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ネタバレ配慮ゼロ『君たちはどう生きるか』感想文

なんも考えずテキトーに思いつくままぽつぽつと書きます。

 

ボスラッシュ面みたいなセルフオマージュの嵐というか、集大成というか、走馬灯というか。「いやー観た観た」という感じになれたので俺はとても良い気分になった。俺の倍以上生きてるジジイがこんなんやってるんだから俺もまだまだへこたれちゃいれねえなと有り難く思った。面白い面白くないは人それぞれで良かろうとは思うが、現時点で見かける感想の「面白くない何故ならこういうところが全然ダメ」みたいなやつには「いいや、こういう意図でやってるんだよ、そんなこともわからないのか、何もわかっちゃいない」とまでは言わないが「そこはたぶんこういう意図でやってるんじゃないかな」と言える程度に特に破綻はなかったけどなぁ、くらいは思う。今更、ジジイの宮崎駿に時代性に即したアップデートなんざ求めてる方がどうかしてるし、もはや作家性くらいしか求めるところはない。まあポニョの時とか「こんな時代だからこそ」みたいなこと結構言ってた気がするのでその観点から酷評されるのは仕方ないかなとは思う。そういう意味で俺は宮崎駿を「いやー観た観た」の気持ちになれたので良かった。

 

引退作として『風立ちぬ』やって、やっぱもう一個やるって言い出したってことはたぶんラピュタみたいなものをやるんだろうと踏んでいたので最初の方は「え、これまた風立ちぬみたいなやつ!?」とめちゃめちゃ心配にはなった。でもまあその後ファンタジーとアドベンチャーに飛び込んでくれたのでほっと胸を撫で下ろしたわけだが、じゃあ本編までの導入がかったるい風立ちぬのセルフオマージュの意味しかないのかというと勿論そんなわけはなく、と俺は考えており、毎日元気に早起きして元気よく飯食って元気よくラッパ吹いてたら女の子が空から降ってきたみたいな、現実ってそんなもんじゃねえよ、そんなみんな毎日元気良くやれねえし色々あるんだよって感じで終わってみれば必要な長い導入だったなと思う。

いきなり乱暴で個人的な話になるんだが宮崎駿作品についてよく思っていたのが、あくまで通過儀礼・イニシエーションとしてのアドベンチャーであって、意外とジブリ主人公って精神的成長そんなしてないよなーみたいなところがあって。もちろん乗り越えるべき試練をみんな乗り越えるわけだが、それは時が来たからであってみんなその時がいつ来てもいいように備えていたというか、シンプルに人間ができていた。パズーもさつきも宗介も千尋も、みんなびっくりするくらい人間ができている。彼らが経験する冒険は、自分は大人になれるという「証明」のための冒険であり「成長」のための冒険ではないっぽいなーみたいなことはずっと思ってて、それと比較すると今回の主人公はめちゃめちゃ「成長」のための冒険をしていて、ラッパ吹いてたら女の子が降ってくるとかじゃなくてかったるい人生が少年なりにあるんだよ、みたいなことだと解釈した。そして、それでいうとハウルというジブリキャラクターが割と異色で、色んなことをどうこうする力を持っていても精神的に未熟な青年(?)が精神的に少し逞しくなる物語だったので、同じように「成長」のために冒険する少年を何も知らないままただ自分なりの眼差しを向ける父親役としてハウルを演じた木村拓哉に白羽の矢が立ったのは合点がいった。というか、この展開で木村拓哉が父親ならたぶんそういうことだろう、冒険がちゃんと始まるだろう、と安堵した。

君たちはどう生きるか』というタイトルとどれくらい紐づけていいのかわからないが、主人公はとにかく与えられてばかりの主人公にしたかったんだと思う。たぶんそれが主人公的にも生きてて面白くなかったんだと思う。正確には、与えられることを当たり前に考えていた主人公が、空襲によって母親を奪われて、「奪われる」ということを知って、なおかつ新しい母親も新しい住処も与えられつつ、しかし一度奪われたものは二度と取り返されない与えられないその不条理を知って、そっぽを向いて、しかしそのそっぽの先にも何もないみたいな、そんなどうしようもないやつが手放したくない何かを探すためには冒険しかないよねー、みたいな。ざっくり言うとそんな話だったんかな。

セルフオマージュボスラッシュは語るとキリがないし鬼リピして網羅して紹介する人がすぐにネットに出現すると思うので割愛するけど、俺あんま宮崎駿知らないんだけどカリオストロもちゃんとキャリアにカウントしてくれるんだ!と嬉しくなった。後半に傾くに連れて身体能力がアップして躍動する主人公、そいつが姫を助けるように幼い母親を助けに行く、あそこすげえカリオストロで「そこもやってくれるのね〜」と嬉しくなった。もひとつ嬉しかったのが、再開シーンで二人が抱き合うところで、普通に抱き合ってた。カリオストロのルパンはクラリスを抱きしめることができなかった。何故ならクラリスはまだ幼いからすぐ良い男に靡いちゃう女で、ルパンはそのことをよく知ってるおっさんだから。でも、主人公と幼い母親は気兼ねなく抱き合うことができる。ここは異論あるだろうが、苦難を共にした友達だからだ。俺は全体通してここのシーンが一番グッと来て、「母親もしょせん他人で、他人同士として親愛の情を結ぶことができる」みたいな話だと思って、「お前それ分かるのに80年かかったなぁ!!」て笑い泣きしちゃったんだよね。

鈴木Pももちろん変な人なんですけど、その人がなんかで高畑勲をモデルとしてるっぽいキャラがいるみたいなことを話してるらしくて、映画を観た後だとそれって絶対青鷺じゃんと思って、ポスターのあの鳥めっちゃかっこよかったじゃん。でも本編では全然かっこよくない変なやつで、それもよかった。いや、みんな高畑勲すげえすげえ言うてますけど、あいつひどいっすよ実際は!みたいなやつなのかと思った。ただ高畑勲がひどいやつなのは別にみんな知ってる。

あとはなんかあるかな、インコな。かわいくないな!キャラグッズやる気ないの!?他の出てくる鳥全部、丸呑み系の鳥だから、わざわざ刃物持ってるあいつら、内臓が軟弱なあいつら、砕いて解釈するしかないあいつら、たぶん人間の対比(追記。対比はおかしいな、丸呑みする鳥の中で唯一調理を試みる丸呑みできない鳥としてインコが登場しているのはおそらく、人間に近い存在として設定されていて、それは人間と食との関係でもあり、人間とフィクションとの関係も意識されていると思う。丸呑みはできないし、できないのが人間の良さでもある。切り分けて咀嚼して必要なところだけを受け取る。それは弱さでもあり強さでもある。また、賢さでもあり卑しさでもあり、誠実さでもありずるさでもある。そういうところが人間らしさなんだろうという前提であり、人間らしさのメタファーとして、インコが採用されたのだろう)なんでしょうね。

以上です。