←ズイショ→

ズイショさんのブログはズイショさんの人生のズイショで更新されます!

魚の死骸をはめ込んだスケートリンクの話雑感

もうたぶん一段落ついて旬も過ぎてるしね、この話題に対してそこまで興味あってオピニオンあるかっていうとそんなになくて、魚をそこまでかわいそがる情緒も育ってないですから、僕はパラメーターそこには振って無くて主にすばやさ上げてたから水の上を走れるんですけど。みんながみんなすばやさを重点的に上げててね水の上を走れてさえいれば、普通にスケートリンクとかじゃなくて生きた魚が生活してる水の上を走るテーマパークとか作れたんですけどね、世の中にはすばやさより優先して情緒にパラメーターを振る人ってのも少なからずいるようでして、魚の死骸の上を滑るなんでとんでもないって意見が出まして、炎上と相成りました。

だから感覚としては本件について「こうあるべきだ!」みたいなのはあんまないんですけど、まぁ僕もやっぱとどまること知らない時間の中でいくつもの移りゆく街並みを眺めたりなんかしながら生きてるわけで、そのスピードって僕らが想像してる以上に目まぐるしいじゃないですか、だからまぁ定期的に「炎上」の話をリアルタイムに生の感覚でしといた方がいいんだろうなみたいなそういう動機でこの話題に触れるわけですけどね。

まず、毎度毎度炎上して撤収みたいな話が多くてね、「最近はなんでも中止に追い込みやがる、息苦しい」みたいなカウンター意見が昔より体感的には増えたなって思うんですけど、それはちょっと違うんじゃねえかなと僕は思ってて。めんどくせえ奴が増えたなうるせえなってのは全然同意できるんですけど、色んなものが中止になってるのはそいつらのせいなのかって話で考えると、「そいつらがいなかったら中止にはならなかった」が真だとしても「そいつらのせいで中止になった」ってのは果たして真とは限らないんじゃないかとは思うわけです。そいつらが本当に難癖つけるだけの馬鹿で、相手したって仕方ねえ連中だとするなら、中止しなきゃいいじゃん、と思うんですよね。ずるっこい例を出すとね、会田誠とかろくでなし子とか、ネット民どころか国だの法だのに怒られたって全然悪びれないじゃないですか。ずるっこい例の二人を僕が好きか嫌いかはまぁ置いとくとして、置いとくのがまたずるっこいんですけど、中止しないことって全然できるはずなんですよ、「何が悪いんだ馬鹿野郎」と思ってさえいれば。そうは思ってないからやめたんでしょ?じゃあやめて良かったんじゃない?ってのが炎上で何かが中止になった時に僕が思うことなんですよね。いやぁ、そんな会田誠とかろくでなし子みたいにはできないっすよ、こっちはアートじゃなくて商売だし、みたいなのもあるかもしれないけど、じゃあなおさら最初から黙っとけってなると思うんですよね。なんか僕のなかですごい明確にあるのが「誰にも頼まれてないのにわざわざ勝手にやる」ものって、すごい自己責任というか、そこでやらかしたら同情の余地ないぞ、ってのはあるんですよね。どこからそういう感覚を抱くかってのも勿論個人差あるのでややこしいんですけど、あのスケートリンクとかもね、頼まれてないのに勝手にやってるじゃないですか。「面白い変なスケートリンク作れ」なんて誰も頼んでないし、勝手にやって勝手に反感買ってるわけですから、そこは勝手にアートをやってる人たちと同様に見做していいと思うんですよね。なんか中止に追い込んだ方がおかしいみたいな擁護してる人もようけいますけど、本人らがケツ捲くっちゃったんだから。「ああ、この程度でケツ捲くるような思いつきだったんなら、大した信念だの意図はないんだな」って話にしかならないと思うんですよね、擁護側の意見に一定の理があったとしても、運営が中止にしちゃったんならどうも運営はそういう理を掲げたいわけでもないらしいよという話にしかならないわけです。もちろんこの「勝手にやってるだけ」のグラデーションも難しくて、ジャポニカ学習帳の昆虫表紙の話なんかは同情しちゃうんですよ僕。それは、「表紙には何か載せなくてはならないから」で、それは勝手にやってるわけじゃなくて何かはしなくちゃならない中で選んだ決断がちょっと揉めた、って構図になるので同情したいんですよ僕は。ただこれももっと大枠で見ると「頼んでないのにノート売ってる」って話になっちゃうので難しい。そこらへんのグラデーションははっきり言って僕の主観なので曖昧なんですけど。でもまー、やっぱ今回のは別に擁護する気も起きないな、怒られたらやめるんなら最初からやるなよってのはやっぱ思うし。

俺は怒ってないんだほんとに、なんならちょっと面白いんだけど、それは不謹慎が面白いってことなので駄目なんだけど「そんなことやったら怒られるに決まってるじゃん」みたいな面白さで、スケートリンクに魚の死骸を埋め込むっていうのは葬式に来てくれたお坊さんが武藤敬司そっくり(しかも声もガスガス)ってのと同じタイプの面白さで、笑っちゃいけないんだけどイヤイヤイヤみたいな性質のやつなんですよ。そういう意味で、ごめん、これは燃えるべきだし、中止で良かったと思うんんだけど、おもしれえなと思っちゃってるんで、同じ批判する立場でも本当に怒ってる人とは全然違う人種でごめんって感じなんですけどもね。

