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「自分かわいさ」ゆえのパニックは、しんどい

新型コロナウイルスの影響で日本全土が騒がしい。

先週あたりから仕事の方でも本格的にいろいろな影響が出始め「これはパニックだなぁ」と思いながら過ごしていたら、週末には国が重い腰を上げてお尻をふりふりと踊り出してくれたお陰で更に混乱は加速して気付けば1ヶ月前には想像もしていなかったような文字通り国が丸ごとひっくり返ったような大騒ぎになっている。

それで僕はというと、専門家でもなんでもないので実際のところあんまりわからんのだが現状の受け止め方としては新しい名前の風邪が流行ってるくらいの話なんだろうなくらいに思ってるところがあり、毎年風邪やらなんやらで死ぬ人や交通事故で死ぬ人の数に比べればそんなに恐ろしいもんなのかなと思っているし、とは言えインフルエンザも今でこそ今の扱いだがタミフルだのリレンザなどが登場する前はえらく恐ろしい病気として社会的に扱われていた記憶もうっすらあるのでアレと同じものなのかと考えれば過剰に恐れてパニックに陥る人がいるのも仕方がない。実際死ぬ時は死ぬやつだし。とりあえず地元の90過ぎた婆さんか死なないかは僕も心底心配だ。そういうわけで彼らを馬鹿にして断絶することもしたくはない。せめて怪我の巧妙というと少し違うか、転んでもタダでは起きないの精神でこれを契機にリモートワークなどの働き方改革とやらが少しでも前に進めばいいやくらいの気持ちで、まあ世の中のパニックを真に受けることなく粛々と生活を続けよう。

今の状況だと経済的な影響がどれくらい出るのかとか先行き不安な事柄は枚挙に暇がないことは間違いないのだが新型コロナウイルスという感染病そのものに対する僕のスタンスはそんな感じでそれは一貫しているつもり。

だもんで、「こんなパニックはきっと311の震災以来だな」と思いつつも世の中の喧騒や日々のニュースから僕が食らうダメージはあの震災のそれに比べれば極めて軽微だし、まあえっちらおっちらやっていこうてな調子でいつもどおり情報を浴びまくりながら生きてたのだが、今日になって唐突に「あれ?もしかして俺めちゃめちゃしんどいのでは?」ということになんとなく気付いてしまったのである。

そしてその理由はなんであろうかと考えた結果、今回のこのパニックは、日本人すべてが本当の意味での「当事者」として直面しているということに先の震災とは違いがあるのだなということに気づいた。

もちろん、経済的なことを考えれば日本人誰もが当事者であったという点について言えば先の震災も今回のこれも同じである。が、感染リスク、もっと直接的に言えば死を恐れるという点においては、やっぱり先の震災(もっと言えばそれより前と後にあったあらゆる災害)と今回のこれは違う。災害には良くも悪くも当事者と非当事者がいた。被災者とそうではない被災地とは遠く離れた地に住む人とがいた。

何が言いたいかというと、災害の時のパニックって非当事者による他人を思いやる善意によるパニックの部分もあったのだった。もちろん、その全てが善意だったとはとても言えるはずもなく、例えば非当事者が非当事者ゆえの自分かわいさのあまりに原発被害を受けた地域を差別したりだとかそういうのはあったし今も残ってるわけだが(余談だけど、当時の国内における被災地差別って、今世界で起こってるアジア人差別と構図がすごく似ているよね)、災害によって起きるパニックの中には当事者ではなく当事者である人たちに対して何もできることがない自分の無力感に起因するパニックだとか、そういう善意によるものが少なからず混じっていたのだが、今回のこれは自分がいつ感染者になるかわからないという当事者意識がパニックの成分構成のほぼほぼを占めていて、つまりは大半が「自分かわいさ」によるパニックであるのだなと気付いた。

ぶっちゃけ、被災地に良かれと思って家に余っている使えそうなものを送りつけるような人たちと、今回買い占めに走ったりマスクを手に入れようと奔走している人たちってだいたい同じ層なんじゃねえかなと思ってるのだが、前者はそれが適切な行動であるのかはさておいてもまだ「他人のために自分にできることはないか」という善意が原動力になっているのに対し、後者に関してはまあ完全に自分かわいさのことしか考えていない行動であると判断せざるをえない。それを殊更に糾弾するつもりはないのだが、まあ、人間のそういう部分しか見えないパニックを浴び続けるというのは、これ結構なかなかきついもんだなということに思い至ったのである。

「自分かわいさ」ゆえのパニックは、見ていて触れていて、なかなか本当にしんどいのである。

今やパニックは健康被害に留まらず、今後是々非々が検証されるべきであろう政治的判断によって、より多くの人々がより「当事者」としてパニックに陥っている。今後更に多くの人が陥っていくであろう。

その中で更により多くの人の「自分かわいさ」が露見され、より僕はしんどくなっていくのだろうと感じる。既に自分の立場の大変さを嘆くなかで、実にもっともらしく自分とは異なる立場の人を軽視した言動をカジュアルに披露する人々が少なからず僕の視界の端をちらついている。彼らを目にする機会は、彼らが僕の視界を占有する面積は、これから加速的に大きくなっていくのであろう。

もちろん、そんな中でも人の善意を目にする機会だって少なくはない。それに救われる部分もないではないのだが、それらの善意は一定の冷静さによって発揮されているものであるのだよなぁというのが僕にとって都合の悪い残念な真実だ。

人間のダメさの中に人間のかわいいところを見い出すことが生きる寄る辺の僕のような人間にとって、パニックそのものの中に他人を思う気持ちがあまり見出せないことは僕にとって実に不都合な真実の側面だ。それで僕はどうにも落ち込んでいるのだなということに気づいたのである。

とりあえず、「俺は気づいた」ということを書いて、真っ最中の真っ只中の今日のところはここで筆を置こうと思う。そして一度気づいたからには、明日からも生きるために一定の情報収集は続けながらもパニックそれ自体とは意識的に心理的な距離を置きながら生きていこうと思う。

願わくば、僕の隣人も決して平穏とは言えないまでも、平穏からは程遠いまでも、悲しみの只中に陥ることなく日々の生活をわずかばかりの喜びと共に生きながらえられますよう。

以上です。