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当事者は、問題を解決する能力が備わっているから当事者に選ばれたわけではない

 「神様はきっとあなたなら乗り越えられると思ったからこそあなたへ試練をお与えになったのよ」なんてフレーズが時たま安っぽいドラマなどで見かけられるけど、まぁ、そんなわけねえよなと思う。

 例えばそこに被害者が存在する性質の問題があったとして、その直接の被害者が被害の当事者としてその問題に関わることになった理由は、少なくとも「その問題を解決する能力が十分にあると判断されたから」ではない。たぶんだけど、「たまたまの偶然」である場合がほとんどだろうと思う。

 たびたび当事者の振る舞いや主張が「問題解決を目指すうえで適切ではない」と第三者に判断される場合がある。当事者は問題解決のエキスパートゆえにその問題の当事者に選ばれたわけではなく、「たまたまの偶然」でその問題を切実に考える必要が出てきただけに過ぎないので、まぁそういうことも起こりうるだろうと思う。しかし、当事者の主張が「問題解決を目指すうえで適切ではない」かったとしても、それはその問題が解決されなくても良い理由にはならない。なぜならその問題の当事者になる人間は偶然によって決定されるので、それは明日の私かもしれず私の家族かもしれず、つまりはみんなの問題であるからだ。

 もちろん当事者がある種の特権を持つのもおかしな話ではある。当事者が問題解決のエキスパートだとは限らない以上、当事者の「この問題の解決とはこのような状況を指し、そのような状況を是が非でも目指すべきだ」という主張をいつだって鵜呑みにする必要はない。その主張が問題の解決方法として妥当でない可能性はいつだって存在する。しかしそれがどうあっても、イコール「あいつの言っているアレは問題などではない」「そこには問題など存在しない」という話にはならない。

 どうあれ、そこに当事者が存在している限り問題はずっとそこにあるということで、問題がそこにある限り自分が当事者になる可能性はなくならないわけで、究極を言えばそこに当事者を自称する人が誰もいなくなるその日まで、どのように問題を解決するのか何を以て解決と呼んで良いのか、その問題は何度でも何度でも全員によってそれぞれの立場から検討され続けなければならない。非常にまどろっこしいが、どうにも地道にそうしていくほかないらしい。

 なお、被害の当事者ではない人間(以下、あえて部外者と呼びます)が当事者にならずに部外者でいる理由は「当事者でさえなければ感情的にならず客観的に妥当で適切な判断を下す能力を持つから」などではなく、恐らくはこれもまた「たまたまの偶然」に過ぎない。あるいは問題の性質によっては「加害者の側に立つ可能性はあっても被害の当事者には構造上なりえない立場である」可能性も検討する必要はあるだろう。繰り返すが、たとえ部外者であったとしても当事者の主張をすべて鵜呑みにする必要はない。一方で、相手の主張にどこまで妥当性を見出すべきか独断で断定的に適切な判断ができるほどの能力は、誰にだってない。

 問題の根本的な解決を望むのであれば、部外者が当事者にエキスパートであることを求めるのも、当事者が部外者にエキスパートであることを求めるのも、自身をエキスパートであると過信することも、どこか遠くのエキスパートの手による鮮やかな解決を望むことも、それぞれに無理がある。

 というあたりを意識しながら僕はある問題については当事者として切実に考える必要があり、ある問題については現状被害の当事者ではない以上部外者として参加するほかなくとも考える必要があり、そうやって色々な問題について考えていくしかないのかなぁと思っている。以上です。