←ズイショ→

ズイショさんのブログはズイショさんの人生のズイショで更新されます!

実写ドラマ『十角館の殺人』俺と島田潔の解釈違い

ネタバレっちゃネタバレだけどほとんど島田潔のキャラクターの話で事件の真相に迫るような言及はたぶんそんなないけどまあ自己責任で。というか面白いから全員観ろ!!

 

俺の小説版における島田潔のイメージ、なんかこうもっと一見するとなんでもなさそうなやつというか、そういう顔を使い分ける狡いやつみたいなイメージだったんだよなー。「人たらし」というよりは「人懐こい」、「キザったらしい」というよりは「ひょうきん」で、「軽薄」というよりは「自然体」、もちろん本質として一筋縄ではいかない油断ならないやつなのは間違いないしその雰囲気を醸し出す瞬間はあるんだけど基本的には人を警戒させないためにそのオーラは普段は消してて凡庸で無害なやつの擬態をながら人の懐に潜り込むのがうまいやつ、一方でぎくりとさせるような核心への言及をいきなり叩き込んでるみたいな二面生を持ったやつ、そういうキャラクターをイメージしていた。捜査の進め方でいうとそれこそ小学生のふりをして無邪気な好奇心を装ってピースを集める江戸川コナン的なやり方をするやつ。そしてそれを踏まえても青木崇高はそんな島田潔を演じてくれるはずだと期待してたんたけど、観てみたら思ったよりめっちゃ典型的な探偵野郎だった!人たらし、ともすれば露悪的なユーモア、軽薄、かっこつけ!思ってたんとちょっと違う!いや結構違う!そしてかっこいい!青木崇高版島田潔めちゃかっこいい!惚れる!俺もこんなおじさんと一緒に謎解きに立ち向かいたい!けど、俺のイメージの島田潔と比べるとかっこよすぎる!俺の考える島田潔はそんな一度会って二言三言と会話をしてみたら明らかに只者でないとわかるような誰にでも一目置かれるようなわかりやすい男ではない。もっとふつうにちょっと人より距離感が近くてなんだこいつと思われるけどどこか憎めないので受け入れられてしまうみたいな、そういうのをわざとやってるタイプのやつなんだよー。青木崇高版島田潔なんて明らかに油断ならないやつなんだから、こんな島田潔に紅さん心を開いちゃダメだよ。もっとこう、島田潔は紅さんにとって「変わり者の俺を慕ってくれるあまり踏み込んではこないから別にいてくれていいかなと思っちゃう無害な変わり者の後輩」っぽいやつだったんだよ俺の中でのイメージは。もっとどんくさそうなオーラが島田潔にはあってほしかった。こんな喧嘩も強そうな島田潔、島田潔じゃない!こんな二重の極みを使いそうな島田潔、島田潔じゃない!それは仕方がないだろ!!

そしてまあこの俺が考える島田潔像、そこまで俺の勝手なお気持ち表明だとも思っていなくて、というのもこの十角館という作品にはもう1人明らかに探偵然とした振る舞いをするエラリイというキャラクターがいて、そんなやつが作中に2人もいるとうるさくて敵わないので島田潔は意図的にエラリイのような「いかにも探偵らしい自信家のキザ」ではなく「飄々とした食えないやつ」に設定されてたんじゃないかと思っている。けどまあ実写版だと大学生の探偵ごっこエラリイと、ダンディ本格派おっさん探偵島田潔は全然違うキャラクターになるのでああいう島田潔でも全然問題ないみたいな判断なのかなと思っている。でもなー!俺が最初に出会った島田潔はあんなにかっこよくないんだよー!そもそもあんなかっこいい島田潔が、「今日の一本」なんてクソダサい締め方をするはずがないだろ。あれマジでダサすぎるし、そのダサさが島田潔の魅力。探偵としての資質は十二分に備えていながら主人公探偵としてはいまいち締まらない男、それこそが中村青司の建てた館こそが主人公である館シリーズの探偵役にちょうどいい島田潔じゃないのかよー!ちょっとあの島田潔はかっこよすぎるよー!かっこよさが過ぎるよー!

でもまあ、あの青木崇高演じる島田潔が水車館や迷路館に乗り込んでいくのは絶対に面白くてかっこよくて観たいので全部OKです!

