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一歳

息子が死ぬことなく一歳になったのでめでたいという気運が高まったので、先日、我が家に息子の両祖父母(つまり私たち夫婦の両親)が集結した。あとなんか僕と超絶相性が悪くて疎遠な俺の弟もいた。

僕は大阪、弟は京都でいつでも会える距離だが普段連絡を取ることは一切ない。会話が噛み合わないので極力口を利かないようにしている。以前、僕たちの祖父が死んだので葬式に出るために実家に帰った時も帰りの飛行機が一緒だったので一緒に空港まで親に送ってもらい、爺さんも孫が仲良いのは天国で嬉しかろうと思ってフライトまでの待ち時間一緒にランチを食べたが全く会話が盛り上がらなかったので、飛行機は別々の席を取って帰った。伊丹空港に降りてからも会わずに挨拶もなしに各自解散した。それくらい仲が良くないのでこの後、弟は登場しません。

一歳を祝して集まって、結果として、とりあえず一つの成果として、とてもステキな動画が撮れました。

それは15秒足らずのただの動画です。

僕が、椅子に座って息子を抱いている。その息子に妻が、彼の生誕一年を祝って誂えたホールケーキの上に乗っていたオレンジだかなんだかのフルーツを息子の口に運ばせる。息子はそれを頬張り飲み込む。スポンジとか生クリームとかはまだ少し早いかもと、フルーツくらいは食べさせてやる。息子はそれを頬張り飲み込む。そして息子は「うふっ」と声を出して微笑む。それを見て、僕も、妻も、僕の両親も、彼女の両親も、ドッと笑う。それが「おいしい」なのか「甘い」なのか「おもしろい」なのかもわからないけど「うふっ」と笑う彼を見て、その場にいた誰もが破顔してわははと笑う。きっとこれは素晴らしい動画なのだと思う。

僕が、この動画に映っていて破顔しているその僕が、その時に考えていたのは相模原の障害者施設でおきた殺人事件のことだった。そしてそれについて思いの丈をラジオで語る、爆笑問題太田光の言葉だった。

相模原の殺人事件の犯人は、他人とコミュニケーションの取れない障害者を生かしておいてはいけないと思い詰めあの凶行に及んだ。太田光は彼のそんな動機を思いの丈ぜんぶを使って否定していた。太田光曰く、彼らは主張している。コミュニケーションしている。それを受け取れるか否かは受け取る側の問題なのだ。赤子が愛されるのは、それは、赤子のコミュニケーション能力の賜物なのだ。障害者が殺されて心を痛めている人はたくさんいる。それはつまり障害者のコミュニケーション能力の賜物なのだ。本当にコミュニケーション能力がないのは誰なのか、障害者とコミュニケーションができなかったのは誰なのか。それは犯人なのではないか。受け取れず、諦めて、凶行に及んだ彼こそがコミュニケーション不全であったのではないか。たぶんそんな要旨だったんじゃないかと記憶している。

一歳になった息子が笑う。僕も笑う。妻も笑う。僕の両親も笑う。彼女の両親も笑う。みんなが破顔する。なんと幸せな風景だろうか。

しかし僕は知っている。誰しもに許せないものがあるだろうことを。誰もが差別や偏見を身にやつして生きているであろうことを。

息子は、なんと歓迎されていることだろう。嬉しく思う。彼が笑うとみな笑う。その事実は腹の底から嬉しい。

しかし、その場にいた誰もが、誰しもの笑顔に笑い返せるかというとそうではないことを、僕はその時考えていた。笑いながら、今、笑えているのはたまたまだと思っていた。

この話に結論はない。僕の両親だって、びっくりするほど誰かを軽んじる瞬間があるだろう。だろうというか知っている。彼女の両親にだって、きっとそういうものがあるだろう。俺にだってあるだろう。妻にだってあるだろう。

許せるものと許せないものは人それぞれにバラバラで、それでもあの瞬間、一同に破顔させたそれはなんなんだろう。「血」なんだろうか、「物語」なんだろうか、この、息子という生き物は、いったいなんなんだろうか。

そんな俺の勝手に考えているあれこれを他所に、息子は一年の生を十全に祝福された。それ自体は素晴らしいことだと思う。彼は十年後だって二十年後だって、その日ここにいた人たちには生きている限り、祝われるだろう。それは確定事項だ。しかし、それ以外だ。

彼の人生には何が待っているだろう。俺はその断片を知っている。身をもって知っている。愛されることも、愛することも、簡単ではないのだ。憎むことも、憎まれることも、軽んじることも、軽んじられることも、そんなこととんでもなく不毛なのに、どうもつきまとわれる実感だ。僕は彼を祝福する。彼の歩む道に花が咲いていることを望む。しかし、それだけでは彼の人生の幸せを保証するには足りず、彼の生には立ち向かうべきものが僕と同様に山積みだ。

僕は、その事実に頭を抱えながらも、彼の「うふっ」という笑みに破顔する自分の動画を見て、無責任に彼の健やかな成長を願うのであった。

以上です。