←ズイショ→

ズイショさんのブログはズイショさんの人生のズイショで更新されます!

『不適切にもほどがある!』5話時点雑感

5話を観終えて、「なるほど、そうか、そうか・・・」となった。

言わずと知れたというほど知れてるのかよくわからない宮藤官九郎だが、ポリコレに喧嘩を売る豪速球をぶん投げますと高らかに宣言しているこのドラマの第一報はそりゃ面白くなるぜ!とテンションが上がった。が、うまくいくという期待はしてなくて、というのもクドカンの評価が高いやつってIWGPとかタイガー&ドラゴンとかあとピンポンとか?脚本はやるけど監督はお任せしますみたいなやつが多くて、自分が監督までやりますみたいな映画作品とかは仕上がりも興行成績も微妙だし「好き勝手やってんなー」って感じになりがちで、そういう時にやってるっぽいことをやりそうな予感が『不適切にもほどがある!』には感じられてこれは大変だぞみたいなことは思っていた。

 

案の定、序盤はそんなに面白くないというか、ちょっと厳しいなみたいな展開が多かった。僕はポリコレ連中のスカッとジャパン的なノリは好きではないのだが、別に逆スカッとジャパンみたいな「昭和のアレにもいいところがあった」みたいな話を肯定したいとも思わないので、ちょっとこれ大丈夫か?みたいなところはあった。しかし、クドカンに一定の信頼はあったので、ただ単純に今のポリコレ基準を揶揄したいだけじゃなくて、もっと大きな何かがあるんだろうなと思っていて。

僕が感じていたのはまぁ作中でも言ってるけど「もっと話し合いましょう」みたいな話がたぶん今回のドラマの根っこなんだろうなと思って見ていて、今時点での時代的な正しさを盾にしてそれに適応できてないアップデートできてないやつらには聞く耳を持つ必要がないみたいな態度を取るのは違うんじゃないだろうか?みたいなことをやりたいのかなと感じていた。

もちろん、かつて昭和平成で実際に虐げられてきた人たちからするとそんなこと言ってられないし、嫌だったことをギャグとして披露されるアレや、そういうものと闘った結果として生まれたインティマシー・コーディネーターとかを茶化す描写でハラワタ煮えくり返るのも仕方ないなーとは思う。

描いている内容としては令和のポリコレにはついていけない昭和の人間の阿部サダヲがいて、またポリコレに過剰適応しようとして意味わからんくなってる山本耕史なんかもいたりして、で、そういうの全然おかしいからって思ってる視聴者の声が盛り上がったりして。

俺個人の視聴の感想としては「みんな正解に合わせようとしていて全然対話できてない、もっと対話したほうがいいのに」っていう話なのかなと思っていて、その対話が奇跡的に実現するのがミュージカルパートってことなのかなと思って見ていた。「娘にやらないことはやっちゃだめ」って論理は浅いよって怒られてたけど、そんなん浅いのわかっててやってるだろと思うし、浅いやつは議論に参加するなみたいなやり方じゃうまくいくわけないよ、だって、人類の半分は偏差値50以下らしいぜ?と思うし、声をあげる人のおかげで世の中はアップデートしてよくなってるんだろうとは思うけど、その声をあげる過程に排他性が必須になってしまっててそれを当たり前だと思っているなら、また同じことを我々人類は繰り返すんだろうなみたいなことを考えている。あの阿部サダヲはほとんど原始人で、ヒーローでは全くなく、ただなんもわかってない原始人としてデザインされていると思う。旧時代的な彼の言動で令和の人々の考え方が変わることを良しとしない人というのは、対話を求めず、自分と違った価値観を否定することに躍起になっているように思う(もちろん、そうなってしまった理由があるから仕方ないとも思う)。

 

「対話しようよ」がテーマだと思って見てたら、今週になって神戸の震災の話がぶっこまれて「対話したくても、もうそれはできない過去に亡くなった人たちがたくさんいる」にグッと今週でテーマがシフトした。話せられるうちに話そうよ。どんだけ分かり合えなくても話そうよ。「あの時もっと話しておけばよかった」なんて経験は、だってみんないくらでもあるじゃないか、じゃあ今もっとちゃんと話そうよ。前提も違うし、常識も違うかもしれないけど、話せるのは今しかないんだよ。そんな話になるのかなーと思いながら最終回まで見守る予定だ。

 