以上です。

『不適切にもほどがある!』5話時点雑感

5話を観終えて、「なるほど、そうか、そうか・・・」となった。

言わずと知れたというほど知れてるのかよくわからない宮藤官九郎だが、ポリコレに喧嘩を売る豪速球をぶん投げますと高らかに宣言しているこのドラマの第一報はそりゃ面白くなるぜ!とテンションが上がった。が、うまくいくという期待はしてなくて、というのもクドカンの評価が高いやつってIWGPとかタイガー&ドラゴンとかあとピンポンとか?脚本はやるけど監督はお任せしますみたいなやつが多くて、自分が監督までやりますみたいな映画作品とかは仕上がりも興行成績も微妙だし「好き勝手やってんなー」って感じになりがちで、そういう時にやってるっぽいことをやりそうな予感が『不適切にもほどがある!』には感じられてこれは大変だぞみたいなことは思っていた。

 

案の定、序盤はそんなに面白くないというか、ちょっと厳しいなみたいな展開が多かった。僕はポリコレ連中のスカッとジャパン的なノリは好きではないのだが、別に逆スカッとジャパンみたいな「昭和のアレにもいいところがあった」みたいな話を肯定したいとも思わないので、ちょっとこれ大丈夫か?みたいなところはあった。しかし、クドカンに一定の信頼はあったので、ただ単純に今のポリコレ基準を揶揄したいだけじゃなくて、もっと大きな何かがあるんだろうなと思っていて。

僕が感じていたのはまぁ作中でも言ってるけど「もっと話し合いましょう」みたいな話がたぶん今回のドラマの根っこなんだろうなと思って見ていて、今時点での時代的な正しさを盾にしてそれに適応できてないアップデートできてないやつらには聞く耳を持つ必要がないみたいな態度を取るのは違うんじゃないだろうか?みたいなことをやりたいのかなと感じていた。

もちろん、かつて昭和平成で実際に虐げられてきた人たちからするとそんなこと言ってられないし、嫌だったことをギャグとして披露されるアレや、そういうものと闘った結果として生まれたインティマシー・コーディネーターとかを茶化す描写でハラワタ煮えくり返るのも仕方ないなーとは思う。

描いている内容としては令和のポリコレにはついていけない昭和の人間の阿部サダヲがいて、またポリコレに過剰適応しようとして意味わからんくなってる山本耕史なんかもいたりして、で、そういうの全然おかしいからって思ってる視聴者の声が盛り上がったりして。

俺個人の視聴の感想としては「みんな正解に合わせようとしていて全然対話できてない、もっと対話したほうがいいのに」っていう話なのかなと思っていて、その対話が奇跡的に実現するのがミュージカルパートってことなのかなと思って見ていた。「娘にやらないことはやっちゃだめ」って論理は浅いよって怒られてたけど、そんなん浅いのわかっててやってるだろと思うし、浅いやつは議論に参加するなみたいなやり方じゃうまくいくわけないよ、だって、人類の半分は偏差値50以下らしいぜ?と思うし、声をあげる人のおかげで世の中はアップデートしてよくなってるんだろうとは思うけど、その声をあげる過程に排他性が必須になってしまっててそれを当たり前だと思っているなら、また同じことを我々人類は繰り返すんだろうなみたいなことを考えている。あの阿部サダヲはほとんど原始人で、ヒーローでは全くなく、ただなんもわかってない原始人としてデザインされていると思う。旧時代的な彼の言動で令和の人々の考え方が変わることを良しとしない人というのは、対話を求めず、自分と違った価値観を否定することに躍起になっているように思う(もちろん、そうなってしまった理由があるから仕方ないとも思う)。

 

「対話しようよ」がテーマだと思って見てたら、今週になって神戸の震災の話がぶっこまれて「対話したくても、もうそれはできない過去に亡くなった人たちがたくさんいる」にグッと今週でテーマがシフトした。話せられるうちに話そうよ。どんだけ分かり合えなくても話そうよ。「あの時もっと話しておけばよかった」なんて経験は、だってみんないくらでもあるじゃないか、じゃあ今もっとちゃんと話そうよ。前提も違うし、常識も違うかもしれないけど、話せるのは今しかないんだよ。そんな話になるのかなーと思いながら最終回まで見守る予定だ。

 

以上です。

拝啓、松本人志様

私は1986年生まれ、いまは37歳です。そこらへんにいる一般人です。

大阪の育ちじゃないし、4時ですよーだも知らないし、ど真ん中ではないのかもしれません、あなたの若い時の苦楽を本当に知る年代からは少し遠いかもしれない。それでも間違いなくダウンタウン世代だという自負はあります。

