても効きます!」みたいなことが言われてたので2歳の頃くらいに買ってたんですけど、まー言葉が通じない時は全然効かないし、言葉が通じるようになったらなったで、ここまで読んで頂いてきた方にはおわかりの通り遊びと学習を同時にやってほしいなーって感じでオモチャを買い与えているんですけど、そうしてたら常に脳を酷使されるんでこんな絵本なくても勝手に疲れて寝るんですよ。だから、これは、別に買わんで良かったしマジで出番がないし、見てないけどたくさん他の人からも出品されてるだろうしメルカリに掛けるのもめんどくさいです。

 

子育てって難しいよね

頭が良くなきゃ!勝ち残らなきゃ!負け組になったら終わりだぞ!とかそういうノリは全然ないんだけど(そういうノリの人って生きててすっげえ見るし本当にいるんだなって思うし、まぁみんなしんどそうだし)、単純に物事を知らなかったり興味を持つことができなかったりって理由で可能性が閉じていく人っていうのは自分自身を含めてこれまでの人生でたくさん見てきたから、俺が思いつく限りの選択肢の提示は出し惜しみしたくないなーとは思うよね。

ガキなんて所詮他人だからさ、彼が何に興味を持ってそれに俺がどれだけ踏み込めなかろうと「ふーん」で終わるんだろうなと思うんだけど、「ふーん」で終わってそれで後ろめたさがない程度には「世の中にはいろんなものがあるんだぞー」って言ってやりたい気はするなぁ。本質的には、血縁とか糞どうでもいいし、息子に継いでほしいものなんて俺は持ち合わせてないし、向こうが俺のことどう思ってるかは知らんけど本質的にはただの同居人にしか過ぎないんだけど、それでもやっぱ年上だから「お前こういうの知ってる?」って何かを持ちかけて先輩風くらいは吹かしたいかな。それでそいつが「何これ面白いじゃん」ってなったら「だろ?だろ?」って言うくらいの、それくらいのノリで父親をやっている。

 

なんか、「これもいいよ!」みたいなのあったら教えて下さい!『はじめてであうすうがくのえほん』はさっき買いました!

 

最後、なんか一応ボケようかな。えーと、今、毛ガニの脚で編んだセーター着てます。メリークリスマス!

以上です。

Netflix『浅草キッド』面白かったね感想文

劇団ひとりの監督作品『浅草キッド』面白かったね〜。なんかいわゆるマジックみたいな奇抜な展開はなくて、割と淡々と進んでて、でも見終わってみると要らないシーンは一つもなかったねと思えるようなしっとりとした質感があって、「スクリーンで観たかった」みたいな感じではないけどこれは確かに映画だった良い映画だったみたいな、すごく不思議な鑑賞後感だった。もちろんそれはラストの演出ありきなんだけども。みんな面白いからアレまじで観た方がいいよ、俺はみんな観た方がいいよ、と思った。一応、まだ観てない人への配慮はしつつ、既に観た人にアレ良かったよねと伝えたい気持ちと半々で、だらだらーっと感想を書いていきたいと思う。

しかしそれでも、例えばダビデ像という彫刻を作ったミケランジェロというおっさんが言ってたとおり「魂の形を彫り起こしただけです」みたいな、そういうタイプの映画だから、いくら喋ろうとしたところで、既に監督や出演者がどこそこのインタビューで語った内容とか、既に各種メディアで書かれているような批評の内容と多くの部分で重複しそうで、オリジナリティのない内容になりそうで何だか恥ずかしいのだけれども、作り手の届けたいものと観た俺が受け取るものが一致するように作られてる映画なんだからもうそれは仕方ない。仕方ないんじゃないかなと思う。

