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なぜ僕が漫才は優しいと思うか考えた備忘録

M-1熱も冷めやらぬなか、ツイッターでは誰も傷つけない笑いだの優しい漫才だのワードが飛び交ってそれへの対抗言論も出てきたりと(僕も前回の感想文でそんなフレーズに沸いてるやつらお前らちょっとあかんぞと言い切ってる*1)熱は冷めやらぬ昨今ですが、なんか漫才を優しいだの誰を傷つける傷つけないだのジャッジするだのの話は僕のなかで既にどうでもよくなってて(今後そういった言説が出るたびにもぐらたたきのように批判し続けるだけなので今これ以上考えることが特にない)それよりもそもそも漫才というものそれ自体ひいてはお笑いがなんで俺はこんなに好きなんだろう、それは優しいからだ、と思ってなんで優しいと思うのかをつらつらツイッターでぽちぽちつぶやいてた。ので、ただのそれをブログに転載しただけのやつ。ツイッターでつぶやいてただけだからもちろん論はまだまだ雑で、ここからまぁしっかり紡いでもうちょっとしっかりさせることはできる。ただ今は忙しいのでとりあえずの備忘録。以下のツイートから始まるスレッドをそのままテキストで貼っただけ。以上です。それでは読みたい人は以下を勝手に読んでなんかの足しにするなりしないなりしてください。

ミルクボーイとブラマヨはやっぱ似てるし、似てるけど違うなーと思ったんだけど、「二人で問題解決に挑む」っていう型が似てるよね。で、ブラマヨは問題解決の障壁を考えすぎの吉田に置いたけど、ミルクボーイは外部のおかんに置いた。

後者の方が、悪いのはおかんだから一致団結してるように見えて罵り合いもしないから「誰も傷つけない」とか「優しい」とか言われてるんだろうけど、ブラマヨだって吉田の悩みを解決するために二人で時には喧嘩をしながらも仲良く頑張ってたんだよ。全ての、とは言わないけど、漫才は別に昔から優しい。

あと、もう一つの型としてコント漫才がある。あれは、「一方が一方の夢、やりたいことを擬似的に叶えてあげたい」という構成だ。そこでどちらか(ボケ)が過剰で、うまくいかない(と突っ込む)という構成。これだって十分に優しいよね。漫才は基本的に衝突だが、それは対話する意志の現れでもある。

たった二人で大勢のお客さんを前に、マイク一本を引っ提げてべしゃる。それ自体がとんでもないことだし、二人がただ二人で喋るとなるとそのテーマは自ずと「問題解決」か「理想の実現」になってくる。そしてそれが達成できない過程が、漫才なんじゃないかなと思うんだよな。それが優しくなくてなんだ。

ズレ漫才のオードリーですら「普通に漫才をやりたい若林」と「普通に漫才をすることができない春日」という構成なんだよな。いがみ合い、すれ違い、互いの欠点を暴きあいながら、それでもたった二人でマイクの前に立っていたいからそうしている。

漫才を構成する、漫才の根幹をなす「演者の欠点」の中には、そりゃあ思想が偏ってるとか差別的だとか、そういう欠点も含まれる。世の中的には良くないことだってたくさん含まれる。それでもなお、見捨てずに、時にはどつき回し、最後まで二人でマイクの前でべしゃる。

それこそが漫才の根幹的な優しさだろうし、漫才の魅力なんだろうと俺は思うな。全ては目の前の人を笑わせるためだ、たった二人の演者と演者、その二人の組んず解れつは、明らかに日常における僕とあなたの投影でありデフォルメだ。私たちはいつもすれ違い続ける。

それは決して悲しいことではない、虚しいことではない。「人を笑わせる」という漫才の営為は、要するにそういうメッセージを発信し続けているのではないかと、そういうことを考えている。

人間ひとりぼっちにはなりたくない。もっと人に好かれたい。そういう人間ってきっと世の中の大多数だろう。破れ鍋に綴じ蓋でもいい、突っ込まれたって批判されたってどつかれたって、自分の話に耳を傾けてくれる人間が隣にいればどれほど頼もしいか。漫才ってそういう人間の根本を可視化してると思う。