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ゾーニング問題は突き詰めると「どっちが檻に入るか」問題になる。

http://zuisho.hatenadiary.jp/entry/2019/02/27/233854

昨日書いたのがなんかそこそこ読まれていました。

僕が思うのは、たとえば「誰も傷つけない表現なんかない」なんて手垢のついた言葉があります。で、これは実際そうだと思います、たとえばでいうと僕も不妊に苦しんでいた時期が長かったので相当に、身に覚えがあります。「子供がいるから私は幸せだ」という表現に傷つけられた思い出は、俺は枚挙にいとまがない。なので俺は子供ができた今も「子供の有無なんざで俺の人生の幸不幸は決定づけられないぜ」と言ってます。言い続けています。これはこれできっと誰かを傷つけているのでしょう。

ある事象について極端な批判が出ると「親でも殺されたんか」というコメントを見かけることも少なくないが、それだってその事象への批判に批判的な同志の中には既に親を亡くして辛い思いをした人もいるわけで、なんなら味方を傷つけていたりする。

でも、そうやって傷つけられた人のみんながみんな、「傷つけられた!ひどい!」と騒ぐわけではない。「私には傷つく表現だったな、しかしそれは私の問題だ」と受け入れる人も多く存在しているはずだ俺だってそうだ。

「人を傷つける表現」と「人を傷つけない表現」の狭間でゾーニングの問題はたびたび語られていますが、そう考えると本当のゾーニングを引くべき基準は「傷つけられる覚悟を持ちつつ、それでも希望を持って表現に触れたい人」と「本当にただただ傷つきたくない人」を線引くべきなんじゃないかという考えが僕の中に立ち上がったのです。

現状を鑑みるに、両取りは、許されないと思う。「私は私に必要な表現に触れて良い気分になりたい、しかし私の視界に私を傷つける表現が飛び込んでくるのは許さない」なんて都合の良い話は通らない。帝かよ。帝(みかど)かよ。

多様性は「万人に配慮する」と「万人を許容する」の両輪に寄るものだと思うが、そう考えればこそ、「多様性を両輪で考えたい人」と「多様性を配慮によってのみ実現したい人」とを区分してそこでゾーニングするべきではないか。

「誰も傷つけないなんてことを考えてたら、何も表現できないよ」というのは、あまりに配慮が足りない表現をする人の常套句ではありますが、では「あなたの表現はだれも傷つけないという確信はありますか?責任は持てますか?」と言われてYESと言える表現者がどれだけいるだろうか?

であれば、率先してゾーニングを受け入れればいい。エログロだって、純愛だって、結局誰かを傷つける。

「私の表現に傷つく誰かは必ずどこかに一人はいる。ならば、ゾーニングで結構です。私の表現は、誰かを傷つける可能性があるので、覚悟がある人だけ見てください。」

そう表明する表現者が大多数を占めてしまえば、たとえば書店で言えば、入り口にキッズコーナーとみんながたくさん読んでるんだからきっと大丈夫な話題書コーナーがあって、それ以外は全部「ゾーニングゾーン」、傷ついてでも表現に触れたい人たちだけが自己責任で入るゾーニングゾーンが店舗床面積の9割を占めて、傷つく覚悟がない人は、決して決して入らないでね。それがお互いのためだから。

もうそれでいいんじゃないかなと思うんだよな。

コンビニは表現のための場所じゃないから、まあべつにエロ本が撤去されるのも仕方がない。

けれど、たとえば書店とか、表現のための場所において、「ここで傷つくのは自己責任」と言われて、それで困る人ってどれだけいるのだろうか。僕はそんな人、ごくごく一部だと思ってる。そしてそのごくごく一部の人たちは、表現を愛していないとも思っている。

配慮は大事、配慮は大事。それはたしかにそうなんでしょう。でも配慮のやり方って「あなたにも楽しめるように頑張ります」だけじゃなくて「あなたのためのものを作る気はないのでごめんなさい、また来世」もあると思うんですよ。

そんな感じです。以上です。