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第一回愛しのボカン大作戦『こんなんほろんでいい世界』感想文

あのーみなさんご存知ですかね、いわゆる劇場?

空間の話ですいません、これちょっと空間の話なんですけど、椅子?なんか椅子がたくさんある空間らしくて。指定の日時にチケット持っていくと、指定された椅子に座れて、座っていると何かが始まってやがて何かが終わるらしいんですよ。

パッと聞いた感じ、なんか気持ち悪いよね!

ちょっと見どころがあるから捨て置けないけど絶対に自分から話しかけに行くことはしたくない高校のクラスメイト感があるよね!そんなこと全然ないよーとかじゃなくて、シンプルに気持ち悪いよね〜。

でもなんか、そういう空間があるらしくてさ。

悪い芝居っていう劇団があって、昔からなんかそういう気持ち悪いことを劇場でやる人たちがいてさ、でもなんかなくなっちゃったらしくて、いや本人ら的には幕間休憩みたいな言い方してたかな、でももうやらないよーて宣言なんだからやっぱりなくなっちゃったのかな?なくなってないよって言い張られてもそこんとこ決めるのはこっちだから、俺の立ってる半径1mくらいは俺に決めさせてくれよ。悪い芝居なくなったんだなーと思いながら俺はなんとなく渋谷マークシティ明日の神話の前で立ち尽くしていたんだ。

そしたらなんかさ、なんかなんかなんかさ、変な女が旗振っててさ、ついてこいみたいなこと言ってるのね。奈良公園とか歩いててもさ、修学旅行生を引き連れてるバスガイドとか見かけると聞き耳立てちゃうよね、こいつのトークどれくらい仕上がってんのかなーて気になっちゃうじゃん。そのノリでついて行ったらさ、なんか電車とか乗るのよ、下北沢まで行っちゃってさ。さ、さ、さ、さ、言ってるけどこれ最後まで木の葉で隠さないからね、見たまんまのことを喋ってるだけなんだけど。なんかついて行ったらさ、本多劇場みたいな名前のところに辿り着いてさ、俺馬鹿だからわかんけーんだけどよー!当日券があったからまあせっかくだしチケット買って着席したんだ。その後に何が起こるかは何もわからないままに。

 

そこから先のことはあんまり覚えてない。覚えてないことにしたいんだ。そこに何があったかを問われると、何かうしろめたいことがあったかのようにしどろもどろになるだろう。別に何もないんだけどね、うしろめたいことなんか。だけど、俺は何も覚えてないし、何も知らない。そう言い張る。

 

自分はとっておきのままでいたい。そうじゃなければ死んでしまいたい。でもそんな死ぬことのほどでもないし、朝日はボヤけてるし日没はキザったらしくてもサブいし。こんなんほろんでいい世界、誰も俺のことなんか知らないのだろう、俺がいてもいなくても電車は遅延をしないのだろう、わかりきってることばかりが僕の肩にフケのように積もり、僕は撫で肩になっていくのだろう。

それが寂しいことなのかとも特段おもわない。俺は生きていく。顔の皮がベロンと剥がれることも厭わず生きていく。

人間なんかに生まれたことに後悔なんかなくて、俺はただそこにずっといるように生きていく。誰かを抱きしめる準備を忘れずにとぼとぼと生きていく。

 

なんて孤独なんだろう、なんて面白くない世界に生まれ落ちてしまったんだろう。でも、どっかから雄叫びが聴こえるなら、もうそれでいいか。

 

差し出せるものはなんだろう。

 

カッコつけたメッセージか、信頼してるからこその沈黙か。

 

たぶんきっとなんでもよくて、正面衝突さえできればそれでいい。

 

以上です。

2024年ミュージカル版『ダブリンの鐘つきカビ人間』感想文

7月21日(日)マチネの回、観てきましたー。

いやー面白かった。ネタバレありの感想文のつもりで書くので読むかどうかはそこを起点に各自判断してください。

 

2005年片桐仁主演版は映像で観ていたので、アレがミュージカルでリメイクかーいけんのかなーと思って観に行ってみたら、いけてんだなこれがの大傑作。物語としての強度をまず一番に再確認した。

 

初演が1996年、だいたい30年近く前、マジ!?

誰にも何もわからない流行り病、そこから生まれる多様すぎる多様性、自らの病によって引き出される多様な特異性をアイデンティティとして受け入れる人々、そしてそんなはずの人々が無闇に安易に厄災の元凶を探し求め一致団結する様、今の社会を憂えればこそ耳が痛いモチーフがてんこ盛り。

しかしこれが30年近く前に作られた話、時代を先取りしたと言おうと思えば言えんことはない。と言ってもだがしかし、流行病だって、誰かを悪魔にして根本的な問題的をイージーに解決しようとする市民の怒りだって、マクロは変えられないけれどミクロで後ろ向きなハッピーエンドくらいいいじゃないかという感傷だって、昔からずっとずっと紡がれてきた物語じゃないか。

時代を先取りしたように見えても、いつの時代にも通用する普遍的な物語だと解釈しても、結局それっていつまで経っても同じ過ちをアホのように何度でも繰り返す人間に唾を吐きそれでも抱きしめようとする以外に仕方がない、人間の無力さと愚かさとそれでも生きていく生命力とに何かを投げかける。そんな話なんだなと改めて感じた。あのどうしようもないラストは、それでも無邪気に希望を信じることのその過酷さを、今一度投げかけようとする誠実だと思う。