僕はもともと気の弱い子どもでした。いつも人の顔色をうかがっている子どもでした。今もそういうところは抜けきりませんが、まぁなんとかちゃんとした大人をやっています。

子どものころは自分が戦える武器が何も見つからないから、人の顔色をうかがってヘラヘラしていました。声の大きな奴らの後をついていくくらいしか出来ませんでした。

そんな中で松本人志と出会いました。これは僕にとって、とんでもないことでした。

親が家を買ったとかなんとかで僕は当時いじめられてた小学校を脱出して転校して、次の小学校に向かいました。そこで僕はキャラ変を決行していじめられっ子を卒業しようと試みました。にこにこと相槌を打つことに徹するのをやめて、ぼそっと面白いことを言うことで自分の場所を作ろうとしました。それはうまくいったところもあればそうでもないところもありました。しかし、松本人志の真似をすることが、たしかにその時の僕の生存戦略でした。とにかく足が速い男子と人の頭を叩くことに抵抗がない男子と声がでかい男子が強すぎる当時のクラス内カースト制度において、少なくとも僕にとってダウンタウンが提示した価値観は希望でした。

本当はクラスメイトのみんなが言ってること彼らの感覚が正しいと思えなかったくせに、ヘラヘラしてるしかできなかった僕を奮い立たせてくれたのが貴方です。率直に言って僕は貴方から勇気をもらいました。その時の勇気が曳いた道の先に今の僕がいます、これは信奉ではなく、否定できないということです。ぼそぼそと伏し目がちに喋っておきながら人の羨望と理解(のようなもの)をかっさらう貴方はそりゃあもう、かっこよかったし、俺もそうなりたいと思ったもんです。

なりたいなんて生ぬるい感じじゃなくて、目指しました。

今となっては貴方なんか目指すほどのものなのかはさっぱりわかりませんが、俺はあの時、貴方のようになりたかった。いじめられないためにいじめる側に回りたいみたいな、そんな回りくどい話じゃなく、俺にとってあの時の貴方は、クラスのすみっこにいるイケてないやつがクラスの真ん中をかっさらう方法を作り出して実践したヒーローだった。自分が真ん中だと声高に主張するやつらに食って掛かるヒーローでした。

そんな簡単に同じようにはなれないからいっぱい僕はミスを犯しました。あなたの真似をして人に好かれたり嫌われたり、それは一時的なもんだったりずっと尾を引いたり。まぁ全部自業自得だからいいんですけど。松本人志なんかに俺はなれないという当たり前のことを憧れながら受け入れていったのが俺の十代だったのかもしれない。二十代以降は適切な距離感を覚えて尊敬できる部分できない部分がめちゃめちゃありましたが。

こんな言い方をするとびっくりする人もいるかもしれないが、人との繋がり方を俺に教えてくれたのは松本人志かもしれない。失敗してもいいんだ、分かり合えなくてもいいんだ、嫌われたら嫌われたでいい、そんなもん知ったこっちゃなくて俺は俺でいたいんだ、そんなことを教えてくれた人たちのなかの1人が俺の中では松本人志なのだ。2024年に書くととても虚しいし、良くないことを書いてる感じがしますね。でも本当に、この一連の文章は擁護じゃなくて「松ちゃん悪くないよ」って話じゃなくて、そんな松本人志に救われたかつての俺が今も俺の中にいるのをちゃんと殺そうっていう、セルフ殺害&供養なのかなぁ。かつて憧れていた俺は殺さなくていいけど、憧れ故に今も擁護したい俺がいるならそいつは殺して墓を立てた方がいい。

 

松本人志はいつも寂しそうなやつだった。そして、それは俺の寂しさをいつも救ってくれた。とっくの昔から老害っぽくなっちゃったなと思ってたし、大人になった自分から見たら随分ろくなやつじゃないことなんかわかってるし、件の一連の報道はなかなか擁護のしようがないこともわかりきっている。しかしその一方でかつて俺は松本人志に救われたことがある、その思い出だけが俺の視界をぶんぶんと飛びまわる蝿のように鬱陶しくまとわりついている。蝿ってたまに見るとすごい複眼でびっくりする。複眼を俺が見る時に複眼だと認識できることにびっくりする。蝿の複眼を見る時だけ俺の視力が上がってるんじゃないかなと思う。

 

チキンライスを聴いたのがよくなかったな。今聴いたらどんな気持ちになるかな思って聴いたんだけど、あれはあれで紛れもない本心なのだろうと思ったらダメになってしまった。どうしてこんなことになっちゃったんだろなんて言うつもりは全くない。すべてはほとんど必然の結果の今なんだろう。そこには憤りらしいものは何もなく、ただ置いてけぼりにされたような子どもの頃の僕がいる。冷静に報道を見る俺の脇目に、体育座りしているそいつがいた。だからやっぱりこれは供養だ。当時の俺を救った松本人志の気高さと優しさと寂しさを俺は忘れない。そして、そういうものが何かに飲み込まれて、とても残念に陳腐化して人を傷つけまくっていたんだということを自戒を込めて忘れないくらいしかできない。

 

以上です。