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『虎に翼』12週感想文

最初からずっと追っかけて面白く見てる『虎に翼』なのだが、Xで呟いてみんなであーだこーだ言いたい話でもないので基本黙って観ているものの今週はちょっとブログに残しておきたいなと思って書き残しておく。木曜日に書くのどうなんだとは思うが。

 

戦争を経てそれぞれの結婚観を持ちながらそれぞれの夫を戦争によって等しく奪われた寅子・はる・花江が世代や立場を越えて連帯して生きていく道を選ぶシスターフッド的な展開には舌を巻いたものだが、そこにさらに異物としての道夫の投入でぐちゃぐちゃになっていく展開はめちゃめちゃ面白い。

特にリーガル的な観点から国の未来のためにもそれで給料をもらう職業人としても自身の生活のために寅子が向き合わなくてはならない「戦争孤児」である道夫と、その寅子が家にいるから半ば巻き込まれる形で市井の人に過ぎないはると花江が向き合うことになるという構図に思うところがあった。

はるは道夫について戦争で亡くした息子・直道を重ねて面倒を見ることを決めて、花江もまた夫である直道の服を道夫に着せて涙を流していたのだからそう大差はないだろう。

人は人と別れた喪失をそのようにして埋めるしか仕方がないのだろうか、と思った。人が他人である誰かに向けられる優しさというやつは、本当はその優しさを全力で注ぎ込みたかった別の誰かがいないゆえの代替で誰かに向けられるに過ぎないのかもしれないと思った。

それ自体は責められることではないし、大して悪いことでもない。湧き上がる水のように誰かに注ぎたい優しさを常に持つ人が、注ぎ先がなかなか見つからない故に気まぐれに誰かに優しさを発揮することは悪いことではないと思う。

しかし、その優しさを大きくより多くの人に使う術を持たなければそんなものは、優しさにより救われる人間は常に一定数に限られるゼロサムゲームになってしまい、運良く優しさに触れた人だって結局は自分の手のひらの中の幸せを守ることに躍起になってしまうだろう。

もし優しさですらゼロサムゲームでしかないのであれば、人類は人類の不幸の総量に見合う優しさを持ち合わせないまま誰かは救われるけど、救われないどころか見向きもされない人々を置いてけぼりにする現実を繰り返し続けるしかないのだろうか。人類の不幸の総量が100で、人類の誰でもいいから誰かを助けたい優しい気持ちの総量が50なら、これからもずっとマイナス50で負けっぱなしだ。

そんな現実は受け入れ難いが現状そうなってるという事実を突きつけられるような今週の『虎に翼』であった。

 

ゼロサムゲームを打破する方法はルール変更しかなくて、それを担うのは寅子のような法律に関わる人々というのがひとつの解ではあるのだろう。本当はあの人ただ1人に注ぎたかった優しさを別の1人に注ぐのではなく、仕組みを変えて多くの人に注げる形に変化させる。1の優しさがトータルで見ると2とか3とかになるような、そういう仕組みを使っていこうみたいな話になるんだろうなと想像している。

そしてそれを実践するためには身近な優しくしたい人の喪失するのがまだまだ必要で、夫も兄も父も失った寅子は母の死に慟哭する。傷つかなければ何かを変える力もまだまだ得られない。自身の半生を振り返ってもまあ概ねそうだったなと思う。

まだまだ俺も傷つかなければならない。そうじゃなければまだ俺は誰かの力になることはできない。

そんなことを考えながら見ていた。

 

以上です。