Twitterのタイムラインにこんなツイートが流れてきた。
これ結構マジな話で、『気をつけて行ってらっしゃい』という言葉を家族が出かける前にかけてあげるだけで事故の確率が下がるという調査結果がある。誰かに心配されていると分かると無意識に『気をつけよう』という気持ちが生まれるようだ。たった一言で大事な人を守ることができるからオススメ。
— りべる (@liber_3150) 2022年1月24日
で、まず初めに思ったのは、「エビデンス!エビデンスくれよ!」であった。
そんな調査結果本当にあるの?その調査の仕方は本当に正しい調査の仕方だったの?と気になる。実際に調査があったとしても、それが例えば、「事故に遭った当事者の家族に『気をつけてね』って家を出る前にちゃんと言いましたか?」ていうアンケートをとった結果「言ってなかったかもしれません」「言えてませんでした」の方が多かったんですよ、みたいな話だったとしたら、それは別に「気をつけてね」と言った方が事故に遭わないという話には直結しないし、身内の不幸に対する「もっと何かできなかっただろうか」という気持ちがそれを言わせてるだけなのではとも思う。
ここ数年事故に遭ってないあらゆる人に「気をつけてね」って毎日言われてますか?と聞きまくった時に「言われてます」が明らかに大多数というアンケート結果があるのであれば「ふうむ、じゃあやっぱ言ったほうがいいのかな(まあ別にエビデンスなくても言うんだが)」くらいには思うのかもしれん。ただし、俺はこういう統計の専門家ではないので、そんなアンケート結果が存在していたとして、その結果を以て「気をつけてね」と声をかけると事故る確率が下がると断定していいのかはさっぱりわからん。
俺がここで悩ましく思うのは、たかだか「親愛する人を見送る時には『気をつけてね』と言う。なぜなら無事にまた再会したいからだ」というある種の当たり前のことにいちいち調査結果がどうだとか統計的にどうだとか、研究者によるとそれが最善だという話があるらしいとか、そんなものをいちいちくっつける必要があるのだろうかということだ。
何も俺は、こういうことを言いたいわけではない。
「それは本当にエビデンスはあるのか?不確かな情報に思い込みも手伝って踊らされてはいないか?もし本当にエビデンスを集めてみた結果、『気をつけてね』と言った方が『何を大袈裟な』と受け取られることが多くむしろ気が大きくなって事故に遭う確率は上がるという説が有力だったらどう責任を取るつもりだ。お前は誤った説を流布して、むしろ事故に遭う人を増やすことになるんだぞ。エビデンスもはっきりしてないのにそんなことを言うな」
こんなことを言いたいわけではない。
むしろ、そんな調査結果がかなりの信憑性がある内容で出てきたとしても、「だとしても大切な人を送り出す時に、無事にまた顔を合わせたいから『気をつけてね』と言ってしまうのは人情だから咎められないよな」と思うだろう。
何より、統計の結果がどうあろうともそのシチュエーションの細部は人それぞれだしね。これは偏見も含むが、今からバイクで峠を攻めに行く人に「気をつけてね」と言うのと、今からバスで出社する人に「気をつけてね」と言うのとでは全然話が違うだろうし。かと言って、それぞれのケースでどうだったかの統計を集めたいよねとも思わない。絶対めちゃくちゃめんどくさいだろうし。
「お前それエビデンスあんの?」と噛み付くところから始まった俺の思考であるが、結論としては「エビデンス出せよ」ではなくて、「そんなこと、エビデンス無くても普通に『自分はこう思うからただそうしてる』で十分すぎるのに」という思いだ。
件のツイートには「やっぱそうですよね、明日からも見送る時はそう言います」みたいなリアクションが溢れかえっていた。それ自体は別に悪いことでは全然ないと思う。大事な人に無事に帰って来てほしいと思うのは別に全然悪いことではないし、人間らしいどころか動物としてとても自然な愛らしい心の機微だと思うことに何の躊躇いもない。
ただ、その「やっぱそうですよね」がどこに掛かってるんだろうとは思うんだよな。「心配しちゃうし、心配だよって伝えたいですよね、それで『心配してくれてるのかぁ』と思ってもらえたらいいですよね」ならいいんだけど、それと「やっぱそういう調査結果があるんですね、なら明日からも言おう」との間にはものすごく違いがあるのかなと思っていて、前者であれば全然文句はないですし、後者に関しても文句は全然ないんですけどそこに「ああやっぱりこれでいいんだ、間違ってなかったんだ、よかったよかった」みたいなニュアンスがあったらそれはちょっと大丈夫?くらいにはやっぱり思ってしまうんだよな。
どんな視点から切り取ってもどこから切り取っても不安な時代なのは重々承知で、わかりやすいもの(というか、わからせてくれるもの)に飛びついてしまいたくなる気持ちはよくわかるし、理由もよくわかる。でも、わかりやすいものが自分を楽にしてくれるものとは限らない。
自分を楽にしてくれるのは結局、特定個人の「貴方」という誰かなんだろうと思う。「貴い方」と書いて「貴方」だ。インターネットやメディアを通して見聞きできる耳心地の良いことを言う「誰か」は果たして「貴方」だろうか。俺はいまいちそうは思えない。
最大公約数みたいな概念があるらしくて、いわゆるメディアにおける人気者ってのはそういう存在なのかなーと思うことが時たまある。最大公約数になること自体を悪いこととは思わないし一種の生き方なんだろうとは思うんだが、最大公約数で割り切れる数ってのはそりゃあ限られている。割り切れない数よりずっと少ないだろうと思う。最大公約数で割り切れる数になるために、割り切られた方が楽で楽しく仲間同士になれるがために、自分の「あれ?」とか「そうか?」とかを捨てて、自分に1や2を引いたり足したりしてしまう人がたくさんいるなぁっていうのがインターネットを歩いてて思うことだ。
人気者という人たちはすごく大きな最大公約数で、その人たちで割り切れるように自分をカスタマイズしてしまえばうんうんと頷けるのかもしれないけど、それを心地良く思ってしまった時に貴方の隣にいる人と割り切れる折り合いをつけれるのか?みたいなことを思ったりする。
もちろん、1とか2とかを足したり引いたりして、その都度の相手と割り切れるように調整できれば一番いいのだが(というか、人生ってたぶんそういうもん)、エビデンスとか正しさを理由にでかい公約数にすっかり迎合してしまって、引いたり足したりしながら目の前の人との割り切り方を諦めてしまってる人たちが世の中に溢れているんだとしたらそれはもうお手上げだなみたいな諦観と、そんなわけないだろみんな割り切ろうとしてるわみたいな青臭い観念と、両方を持ち続けたいなと考えている。
えーと、あとなんか最近考えたことあったかな。ピカチュウってあの大きさだと前歯で首元とか噛まれた時完全に致命傷だから全然肩に乗っけたくないよね。
以上です。