なんと言っても柳楽優弥が良い。ビートたけしの若い頃をそれでは演じてみましょうというクソ高いハードルをきっちり数cm越えていててすごい。ビートたけし独特の癖のある動きを要所で見せながら、そのままありのまま立っているのがすごい。それを成立させてるのは、松村邦洋の演技指導も勿論なんだが、やっぱり一番頼もしいのは、照れ臭そうで自信なさげで真っ直ぐなあの黒く澄んだ黒目だ。あの目の瞬き、表情を見るだけで監督が柳楽優弥にあの役をオファーしたのが何故かがよく分かる。この映画が何より素晴らしいのは、この映画がビートたけしの成長譚であることが一目瞭然である点にある。この映画にケチをつける点があるとすれば、時間軸が若干無闇に複雑だよなぁというところが初見見始めて気になった。世界のキタノとなった現代から始まって、師匠のもとを飛び出たどさ回りの時代へと回想が始まり、そこからグワッと師匠のいるフランス座にタケシが飛び込むその数年前に巻き戻る。そこから若き日のタケシの青春を描いて師匠と訣別するシーンをやって回想前のどさ回りの時代へ戻る。そこからまた時間軸は真っ直ぐに進んで行きつつ合間に現代のキタノのシーンを挟みながら、こんなん泣かないの無理でしょの終盤に突き進んでゆく。

この時系列、ちょっと無理があるでしょと思うんだけど、それを成立させてるのが柳楽優弥。逆に言えば柳楽優弥がいたからこそ「この構成で、俺の1番やりたい構成でいけるっしょ」という劇団ひとりの強気を感じる。

時代は1970年代の浅草だ。俺が何より物語を見ていて痛感するのは、「この時代の『冗談を言う』って、どれくらい特異で大変なことだったんだろう」ということだ。時代はまさにテレビが出始めた時代で、そんな時代だからこそ師匠とタケシは道を違えることになる。今からして見れば何てことないシーンではあるが、あの一旦の訣別のシーンとそこに至るまでのタケシと師匠との日々というのは俺にはなんだか途轍もなくグッとくるものなのであった。

テレビもあるし何ならテレビも時代遅れで、YouTubeもあればNetflixもある現代。みなさん、冗談を言うことに何の憚りがあろうか?お手本は日常生活に溢れるほどに溢れすぎている。それらを真似すれば学校の教室でも、職場の休憩時間でも、いくらでも人気者になれる。むしろそんな指針が無かったら何をどうすればいいか何やらわからない。それくらいにお笑いの文法とか文脈みたいなものが目を背けることもできずに溢れかえる現代を我々を生きている。

1970年代は果たしてそうであったか、ということに俺は思いを馳せてしまった。

それらの下品な文脈を作って作って作り倒したビートたけしが、そんなこともよくわからず、フリを振られておどおどしてしまうそんな時代が確かにあったんだと、俺はあの若き日のタケシを演じた柳楽優弥に思ってしまったのだ。

クラスのちょっと面白いやつらがこぞって芸人を目指す現代とはまるで違う、芸人として生きることを選んだ奴らだけがそのように嘯いて生きるその当時のお笑いの下賤さと尊さを俺は感じずにはいられなかった。

冗談を言うとは踏み込むこと、人と仲違いしてでも我が道を行くこと。

そんな当たり前のことが当たり前に馬鹿にされて、そんなこと誰にでもできることじゃなかったから腐されて、それでもそれに命を賭けるんだと決めた人たちを見て、俺はなんだか泣いてしまったのだ。

ここらへんの事情は、今の時代も実際には変わらない。お笑いに一生を賭けるなんてのは、学んだ蓄積はいくらかあったとしても馬鹿げた人生の使い方であることには変わらない。お笑い芸人を目指す奴らがみんな、クラスの人気者だとはまるで思わない。そういう意味では柳楽優弥の演じたタケシと誰も変わらない。そういうふうに世界は巡っている。

だから、柳楽優弥の演じたタケシはグッと来た。自分が何になれるかはわからないけど何者かになりたくて飛び出して、冗談の一つも言えないくせに飛び出して、おっかねえ師匠に冗談を投げ込もうとする柳楽優弥はかっこよかったし、タケシもかっこよかった。

