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野田地図26回公演『兎、波を走る』感想文

MIWA以来何年振りか数えるのかもめんどくさい久方ぶりの野田地図観劇。

チケット争奪戦にヤキモキするのが面倒で「まあとりあえず一回は観たし」とずっと敬遠していたのだが友人がよろしく二人分のチケットを当選させてくれたお陰で2回目の野田地図観劇の運びとなった。

 

観た人が「ふーん」と思いながら読むことを想定しており、ネタバレへの配慮もなければ、観てない人向けの丁寧なあらすじ解説もない。そこんとこよろしく。

 

まあ、「いつもの」と言ってしまえばそれまでであんまりなのだが、しっちゃかめっちゃかの愉快な虚構を楽しくおかしく違和感と共にベタベタと貼り付けながら舞台は進んでいって、そして虚構をベロンと剥がせば違和感だけが残って、そのつぎはぎの違和感が作るシルエットはあるひとつの現実に起こった事象をまるっと立ち上がらせる。そんないつもの野田演劇。

 

「いつもの」飽きたよ、と言うのは簡単だが、それが本当に嫌なら野田地図なんかわざわざ観なくていいので、そこを突っつくのは野暮というか詮なしだ。一方で野田秀樹自身もそれだけではあんまりに直線的だと思ったのか、直情的に作劇した結果なのか、さらにもう一つメタバースの要素を足してくる。

ここが俺にはちょっと強引というか、作品として小さくまとめてしまったように感じられてしまった。メタバースVRアバターやAIや、ここらへんの取り扱い方がいかにもおじいちゃん的な感覚に思われるのは作ってる人が実際におじいちゃんなのだから仕方ないのだろうとは思いつつ、北朝鮮という自称ネバーランドとそのまま重ね合わせるのはいささかおじいちゃんの悪い側面が前に出すぎているのではないかと、観ていて座りが悪かった。

そういう、ある種の不満を感じつつ、この演劇に一定の説得力を持たせているのは現実と虚構を行き来する領域侵犯を試みる人間を否定するように立ち塞がるサイバーな赤外線を思わせる赤い紐、それに行く手を阻まれ絡め取られボロ雑巾のように死んでいく高橋一生、或いは『オイル』の時と同じように、楽観的に次の時代を目指して去っていく人々に取り残されて一人ぽつねんと立ち尽くす松たか子。信念の核以外は時代や環境やシチュエーションによって根こそぎこそぎ落とされたことを雄弁と示す彼らの身体性こそが、違った価値観を自由に行き来することなど人間には到底できもしない不条理と、それをできると信じ込んで進んでしまった人間たちも決して後戻りはできないという人類の歩みの不可逆性を物語る。

人間は正しいと思って前へ進む。間違っていたと気づいたなら引き戻せばいい。その時その時で正しいと思う道を選び直せば良い。

そんな現代的で合理的な考え方の甘っちょろさと机上の空論の虚しさを問い質すという形で、この作品における北朝鮮問題(拉致問題及びよど号ハイジャック事件)とメタバースという新しい世界作りへの諫言はなんとか接続して成立してたのだろう。

 

近年の野田秀樹の特に実際の事件事故事象を取り扱った野田秀樹作品に対してなんともコメントしにくいところは、作品のメッセージ性としては「みんなもうちょっと冷静になって立ち止まって落ち着いて考えてみようよ」がある癖に言ってる本人の筆が乗りすぎている。良いように言えばエンターテイメント性との両立を強く心掛けているし、悪く言えばはしゃぎすぎている。まあ簡単に言えば「落ち着けよと言ってるお前が一番落ち着いてない」と思うのだが、もちろんこれに「なんだかんだ感動して啜り泣いて、エンタメと消費している我々観客」みたいな、俯瞰で全部織り込み済みな野田秀樹すごいね、って落とし方もできないことはないんだが、さすがにそれは野田秀樹を甘やかしすぎなんじゃねえかなと思わないでもない。本作にしてもフェイクスピアにしても遡ればキャラクターにしても、太平洋戦争を扱うのと同じ手癖でやるには、ちょっと焦りすぎなんじゃねえかなとは思う。でもまあ、ジジイに生き急ぐなって言ってもそれは無理な話なのかもしれないとも思う。

ともあれ、現在進行形の事象であればこそ、いつものノリでびっくり箱の中にしめしめとエンタメ爆弾として隠しておくいつものやり方で扱うにはどうなんだと微妙な気持ちにはなりつつも、まあ問題意識は腑に落ちた。

実際の拉致の現場を描いたシーンの気持ち悪さ、やりきれなさったら大したもんで。思い出したのは、俺が子供の頃、20年以上前のことだろう、とある都市伝説がまことしやかに流布されていたことを思い出した。中国だか東南アジアだか、観光旅行に出向いた若い女が現地のショッピングモールの試着室に入ったきり、姿を消してしまい、その女は両腕両脚を切り落とされたダルマ女として、今もこの世界のどこかの見世物小屋に晒されているのだ。そんな都市伝説に頼るまでもなく、一人の人間の人生を大きく台無しにする不条理なんざ実際に蔓延っていて、そしてその不条理は未だなんの精算もされないままただ今もそこにあり、そしてそんな現実には目配せもしないまま、今も我々は都市伝説とさして変わらないあれこれに怯えながら新天地を求めて魍魎跋扈する次の時代に飛び込もうとしている。そんな現代人の千鳥足に対する警鐘はさすがに俺だって聴こえた。鐘を叩いてるのがおじいちゃんだったので、多少うるさすぎるきらいはあったが、それが聴こえないほどこちとら馬鹿じゃない。

最後、松たか子が一人になって終わった。これは実に歪なラストである。世の中がどれだけ歪に捻くれようとも、最後に共にいる人を探す権利は誰にだってある。俺にだってあなたにだってある。俺は松たか子ではないから、どれだけ世界に取り残されても、隣にいる誰かを想像できるかもしれない。抱きしめ合うことができるかもしれない。そしてその一方で、その権利すら奪われる不条理がこの世にある。それが堪らない。「私がその当事者だったとしたら」を思わせるという意味では、過去の野田地図作品と比べても、本当に抜群にとても後味が悪かった。ので、良かった。

 

以上です。