結局、この話って個人の感覚の問題だからどうあるべきが正しいかって話し合いにはどうしたってならないのね、個々人のアウトセーフのラインがグラデーションの中でとりあえず落とし所としてどうしましょっかって話だから論理で押さえつけて「これが駄目ならアレも駄目ですよね?」なんて言ったって仕方ないし、せめてそのスタンスを取るなら中止も撤回もしないって態度を取ったうえで「あれがセーフなんだからこのスケートリンクもセーフですよ、だからこのイベントは続けます」って感じじゃないと正直しんどいよ。「じゃあアレも駄目ですよね?」って交渉は「じゃあそれも駄目です」が飛んでくるかもしれないわけで、息苦しさに立ち向かうために息苦しさを増やしてどうすんだ的な。

これはもう信心の話なのか霊魂の話なのかケガレの話なのか罪悪感の話なのか全然わからないんですけど、たぶん全部を含むんですけど、もうだって公式が「供養もします」とか言い出してる時点でだいぶややこしくなってるんですよね。この「供養ってなんだ」って感覚がもうすごい面白いんですけど、「我々にとって供養とは何か」みたいな、やっぱ少なくとも供養はいることなんだってなるわけですよね。お芝居で四谷怪談とかやる時は絶対事前に墓参りするとか言うじゃないですか、それしないと祟りで事故とかが怖いからって。そのレベルのやつなんだ、ってのがもうちょっと面白いですしね、やっぱ相当なんじゃねえか5000匹の魚の死骸を氷漬けにするのって、みたいな。擁護の意見として「死んだ状態で水揚げした魚を使ってるだけで殺してない」とかあるじゃないですか、でも公式が供養を考えてる時点で「結局うしろめたいんじゃねえか」ってなっちゃうんで微妙なんですよね。ポーズで言っただけだとしても「供養します」ってのはそういうことだから。死体はかつて生を宿してたものなわけで、その感覚がないと供養って発想は出ないよなって感じで、だからむしろ供養しますって話を試しに真に受けて考えてみると運営は批判する側よりよっぽど生命を大事に思ってるかもわからんですよ。そんな生き死にとか霊魂とか考えてなくてなんとなく単に死体気持ち悪いって理由の人も少なくないでしょうし、逆にそういう人からすると「供養するんで」っていうエクスキューズは汲むに値するのかってのもわからなくて面白いんですけど。批判する側が「供養とかそういう話じゃねえ」って言い出すとそれはそれで「そういう話じゃねえんだ!?」ってなって面白い。

他にもまぁ色々な批判への批判ありまさあわな、やっぱ多いのは「もう死んでるんだからどうしたっていいだろ」みたいなやつで、ただこれは繰り返しになりますけどグラデーションの問題なんで、極端なこと言って相手の理を潰しにいこうとすると自分の理も潰されるぞと思うんですけど、もう死んでるならどうしたっていいならじゃあお前、親が死んだら「ファブリーズVS腐乱死体」で使うから親が死んだら遺体は絶対に寄越せよって思いますし、じゃあこのファブリーズと戦わせる腐乱死体を親・肉親・他人・犬・鳥・魚ので考えるとどっからのラインがセーフなんだっていうのは、もうそれはどうしたって個人の主観じゃんって思うしね。主観的に魚くらいどうしたっていいだろって言い切っちゃう感覚は、他人から同じ主観のノリで「お前という人間なんかどうでもいいんだよ」を向けられても構わない覚悟で持つべきなのかなと思うし、個人的に魚をナメきるのは構わないにしたってそれを魚をナメない人より合理的で賢いみたいな態度でいるのはどうなんだみたいなね。

食用にはなれない弾かれた死骸ってことらしいので「もったいないことは何もない」みたいな言い分もあるみたいですけど、それもなんだかなぁ。かつて生命を宿していた器にあたるそれをゴミだからどう扱っていいって感じも微妙だよなっていう、スケートリンクに無数の廃感電池が埋まってたらちょっと面白いと思うんですけど、最後のお勤め感なんかもあると思うんですけど、魚では何故あかんのかと問われるとちょっとわかんないですけどね、生命を宿す器が肉体であると仮定した時に、生命がなくなった死骸はなんなのか、死骸をどうこうすることは生命の冒涜なのか、ここらへんはちょっとこれからも考えたいところですね。それでも死骸に対してどうこう言っちゃうと価値のある死と価値のない死を分けることになるし、それは価値のある生と価値のない生を分けることにもつながる。そのことを疑問に思う人と思わない人にもまた分かれることになるだろうし、だから死体で遊ぶ是非というのはめちゃめちゃしちめんどくさいわけですよね。

眠くなってきたんで話はまとまりませんが日本語文法的にはまとめてる風に見えなくもない感じのことを言おうとしますと、まぁ結局、今回の一件で個々人が独立した物語を見出すのもそれはそれで大事ですけど、足元に普段食ってる肉塊が無残に非食料としてただ遺骸として転がってるということを想像した人がたくさんいまして、そこに物語を見出すわけで、それで怒る人がいたりまたそれに怒る人がいたりってことだと思うんですけど、そういう各々の物語がもっと溶けて欲しいなとは思いますよね。赤勝て白勝てのテンションでどっちかの感じ方が棄却されることなく、相反する肉塊への感覚をお互いに察してまたそれが合わさって別の一つの物語になればいいなと思うんですけど。一応、その一助になればみたいな感じで書き始めたはずなんですけど、この文章が果たしてそのように機能するのかは読み返してないのでわかりません。眠いので明日朝起きたら読み直します。以上です。