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2024年ミュージカル版『ダブリンの鐘つきカビ人間』感想文

7月21日(日)マチネの回、観てきましたー。

いやー面白かった。ネタバレありの感想文のつもりで書くので読むかどうかはそこを起点に各自判断してください。

 

2005年片桐仁主演版は映像で観ていたので、アレがミュージカルでリメイクかーいけんのかなーと思って観に行ってみたら、いけてんだなこれがの大傑作。物語としての強度をまず一番に再確認した。

 

初演が1996年、だいたい30年近く前、マジ!?

誰にも何もわからない流行り病、そこから生まれる多様すぎる多様性、自らの病によって引き出される多様な特異性をアイデンティティとして受け入れる人々、そしてそんなはずの人々が無闇に安易に厄災の元凶を探し求め一致団結する様、今の社会を憂えればこそ耳が痛いモチーフがてんこ盛り。

しかしこれが30年近く前に作られた話、時代を先取りしたと言おうと思えば言えんことはない。と言ってもだがしかし、流行病だって、誰かを悪魔にして根本的な問題的をイージーに解決しようとする市民の怒りだって、マクロは変えられないけれどミクロで後ろ向きなハッピーエンドくらいいいじゃないかという感傷だって、昔からずっとずっと紡がれてきた物語じゃないか。

時代を先取りしたように見えても、いつの時代にも通用する普遍的な物語だと解釈しても、結局それっていつまで経っても同じ過ちをアホのように何度でも繰り返す人間に唾を吐きそれでも抱きしめようとする以外に仕方がない、人間の無力さと愚かさとそれでも生きていく生命力とに何かを投げかける。そんな話なんだなと改めて感じた。あのどうしようもないラストは、それでも無邪気に希望を信じることのその過酷さを、今一度投げかけようとする誠実だと思う。

絶望のその先の希望を描いたかと思ったらその芽をすぐに摘むストーリーは、挑発的で冷笑的でまあまあなかなか品がないものだと思う。結局は最後は獲って喰らう、甘い蜜の匂いで相手をおびき寄せる食虫植物みたいなもんだと思う。あのラストはただのドッキリで、でもメインの物語は泣けたね良かったねで終わらせてはいけない。世の中はクソだけどそれでも夢の中では楽しかったならそれでいいや、そんな風に楽しく終わらせてはいけない話だなと改めて思い終わった。

生演奏は頼もしく、キャラクターたちのワクワクや喜び、悲しみや狂気、それらすべてをより雄弁にするために物語の通奏低音を低音とはいえないほどに彩り、そして陰惨な物語の全てが終わった後のカーテンコール。ついさっきまでの最悪を忘れさせるような生演奏による愉快な余興。アレは「ええじゃないか」なんて投げやりなものじゃなくて、パンドラの箱の底を探るような、人間に残された最後の営みだ。うんざりすることばっかりの世界があることを、その世界に自分が今立っていることを、みんなみんな平等にわかってしまったあの場所で、皆で高らかに舞い歌う。人間の嫌なところも、世界の嫌なところも、全部知ってるから全部後押しできる音楽隊が、嫌なところも良いところも演じてきたキャラクターを踊らせ歌わせ笑顔を作る。生演奏舞台として最高のまとめ上げ方だったのではないかと思う。

見る人によっては、素直すぎる人には感動したかもしれないし、意地悪な人には帳尻合わせのお茶濁しみたいな後味をサッパリさせるための演出に見えたかもしれない。

でも、俺は絶望だけを持って帰るなよ、みたいなすごく小さな希望に見えた。同時に、現実とほとんど同じ虚構を虚構と割り切って、楽しいところだけ持って帰るなよという脅しにも見えた。さっきまであんなことやってた奴らがみんなで楽しくやってることへの違和感くらいは覚えろよ、的な。

 

観劇していて自分の過去のある体験を思い出すことがたくさんあった舞台で、それらの体験と思い出をエンターテイメントから離れた時に手放してはいけないと思う舞台で、誰かを好きになったら嫌いになったり仲良くなりたい人と仲良くなれなかったり誰かに何故かはわからないけど嫌われちゃったり、そういう時に思い出したい舞台で、劇場の外に持ち出したい感情をたくさんプレゼントしてくれる舞台だった。

 

以上です。