←ズイショ→

ズイショさんのブログはズイショさんの人生のズイショで更新されます!

『アンチ・クライスト』感想文

基本的にネタバレにためらいが無い感想文になりますので、この映画未見で今後ナチュラルな気持ちで楽しむ予定がある方は回れ右をするのがいいかもしれません。とりあえず行間空けてスクロールしたら始まるようにするのもアレなので余談をテキトーに書き散らしました後、掲題映画の話が始まります。

チェコ好きさん(id:aniram-czech)がブログでゴダールっていうおじいちゃんの最新作『さらば、愛の言葉よ』が超おもしれぇよみたいな話してて、なんだか超おもしれそうでしかも3Dだからこそ超おもしれぇって話なんでじゃあそれDVDじゃ超おもしれぇってわけじゃないんなら映画館に行かなきゃじゃんよと思って、それは次の水曜日の建国記念日に見に行くんですね。最近はレディースデーとかいう女性優位システムも廃れて水曜日は性別問わず割安で映画が観れるんですね、いい時代ですね。で、僕はサブカル的な素養があんまり足りない、テレビと四大週刊少年誌で育ったというどこに出しても恥ずかしい教養のないおじさんなものですから、ゴダールっていうおじいちゃんが若いときどんな映画を撮ってた人なのか知らないんですね。なのでちったぁ見ておいたほうがいいだろと思いましてとりあえず『勝手にしやがれ』と『気狂いピエロ』を借りてきまして、『勝手にしやがれ』は観たんですけど流石に50年代の映画はかったるいですね。「たぶん当時はここらへん斬新だったんだろうな」とかは分かるんですけど、21世紀を生きる科学の子こと俺こと僕が全力で面白がるのちょっと難しいなーと思いつつ舟漕ぎながら何とか見果せましたけどね、このエントリ書いた後には『気狂いピエロ』が控えてるんでそれも大丈夫かなー眠そうだなーとビクビクしています。ところで、そういう名作映画を観ようとするとかなりでかいTSUTAYAに行かないとあかんやろってのがありまして、近所にある手狭なTSUTAYAだとどうしても典型的な娯楽映画に寄ってる印象があっていわゆるしゃらくせえ映画はどうにも品揃えが悪いんですよね(そんな失礼な「いわゆる」があるか)。なので、こんな機会でもないとそもそも借りるタイミングすらねえような映画をほかにも借りとこうってことで、『アンチクライスト』という映画を借りて観ました。やっと感想文が始まります。

アンチクライスト [DVD]

アンチクライスト [DVD]

 

なんか、こう、惜しかった。色々なんでそっち行っちゃったんだよ感が強くて、前半面白いのに後半になるにつれ「ああ、なんだそういう話なのね。そういう話なのを隠してたから前半は面白かっただけか」みたいな感じになっちゃって、なんだかもったいねーなーって思いました。後半はかなり残酷な痛い描写もあるので耐性ない人は注意ねって映画なんですけど、どうもそういう映画らしいということは聞き及んでたものの前半はあんまりそういう雰囲気が無くて、そういう雰囲気が無くてちゃんと怖くておどろおどろしかったんでいいぞぅと思ってたんだけど、後半普通に痛いだけになっちゃったのでダメぢゃんってなりました。むしろ僕は「あれ、聞いてたのと違うぞ?だってこんだけ雰囲気作れてるのに後半で安易な痛みやグロ描写に走っちゃたら台無しじゃないの?」とすら思ってたのでとても残念でした。血とかどうでもええねんドングリの方が怖かったやろ!いうてね。