以上です。

拝啓、松本人志様

私は1986年生まれ、いまは37歳です。そこらへんにいる一般人です。

大阪の育ちじゃないし、4時ですよーだも知らないし、ど真ん中ではないのかもしれません、あなたの若い時の苦楽を本当に知る年代からは少し遠いかもしれない。それでも間違いなくダウンタウン世代だという自負はあります。

僕はもともと気の弱い子どもでした。いつも人の顔色をうかがっている子どもでした。今もそういうところは抜けきりませんが、まぁなんとかちゃんとした大人をやっています。

子どものころは自分が戦える武器が何も見つからないから、人の顔色をうかがってヘラヘラしていました。声の大きな奴らの後をついていくくらいしか出来ませんでした。

そんな中で松本人志と出会いました。これは僕にとって、とんでもないことでした。

親が家を買ったとかなんとかで僕は当時いじめられてた小学校を脱出して転校して、次の小学校に向かいました。そこで僕はキャラ変を決行していじめられっ子を卒業しようと試みました。にこにこと相槌を打つことに徹するのをやめて、ぼそっと面白いことを言うことで自分の場所を作ろうとしました。それはうまくいったところもあればそうでもないところもありました。しかし、松本人志の真似をすることが、たしかにその時の僕の生存戦略でした。とにかく足が速い男子と人の頭を叩くことに抵抗がない男子と声がでかい男子が強すぎる当時のクラス内カースト制度において、少なくとも僕にとってダウンタウンが提示した価値観は希望でした。

本当はクラスメイトのみんなが言ってること彼らの感覚が正しいと思えなかったくせに、ヘラヘラしてるしかできなかった僕を奮い立たせてくれたのが貴方です。率直に言って僕は貴方から勇気をもらいました。その時の勇気が曳いた道の先に今の僕がいます、これは信奉ではなく、否定できないということです。ぼそぼそと伏し目がちに喋っておきながら人の羨望と理解(のようなもの)をかっさらう貴方はそりゃあもう、かっこよかったし、俺もそうなりたいと思ったもんです。

なりたいなんて生ぬるい感じじゃなくて、目指しました。

今となっては貴方なんか目指すほどのものなのかはさっぱりわかりませんが、俺はあの時、貴方のようになりたかった。いじめられないためにいじめる側に回りたいみたいな、そんな回りくどい話じゃなく、俺にとってあの時の貴方は、クラスのすみっこにいるイケてないやつがクラスの真ん中をかっさらう方法を作り出して実践したヒーローだった。自分が真ん中だと声高に主張するやつらに食って掛かるヒーローでした。

そんな簡単に同じようにはなれないからいっぱい僕はミスを犯しました。あなたの真似をして人に好かれたり嫌われたり、それは一時的なもんだったりずっと尾を引いたり。まぁ全部自業自得だからいいんですけど。松本人志なんかに俺はなれないという当たり前のことを憧れながら受け入れていったのが俺の十代だったのかもしれない。二十代以降は適切な距離感を覚えて尊敬できる部分できない部分がめちゃめちゃありましたが。

こんな言い方をするとびっくりする人もいるかもしれないが、人との繋がり方を俺に教えてくれたのは松本人志かもしれない。失敗してもいいんだ、分かり合えなくてもいいんだ、嫌われたら嫌われたでいい、そんなもん知ったこっちゃなくて俺は俺でいたいんだ、そんなことを教えてくれた人たちのなかの1人が俺の中では松本人志なのだ。2024年に書くととても虚しいし、良くないことを書いてる感じがしますね。でも本当に、この一連の文章は擁護じゃなくて「松ちゃん悪くないよ」って話じゃなくて、そんな松本人志に救われたかつての俺が今も俺の中にいるのをちゃんと殺そうっていう、セルフ殺害&供養なのかなぁ。かつて憧れていた俺は殺さなくていいけど、憧れ故に今も擁護したい俺がいるならそいつは殺して墓を立てた方がいい。

 

松本人志はいつも寂しそうなやつだった。そして、それは俺の寂しさをいつも救ってくれた。とっくの昔から老害っぽくなっちゃったなと思ってたし、大人になった自分から見たら随分ろくなやつじゃないことなんかわかってるし、件の一連の報道はなかなか擁護のしようがないこともわかりきっている。しかしその一方でかつて俺は松本人志に救われたことがある、その思い出だけが俺の視界をぶんぶんと飛びまわる蝿のように鬱陶しくまとわりついている。蝿ってたまに見るとすごい複眼でびっくりする。複眼を俺が見る時に複眼だと認識できることにびっくりする。蝿の複眼を見る時だけ俺の視力が上がってるんじゃないかなと思う。

 

