2歳児を保育園に預け忘れて車に置いて死なせてしまった事故、「うわ、俺もやりうる」と思ってゾッとしたけど、「ありえない」「それでも親?」てコメントする人に「起こりうる」ことを理解してもらうのは相当に難しいだろうな〜ってのはわかる。
— ズイショ (@zuiji_zuisho) 2020年6月18日
不幸な事故があったそうで、胸が痛いですね。お悔やみ申し上げます。
こういう「えっ、そんなことが起こるの?」という事故が起きると決まって「信じられない」「ありえない」「私は絶対そんなミスしない」という声が起こるようでして、今回もご多分に漏れずそういうような声も小さくなく、なんだかなぁと思ってツイートした次第です。で、まぁこれまたいつもどおり共感されたり怒られたりしています。
クロマニヨンズの甲本ヒロトの書いた歌詞のなかにこのような一節があります。
信じられない事が 起こってしまうのは 世界中誰も 信じられなかったから
これは歌のなかでの本来の意味では「世界中がアッと驚くような『信じれられないこと』が起こるのは、そんなことできっこないよとみんなが思っていたからで、できるなんて夢にも思わなかったからで、世界にたった一人それでも『できる』と信じ抜いたやつがそれを成し遂げた時に人は『信じられない』と驚くのだ。もしみんなが『きっとできる』と信じていたのなら、それが達成された時もそれは『信じられないこと』ではなくて、『やっと叶った夢』であったはずなのだ。『できる』『実現可能だ』と信じることで人の可能性は広がっていく」という意味なのかなと自分自身は解釈しています。
さて、しかしこの言葉、今回のような事故のことを考えると全く逆に受け取ることも可能だったりします。
「そんな事故起こりっこないよ」「そんな馬鹿な話あるわけがない」とみんなが信じられなかったから、それを防ぐためにはどういう工夫が必要かどういう仕組みが必要かそれらが検討されることもなく、不幸な「信じられない」事故が起きてしまったのだ。
もし誰しもが「もしかしたらこんな事故が起こるかもしれない」「人間ってそういうミスをすることもあるかもしれない」と信じていれば、それはみなに可能性を信じられているがために分析され検討され議論され、そして対策され、みながそれは起こりうる事象だと信じていたからこそ未然に防ぐことができたのかもしれない。
できることなら避けたいような悪い出来事が起きる可能性を「そんなのありえない」「100%起こり得ない」と突っぱねるよりも、それはもしかしたらまた起きるかもしれないと信じてみることで、ネガティブな事象が発生する可能性を本当の意味でゼロに近づけていくことができるのではないでしょう。
受け入れがたい悲劇に背を向けて「ありえない」と言葉にしたい気持ちもそりゃわかる。だけどそこをぐっと堪えて、「ありえない」という言葉をせめて「悔やんでも悔やみきれない」くらいに置き換えて、これからもまたこんなことが起こるかもしれないという可能性を信じて受け入れて、じゃあどうすればこういう事故を未然に防ぐことができるのだろうと考えることが、きっと誰一人不幸で不運な目に合わないというとてもにわかには信じられないナイスな未来を作るために必要なことだと僕は思うんですよね。
失うことに怯える気持ちは誰しもが大なり小なり抱えているもので、その気持ちに抗おうとするあまりに可能性から目を覆ってしまうのじゃなしに、可能性に思いを馳せる声を噤ませるじゃなしに、その気持をより良い未来を紡ぐ力に、悪い未来を摘み取る力に、変えていければなぁと思うのであった。
以上です。