それは置いておくにしても物語としてもいくつかそりゃあかんやでって思う箇所はあったんですけど、なんつーのかな、ジャンプの主人公が実はめちゃ強い血筋だったみたいな展開ばかりなのはどうなのって話があると思うんですけどそれと同じで、別に子供がどうなったとかはキッカケに過ぎず最初っから女にそういう素質があっただけじゃねえかってのが僕のガッカリポイントとしては一番でした。素質がある奴を物語に出すなって話ではないんですけど、最初の段階では素質があるそぶりは一切見せないわけです。ただ、どうにもやりきれない不幸がありまして、そりゃこんな不幸に見舞われたら誰でも心乱れるよな大変だよなってノリで話がスタートするもんなので、僕はなるほどこれはいわゆる極限状況下において白日のもとに曝け出される人間の普遍的本質みたいなやつをテーマにしたものなのかなと思ったんですね。と思ったら途中でどうやらその物語の始まるキッカケとなった不幸とは全然関係ないところで単純にこの女ヤバいやつだったってことが明らかになるんですね。それは、もう、絶対ダメじゃない?と思うんですよ。たぶんこれは以前に『おおかみこどもの雨と雪』の感想文を書いたとき*1と全く同じ理屈で僕は喋っているのかなと思うんですけど、物語に唐突を2つ以上ブッ込んじゃうとそれはもうこっちとしては「はいはい、作者たる貴方がこういう物語を見せたくてこういう思想を表現したかったんですね。できてるできてる。よかったね。」としか思いようがないんですよ。だって唐突すぎるんだから。子供が死んだことと彼女にそういう素質があったということに因果関係が無い以上(素質の発露の引き金にはなったのだろうけど、素質そのものとの因果関係はない、という風に僕には見えた)、これが必然的で普遍的な話のようにはとても思えないんですよね、作者がやりたいことをやるために物語に介入してテキトーに作りたもうた箱庭的な世界の話としか思えない。別にそれがそのまま悪いことだという話にはならないのだけれども、そうやって介入しているのが見て取れる限り、その物語はどこまでいこうと単なるエンターテイメントであり人間の根源的な何かしらを描いたなんてことには絶対になってないからな勘違いするなよみたいなことを、僕はそういう作品を見るたびに勝手に思うんですね。

だから結局、あの映画を素直に「人間とは」みたいな話に思えるかどうかってのは彼女のあの素質、あの行動を普遍的なものと思えるかどうかなんでしょうねー。僕はちょっと思えなかった。もうちょっと素朴な、万人に起こりうるような狂い方、負の感情の発露の仕方ってあるんじゃないのと思ったし、そこを躊躇い無く踏み越えて面白くて派手な立ち回りをされちゃあもうそれは「そういう面白い立ち回りをする人が出てくる話」であって、人間の本質的な何かをモチーフにした話ではないんじゃないのと思うんです。もちろん真人間サイドであるウィレム・デフォーを軸に見ようとすればある程度「どうにもならないものなんてどうにもならない」っていう普遍的な話にはなると思うんですけど、やっぱりそこにはもっと素朴で普遍的な「どうにもならなさ」があって然るべきで、あんなにキャッチーで面白い「どうにもならなさ」を見せ付けられちゃうとやっぱ違う話に見えてくるんすよね。

僕の横で痛い描写の連続に耐えかねて半目で物語の行く末を見守っていた嫁だったのですが、最後デフォーが火をつけたところでボソリと「勝った……。」ってつぶやいて、なんやそれめっちゃおもろいやんつって二人で大爆笑したんですね。でもやっぱあそこで「勝った……。」ってコメントが出てきて、それで大爆笑できちゃうのは、それはそういう話にしか見えないからなんだって。こっち側とあっち側があって、闘って、こっち側が勝ってよかったよかったって話でしかなくて、そこで人間はこっち側とあっち側のどっちに転ぶかわからないよねって話なんですよとか言われても、いや少なくともこの話においてはあの女最初からあっち側だったでしょ、じゃあ「勝った……」だよなっていう。

もちろん意味もなく何の脈絡もなくそう望んだわけでもなく最初っからあっち側の人間っていうのはいるわけで、そういうあっち側とこっち側の僕たちはそれゆえに起こる苦難をどう乗り越えるか乗り越えられないかって話は面白いとは思うんだけど。単純に、「誰にでも理解できるわけではないユニークな内面的苦難をどう乗り越えるか寄り添えるか寄り添えないか」みたいな話の導入が「誰に起きたとしてもめっちゃ悲しいだろう出来事」なので食い合わせ悪かったってことなのかなー。うーん、これでもあんまうまく全部を言えてる気はしないのですが、決定的に僕が気に食わない歯車が使われてたのはなんか間違いなかったな、と思います。

という、文句言いたいところが前に出ちゃってましたが途中までは、めちゃめちゃ面白かったですね。デヴィッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』を観た時だかに「たぶん客をこんな感じにしたいんだろうけど俺はならなかった」みたいなことを書いたんですが*2、それにちょっと成功してたんじゃないの、と思いました。特に電車の中でデフォーが女に森歩いてるところをイメージさせるシーンがあったんですけど、あそこは糞良かったです。フワフワしました。普段生きてても片目を瞑ると遠近感がなくなるわけですけど。映像という虚構を見る目と、映像という虚構を見ているという現実を見る目、あのシーンはそのどちらかを瞑ってしまったかのように、遠近感が無くなり大変クラクラしました。役者の痛みが飛び込んでくる直前まではそういう前後不覚な気分をたびたび味わわせてくれてたので、それはすごい観る価値ありですし、それだけに全体としては残念だなぁという気持ちが強かったです。以上です。