チキンライスを聴いたのがよくなかったな。今聴いたらどんな気持ちになるかな思って聴いたんだけど、あれはあれで紛れもない本心なのだろうと思ったらダメになってしまった。どうしてこんなことになっちゃったんだろなんて言うつもりは全くない。すべてはほとんど必然の結果の今なんだろう。そこには憤りらしいものは何もなく、ただ置いてけぼりにされたような子どもの頃の僕がいる。冷静に報道を見る俺の脇目に、体育座りしているそいつがいた。だからやっぱりこれは供養だ。当時の俺を救った松本人志の気高さと優しさと寂しさを俺は忘れない。そして、そういうものが何かに飲み込まれて、とても残念に陳腐化して人を傷つけまくっていたんだということを自戒を込めて忘れないくらいしかできない。

 

以上です。

松本人志の一連の文春報道についてのサンジャポ太田の言葉雑感

www.oricon.co.jp

 

一連の報道のこれまでの経緯や、それを取り巻くネット世論の整理などは割愛する。

 

テレビやネットやでの一連の報道に関する芸人やタレントのコメントは忖度が過ぎると眉を顰めたくなるものも多い。「文春側が言ってるだけだから」「本当のところはわからない」「裁判を見守るしか」等等。

これらのコメントがなぜ訝しく感じられるかというと、偏に誰もが「週刊文春の報道に対してのコメント」に留めていながら明らかに誰もが松本人志により親しい人間であることに依るだろう。明らかに松本人志と強い利害関係を持ちながら報道に対しての中立を装うのであれば、最早それは中立とは言い難い。その姿勢を「逃げている」と揶揄されるのはやむを得ない。

一方で今回の太田光は「報道に対するコメント」ではなく「報道の渦中にある双方の当事者に向けた言葉」である点が大きく異なるように感じた。また、双方に対するそれぞれのコメントに強く感じたのは現在の状況に対してのエールや寄り添いであるのと同時に、未来に対してのエールや寄り添いでもあるという点だ。

文春を通して告発した女性ら(あるいはその背後にいるさらに多くの性被害経験のある人々)へは、過激松本擁護派のネットバッシングを念頭において、告発をすること訴えることの困難さ、困難さゆえに躊躇してしまう自身への自責心について触れながら、理不尽と感じたことを理不尽だと思うことは悪いことではない、自分の感じた思いを他人から否定されてもあなたは間違ってないから自分を責めないでというような内容に受け止めた。そしてこれは、現在の状況を受けての言葉でありながら、この騒動がどのような形で決着を見せるにせよ、それが当人にとって納得し難い形になったとしても何も変わらない、どんな形になったとしてもあなたは悪くないし自分を責めないでという未来に対するメッセージであるようにも感じた。

一方で松本人志に対しても同様の視点から現在と未来への言葉を投げかけていたように感じられた。まず現在については、松本人志はどうあれ告発された時点でどうしたって窮地に追い込まれている。恐らく苦しい心境だろうという前提から話を切り出す。(自業自得だとか、いや人を舐め腐って大して慌ててもないだろうとか、色々な意見はあるだろうが割愛)今回の報道が世に出たことを「賽の目は投げられた」と形容するのはあんまりよくないのかもしれない(なぜなら当事者双にとっての事実はそれぞれにとって既に存在している)があえてそう形容するならば松本の側は賽の目が確定するまでもなく圧倒的に負けている(自業自得という声以下割愛)。その既に負けている現状への松本人志への太田なりのエールはああなるのだろうという印象を受けた。では、太田が松本人志の未来へ向けた言葉とはなにか、それはとても切実で真摯で厳しいエールだと感じた。

この騒動はなんらくの決着を得るだろう。しかし、それがどのような結果であれ賽の目が投げられた時点でどんな賽の目が出ようとも一度転がり落ちるしかないのだ。示談が成立しようと、文春から勝訴を勝ち取ろうとも、それを勝った許されたと勘違いしてはならない。結果そのものへの不服の声は当然上がるだろうし、そもそも世論の争点は加害性の有無にもともと留まってもいない、そこでどんな決着が出ようとも全ては以前とは変わってしまったのだ。一方でテレビでは「よかったよかった松本さんおかえり」とみんなが歓迎するだろう。前者の声に耳を塞ぎ、後者の声だけを頼りにもう一度玉座に座った時に松本人志は真の裸の王様となるだろう。そうはなってくれるな、お笑いでいるのなら間違えずに一度ちゃんと転がり落ちてくれ。そんな風に俺には聞こえた。

以上です。