小藪の人生会議のポスターが取り下げられた件。
散髪屋に行くのと同じペースくらいでネットで話題になる「一部のクレームによって広告やらキャンペーンやら何やらが取り下げられる系のやつ」ですが、これについて僕の一番根っこの主張はだいたい同じで「取り下げるくらいなら始めからやるな」で、「クレームが来たから取り下げる」ということは「クレームが来るとは思っていなかった」ということでそれはつまり「誰も不快になるとは思わず、全員が全員、十人が十人、みんな好意的に受け止めてくれると思っていた」ということで、そう考えると「保育園児じゃねえんだからさぁ」と溜め息が出る。そんな簡単に取り下げられると「まさかクレームが来るとは思ってませんでした」ってことで、それは「あまり深くは考えずノリで作りました」と宣言されてるようなもので、擁護できるものもできなくなっちゃうのでやるならちゃんとやってほしいと思う。「クレームは想定内で炎上して話題になるならそれはそれでよし」の取り下げる前提でやってるパターンも考えられるが、それはそれで感心できないのでどのみち支持しにくい。
というのが、僕の基本的な考え方なのだが、その考え方を置いといても今回のこの広告を全面擁護してる人たちには「ちょっと待ってほしい」と思ったので慌ててお尻から万年筆をぷりっと取り出し筆を取った僕です。僕は万年筆で原稿用紙で書き、それを秘書がタイピングで清書するタイプです。気の小さい都知事に気を遣って芥川賞をもらってやった人と同じタイプです。
「取り下げるべきか、取り下げないべきか」は先に書いた通り「作った側が決めること」だと思います。だから、あまねく取り下げられた表現は基本的には「覚悟がなかったのね」ってのが僕のスタンス。
このスタンスとは相入れないところで「不当な批判をする奴が悪い」「そういう奴のせいで表現が抑圧されて良くない」「誰も傷つかない表現はないんだから馬鹿げたクレームを入れるのはやめろ」って人たちもいます。そういう人らは当然、今回の炎上にも炎上させた側に怒ってるわけです。
今回多いのは「実際に延命治療に向き合った経験がある人は、この広告に好意的」みたいな雰囲気で「厳しいけれども大事な話で、けど普段はみんななかなか考えようとしない話題なのでインパクトがある表現でも、多くの人がそれをきっかけに考えてくれるならそれは良いことだ」みたいなノリが擁護派からは感じられます。まあ言うてることは分かります。
分かりますが、そのうえで僕から見てどうしたって不当な批判に当たらない真っ当な批判がとりあえず一つ、僕にはパッと思いつきます。
あの、枕元にいる父親に毒づくくだり、要る?
病院で延命治療受けるより家族と一緒の時間を過ごしたかった。これはわかる。
これを表現する過程で、病床に寄り添う別の身内をdisる表現、必須?
今この瞬間も何も言葉を言わなくなった身内を見舞って看病してる人たちがいるわけですよね?その人たちに「もしかしたら、そのあなたが看病してる身内はあなたに全然感謝してなくて、実は内心disってるかもね」って投げかけるような表現は、この人生会議の本来投げかけたいメッセージを人々にお届けするうえでどうしても必要だったんでしょうか?人生会議が投げかけているような「考えよう」というメッセージがもらえなかったが故に、考える間も無く当事者になって、今まさに葛藤しながら正しいかもわからぬ身内の治療を自らの時間と体力をすり減らしながら向き合っている人たちに「お前disられてるかもよ?」て表現をお届けすることはどうしても必須だったんでしょうか?
この一点において、あの広告表現は、批判されるに値する、と考えるし、僕もその点において批判します。そしてこれは「あの広告は取り下げられて当然」とイコールではないのは繰り返し言っている通りです。ちょっと文句言われて取り下げるくらいなら最初から啓蒙広告なんてやるなバーカ。
そもそもに立ち返ると、啓蒙って、エゴなんですよ。本来やらなくていいことを「やったほうがいいと俺は思うから」って理屈でやるのはエゴなんです。「自分はそれで辛い思いをしたから、そんな辛い思いを他の人にしてほしくないから啓蒙したい」ってのは、エゴなんです。辛い思いをした自分のためにそうしたい、てのはエゴなんです。別にいいじゃないですか、事前に話し合えなくて辛い思いをする人がこれからどれだけ出ようが別にいいじゃないですか、各自辛い思いをすれば。人間ってそんなもんですよ。この「人間ってそんなもん」を「そんなもん」と思いたくないってのは、やっぱりエゴなんです。
別に僕は「エゴ」をイコール「悪」「無意味」と言ってるわけじゃない。
結局はエゴなのだからこそ、啓蒙するならするにしても、不要に人を傷つけたり脅したりするようなやり方は推奨されるべきではないってことを言いたいんです。
「自分のような辛い思いは他の人にはして欲しくない」、その心意気やよし、今は自分には関係ない他人事だと思ってる非当事者をびっくりさせて考えようってのは別に悪いことじゃない。だけれど、そのびっくりさせる過程で「今更言われてももう遅い」当事者の人らに更に辛い思いをさせないような配慮をしようとすることは、非当事者をびっくりさせて啓蒙することとは別にトレードオフじゃないでしょう。ないはずだ。そこを信じて考え抜くのが、表現じゃないんですかね?
的外れなクレームも多々あった。
しかし、改められる部分もあった。
取り下げる必要はなかった。
しかし、省みる点はゼロではなかった。
それだけの話だと思うんですよね、僕から見ると。
だけど、「ネットの声」を眺めてみると、どうもそんな感じではなくてさあ。総論賛成各論反対じゃなくて総論も各論も賛成で、あの広告に怒ってるやつが悪くてあの広告は悪くないって人を結構見かけて。まともだと思ってたアカウントでもそうなってる人を結構見かけて寂しくなってしまった。
勝手に「傷ついた」と騒ぎ立ててばかりの人にうんざりする気持ちはわかるよ、俺だってうんざりしてる。だけど、そうやってうんざりした結果、人を傷つける可能性への想像力を失ってしまうのでは、それはあまりに寂しすぎるし、惨めったらしいよ。俺はまだまだあーだこーだ言っていたいけど、今はもう、そんな時代でもないのかなぁ。寂しいな。
以上です。