絶望のその先の希望を描いたかと思ったらその芽をすぐに摘むストーリーは、挑発的で冷笑的でまあまあなかなか品がないものだと思う。結局は最後は獲って喰らう、甘い蜜の匂いで相手をおびき寄せる食虫植物みたいなもんだと思う。あのラストはただのドッキリで、でもメインの物語は泣けたね良かったねで終わらせてはいけない。世の中はクソだけどそれでも夢の中では楽しかったならそれでいいや、そんな風に楽しく終わらせてはいけない話だなと改めて思い終わった。

生演奏は頼もしく、キャラクターたちのワクワクや喜び、悲しみや狂気、それらすべてをより雄弁にするために物語の通奏低音を低音とはいえないほどに彩り、そして陰惨な物語の全てが終わった後のカーテンコール。ついさっきまでの最悪を忘れさせるような生演奏による愉快な余興。アレは「ええじゃないか」なんて投げやりなものじゃなくて、パンドラの箱の底を探るような、人間に残された最後の営みだ。うんざりすることばっかりの世界があることを、その世界に自分が今立っていることを、みんなみんな平等にわかってしまったあの場所で、皆で高らかに舞い歌う。人間の嫌なところも、世界の嫌なところも、全部知ってるから全部後押しできる音楽隊が、嫌なところも良いところも演じてきたキャラクターを踊らせ歌わせ笑顔を作る。生演奏舞台として最高のまとめ上げ方だったのではないかと思う。

見る人によっては、素直すぎる人には感動したかもしれないし、意地悪な人には帳尻合わせのお茶濁しみたいな後味をサッパリさせるための演出に見えたかもしれない。

でも、俺は絶望だけを持って帰るなよ、みたいなすごく小さな希望に見えた。同時に、現実とほとんど同じ虚構を虚構と割り切って、楽しいところだけ持って帰るなよという脅しにも見えた。さっきまであんなことやってた奴らがみんなで楽しくやってることへの違和感くらいは覚えろよ、的な。

 

観劇していて自分の過去のある体験を思い出すことがたくさんあった舞台で、それらの体験と思い出をエンターテイメントから離れた時に手放してはいけないと思う舞台で、誰かを好きになったら嫌いになったり仲良くなりたい人と仲良くなれなかったり誰かに何故かはわからないけど嫌われちゃったり、そういう時に思い出したい舞台で、劇場の外に持ち出したい感情をたくさんプレゼントしてくれる舞台だった。

 

以上です。

『虎に翼』12週感想文

最初からずっと追っかけて面白く見てる『虎に翼』なのだが、Xで呟いてみんなであーだこーだ言いたい話でもないので基本黙って観ているものの今週はちょっとブログに残しておきたいなと思って書き残しておく。木曜日に書くのどうなんだとは思うが。

 

戦争を経てそれぞれの結婚観を持ちながらそれぞれの夫を戦争によって等しく奪われた寅子・はる・花江が世代や立場を越えて連帯して生きていく道を選ぶシスターフッド的な展開には舌を巻いたものだが、そこにさらに異物としての道夫の投入でぐちゃぐちゃになっていく展開はめちゃめちゃ面白い。

特にリーガル的な観点から国の未来のためにもそれで給料をもらう職業人としても自身の生活のために寅子が向き合わなくてはならない「戦争孤児」である道夫と、その寅子が家にいるから半ば巻き込まれる形で市井の人に過ぎないはると花江が向き合うことになるという構図に思うところがあった。

はるは道夫について戦争で亡くした息子・直道を重ねて面倒を見ることを決めて、花江もまた夫である直道の服を道夫に着せて涙を流していたのだからそう大差はないだろう。

人は人と別れた喪失をそのようにして埋めるしか仕方がないのだろうか、と思った。人が他人である誰かに向けられる優しさというやつは、本当はその優しさを全力で注ぎ込みたかった別の誰かがいないゆえの代替で誰かに向けられるに過ぎないのかもしれないと思った。

それ自体は責められることではないし、大して悪いことでもない。湧き上がる水のように誰かに注ぎたい優しさを常に持つ人が、注ぎ先がなかなか見つからない故に気まぐれに誰かに優しさを発揮することは悪いことではないと思う。

しかし、その優しさを大きくより多くの人に使う術を持たなければそんなものは、優しさにより救われる人間は常に一定数に限られるゼロサムゲームになってしまい、運良く優しさに触れた人だって結局は自分の手のひらの中の幸せを守ることに躍起になってしまうだろう。

もし優しさですらゼロサムゲームでしかないのであれば、人類は人類の不幸の総量に見合う優しさを持ち合わせないまま誰かは救われるけど、救われないどころか見向きもされない人々を置いてけぼりにする現実を繰り返し続けるしかないのだろうか。人類の不幸の総量が100で、人類の誰でもいいから誰かを助けたい優しい気持ちの総量が50なら、これからもずっとマイナス50で負けっぱなしだ。

そんな現実は受け入れ難いが現状そうなってるという事実を突きつけられるような今週の『虎に翼』であった。

 

ゼロサムゲームを打破する方法はルール変更しかなくて、それを担うのは寅子のような法律に関わる人々というのがひとつの解ではあるのだろう。本当はあの人ただ1人に注ぎたかった優しさを別の1人に注ぐのではなく、仕組みを変えて多くの人に注げる形に変化させる。1の優しさがトータルで見ると2とか3とかになるような、そういう仕組みを使っていこうみたいな話になるんだろうなと想像している。

そしてそれを実践するためには身近な優しくしたい人の喪失するのがまだまだ必要で、夫も兄も父も失った寅子は母の死に慟哭する。傷つかなければ何かを変える力もまだまだ得られない。自身の半生を振り返ってもまあ概ねそうだったなと思う。

まだまだ俺も傷つかなければならない。そうじゃなければまだ俺は誰かの力になることはできない。

そんなことを考えながら見ていた。

 

以上です。