大泉洋ももちろんかっこよかった。こっちの役についてはあまり想像もつかない。けど、むしろこっちの方がリアリティがあるかもしれない。彼の鬼籍までの道を辿ってみれば、むしろそっちの方がリアリティのある人生だ。俺はこうして生きていくんだ、だけどそうは生きれなかった、そしてそのまま死んでいく。実にわかりやすい、ありがちな人生じゃないか。なぜ死んでしまうのか?問うまでもなく、死ぬべくして死んでいく。生きながらえる理由はどこにもなかった。タケシという弟子がいるだけまだ幸せだっただろう。

ノスタルジーたっぷりに描かれる本作だが、本質にはそんなところはないような気がしていてて、今だ今をどう生きるかだが全面に出ていて、生き残ってしまったところでその時には何もなくって、虚無とか喪失とかしかないのかもしれない。それでも生きていくしかないとしか思えなかったのは、見てるこっちが泣いて笑ってるからなのだろう。

良い映画を見れば、もう少しだけ生きようと思える。そんな映画だった。とても良い映画だった。

以上です。

キングオブコント2021感想文

M-1は毎年熱心な熱量で見てるんだけど、キングオブコントって近年はほとんど見てなくて。

まあ、なんでかっていうと理由は自分の中で大きく二つあるかなぁと思っていて、一つが審査員が少ない上に微妙ってのがあって。去年までの審査員だと、M-1が「その年の若手漫才師頂上決戦」であるのに対して、キングオブコントは「松ちゃんとバナナマンとさま〜ずに誰が気に入られるで賞」みたいなところがあって、まあなんというか「さあ、誰が勝つんだ!?」というワクワク感が無かったし、現にキングオブコントを発破にして大ブレイクしている奴らあんまりいないよね問題というのがどうしてもあって、どうも熱っぽく見る気持ちが起きないなぁみたいなところがあって、熱っぽく見れないくらいならまるっきり見ない、という状態がここ数年は続いていた。

で、今年は審査員が刷新されるよという触れ込みがあったので、じゃあちょっと見てみようかなぁと、どのみちリアルタイムでは見なかったのだが久方ぶりに録画して見てみたのであった。

結果としては面白かった。まあ面白かったねえ。少なくともちゃんと楽しく笑えるネタ番組だったね、と断言して言い切れるレベルには面白かった。

 

僕がキングオブコントから疎遠になった理由としてもう一つ大きくあったのが、世の中のポリコレ的な流れとうまくやれてない演者が多いのが「あまり面白くないな」と思うのがあった。たぶんシソンヌあたりが常連の頃だったイメージなのだけど、一時期のキングオブコントって、とりあえず世の中的にはごくごくわずかに存在する笑いたくなっちゃうような変な人を演じて見せたりとか、そういう人を「気持ち悪ぃな!」て突っ込んだりだとか、更にそういうやり取りの中で「自分とは違う人たち」を攻撃的に揶揄して同志の笑いを誘うみたいな、そういうタイプの笑いがやたらに多かったような記憶がある。それは、ある種のマイノリティへの賛歌ではあるのかもしれないが、誰かに反旗を翻すことで初めて賛歌として成立するような、そういう構造のネタが多かった気がする。

お笑いの文脈でこういうことを言うと「ポリコレクソ喰らえ」とか「ポリコレ戦士のジャッジがなんぼのもんじゃい」という反論もよくあるし、その反論の結論は「お笑いをポリコレで判断するな、そんなところで判断されるお笑いを演者はやってないんじゃい」となりがちだし、まあ僕自身もM-1批評をブログで書く時に「これはちょっと今のご時世笑いにくいよね」みたいなことは書いてきたし、それを批判されたこともある。

あるのだが、僕自身がよくよく考えたいのは、「ポリコレ的には瑕疵があるよね」みたいな減点を見てみたネタにしたいのではなく、「それはそのような反ポリコレ的な笑いとして見せなければ成立しないようなものなのか?」あるいは「反ポリコレ的であることそのものを面白いと考えてそういう仕上がりになったのか?」みたいな疑問であり、若手向けの登竜門、年に一度の最高級エンターテイメント賞レースとしてのM-1キングオブコントに関しては、あんまり下品なことをやられてしまうと下品の面白さの是々非々よりは「ゴールデンタイムに全国放送されるテレビで、こんな危ういことやって爪痕残してやったぜ」的な自己満足の匂いを感じてしまい、演者が「本当に面白いと思ったからやった」のか「こんな賞レースの全国ネット番組でもなければこんなネタをお茶の間に流さないだろ!?」というドヤの精神でやってるのか、よくわからなくなってしまって、つまり、やってる側が純粋に面白いと思ってやってるのならば笑いやすいのだが、「こんなネタをこの大舞台でかましてやったぜ」という匂いを感じると、ただ純粋にネタを見てる方からすると「過激だね、面白くはないけど、、」となるしかないのである。

