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息子が転んで、俺は笑う。

息子は今年の夏に5歳になる。もうそんなになるのかぁと時たまに思う。

そう思っているのは俺だけではなく彼自身もそうなようで、彼は今まだ自分にはできないことを見つけるにつけて、今はできないけど5歳になったらできるで、6歳になったらできるで、と自分の伸び代のアピールに余念がない。

少なくとも今のところ、ぼくたち両親と彼とのあいだには嫌だと思ったら嫌だと言える信頼関係があるらしく、ぼくは度々息子に怒られる。最近ぼくが一番多く怒られるのは彼が何かヘマをこいて痛い目を見た時に笑ってしまった時だ。

部屋中に折り紙をばら撒き遊んでいる。そんな折り紙だらけのフローリングの居間をしっちゃかめっちゃかに走り回る。折り紙に足を取られてすっ転ぶ。すってんころひんとひっくり返って頭をしなやかに床に叩きつけて、一瞬前まで満面の笑みではしゃぎ回っていたのが嘘だったかのように大きな泣き声をあげる。俺はそんな彼を見ると笑ってしまう。コマ送りみたいに早回しみたいにすってんころりんと24フレームですっ転ぶ息子の姿を見るとついついケタケタと笑ってしまう。

泣きながら息子は、自分の足元を疎かにさせた折り紙よりも俺に抗議の声をあげる。自分が失敗して悲しいのに笑わないでと抗議の声をあげる。

すまんすまんと謝りながら、俺は笑いがこみ上げる。まるで自分が全知全能のように自由気ままに振る舞うお前が、調子をこいて痛い目に遭うのが、俺には面白くて面白くて仕方がないのだ。

#8000と電話をかけると、とても大変なお仕事を担ってくださる方に電話がつながり「今、自分の子供がこんな風に転びまして、心配です。死なないか心配です。救急車を呼ぶべきか呼ばないべきかわかりません。こんなことで救急車を呼ぶのは御迷惑なのかもしれませんが、それでもどうしても心配なのですが、どうでしょうか?」という相談に文句ひとつ言わずに付き合ってくれる。何度かお世話になったことがある。

例えば息子が2歳の時に椅子からひっくり返って、フルリフォームしたての壁にしたたかに頭を打ちつけてそのまま壁をがっつりと凹ました時。彼は前代未聞のビッグエピソードに動転驚愕してそのまま項垂れて起き上がれなくなってしまった。この前代未聞の前代にあたるのは彼にとっての2年そこらの人生にしか過ぎないし、それは初めて授かった我が子が初めてそんな風になってしまった我々にとっても晴天の霹靂であったが、電話相談をしてみても「なんか吐くとかし出したら救急車」くらいしか言われるわけがないし、実際にもその後しばらくしたらケロッとしてまた何かしら飯を寄越せだのあれが見たい遊びたいだの言い始めるわけなので全く肝の冷やし損なのだが、そういうふうに子供というのは育っていくわけだ。

だから俺はやっぱり笑っちゃうなと思う。他所様に我が子の生死を気休めでも相談したくなることもなく、元気な子供が元気に転び元気に頭を打って元気に泣く。それを俺が笑って、それに彼が元気に抗議する。俺は痛い目に遭って悲しいのにそんな俺を笑うお前は駄目だぞと抗議する。

これがどうして笑えずにいれようか。

これが笑って済ませられることになるまでに月と日がどれだけ昇ったら沈んだりしただろうか。

そういうことを考えると俺はますます笑えてくる。息子はますます俺に抗議する。

息子はちょっと痛い目に遭ったってぐったりすることなく次の瞬間には跳ね起きて明日の自分の伸び代を語り、今痛い目を見て泣いている自分を笑う父親に意義を申し立て次の瞬間にはケロッとした顔で何かしらの遊びに打ち込む。

これを笑わないという方が俺にとっては無茶な話だ。

悲劇はスローモーションに見える。2歳の息子が転ぶときはスローモーションに見えたが、今の息子がすっ転ぶところは24フレームで見える。それは、彼が成長しているということだし、俺が彼を信頼していることだとも思う。だから俺は笑うし、彼は笑う俺に抗議する余裕があるのだろう。

何かあればすぐにでも手を差し伸べたかった我が子はいつの間にか手を差し伸べるまでもなく勝手に立ち上がるようになり笑ってさえおけばいいほどにたくましくなり、そしていずれ俺の笑い声さえ聴こえないところまで行ってしまえばいいと思う。

以上です。