この傾向自体はM-1にもキングオブコントにも一定あるのだが、キングオブコントは、よりその印象が強かったというのが、僕がキングオブコントから遠ざかっていた理由なのは間違いない。

で、それを踏まえて見た久しぶりのキングオブコントなんだけど、めちゃめちゃ面白かった。演者もどのネタも面白かったし、審査員の評価も「まあこいつはこのネタには高い点数つけるよな」「こいつはそりゃこのネタには低い点数つけるよな」みたいなのもありつつ、全体的にめちゃめちゃ妥当な数字がついていたように感じた。

もちろん、順番の問題というのは常に存在し続けるけど、それはもう仕組み上、仕方がないしなぁ。

「爪痕を残す」的な意味合いで無駄に攻撃的な笑いを指向する人たちがほとんどいなかったことそれ自体は、まあ悪いことではなかった気がする。人を不快にさせない笑いなんかありえないので「人を不快にさせないこと」が素晴らしいこととは全く思わないのだけど、「誰かを敵に回すこと」をある種の「突っ張って男を上げる」みたいな解釈に落とし込んで開き直るようなネタがなかったのは、良い変化だねと素直に思った。それは、まあ、つまり、そういうことをやったって、息苦しいし反ポリコレの側に立ちたいなと思う立場からしても、それだけでは別に面白くもなんともないからだ。その結果「今回面白かったね」って声が集まるんだと思うし。

回りくどい話になってしまうが、なんの話がしたいかと言うと、「コント師という道は過酷だな」という話だ。

自分らでネタを考えて自分らで演じる若手コント師という身分は、これまで話してきたようなややこしくてめんどくさいことを考えながら、それでも自らでネタを考えて自らでそれを演じて、そして自らを世の中に認めてもらわなくてはならないわけで、それってすごい修羅の道、と素直に思ったのだ。

台本を作る目線に立てば「こんな尖ったことをやっちゃう俺たちです」でもいいし、「こんなに上手にネタを作れる俺たちです」でもいいし、本当はそれでいいはずなんだけど、コントの章レースで勝ち抜いたその後にあるのは「俺たちこういう奴なんです」でしか生き抜けない世界であり、ここの兼ね合いってきっと本当にしんどい。

今年のキングオブコントの質が本当に高かったからこそ思うのは、「演者はこの人たちでなければダメかと言うとそうでもないよね?」ということであり、漫才は漫才なので「そいつらにしかできないお喋り」が評価されるのに対して、コントという領域は所詮台本と演出のなかで誰が演じるという世界なので、たとえば空気階段の火事のコントについても松重豊小日向文世がやっても絶対面白いじゃんと思うところがあり、一方でサンドウィッチマンの漫才を松重豊小日向文世がやるよりサンドウィッチマンがやった方が絶対面白いじゃんという確信もあり、つまりキングオブコントの難しさとはそういう部分なのだろうと考える。

設定台本自体を尖らせてオンリーワンを主張しようとすると、時代に合わないというか「時代に合わないことをやる」というお笑い芸人としてのキャラクターを背負うことはできるしそのうえで反発は食らいながらバラエティに出ていくことにはなるし、そこをうまくまとめるならば「演者はあなたじゃなくてもいいけどね」という仕上がりになると思うし。

コントとは何か、コント芸人とは何か、は、まだまだ検討の余地があると思う。

今回の新規審査員全員、結局全員コントじゃないバラエティの顔で見出された奴らばっかだしな。

コントの未来を考えたいし、コントでウケようと台本を考えてる奴らにとって良い世の中になればと願う。

以上です。