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健常者は健常者にコミュニケーションコストを払ってたのか

なんか、これをツイッターで見かけたんですけど。この一つ前のツイートについては「まぁ、そうだよね」と思って。けど、二つ目のこのツイートについては全然そうは思わない。と思った話なんですけど。少なくとも俺は、健常者は健常者相手だと相手が何を望んでどう接して欲しいかを探る、そんなことを自然にやってるとは全く思わないって話なんですけど。

まぁなんでしたっけ、このー、文春に不倫やらなんやらをすっぱ抜かれて、その後なんやかんやあって離婚して、禊感覚でワイドナショーに出演して、自分の方だけテレビで発言の機会が与えられてる状態で「まー元妻もこういう風に考えていたんだと想いますけど」「元妻も、そこらへんのことはわかってたはずなんですけどねー」みたいなことを一方的にカメラの前で喋って放送してもらって、そのくせマスコミに対しては「元妻への取材はやめてください、彼女は何も語りたくないんです」みたいなことを言っていた挙句、元妻に提訴されてた人の言うことなので、この人の個別の発言にどうこう言いたいわけではないんですけど。

一般的によく見かける言い回しだなとは思うんですよね。「ただ話を聞いて、こちらの気持ちを汲み取って、それにふさわしい態度でいてください。他の人にふつうにそうしてるように、私にもそうしてください」みたいな言い回し、ある属性を持った、世間的にはマイノリティとされるような人が言ってるシーンってのは割に見かけるなぁと思うんですけど。

繰り返すに前半部分は全然気にならないんですよ。「人それぞれなんだから、それぞれに対応するしかないよね」これは真だと思う。そんなことがそんなことが出来たらいいのにな。その後に続く「他の人はしてもらえてるのに私達は私達の属性を持っているせいでなかなかそうしてもらえない」みたいなこの部分については僕は明確に「いや、そんなことねえだろ」と思うんですよね。で、これは言葉尻の問題じゃなくて、ここのところで認識が各々にズレているのであれば誰もが肩を組み合い笑い合うような日は絶対に来ないなと僕は思ったんだ。確信したんだ。ジョージア賭ける。

はてさて、健常者は、健常者のことをそんなに慮っているのだろうか。

僕はそうは思わない。というか、僕は慮ってはいない。

いまあなたの目の前にいる相手が何を望んでいて、どう接してほしいのかを探ってほしいんです。だって、健常者が相手だと、みんなそれを自然にやってるじゃないですか。

僕はそんなこと、あまねく健常者にやっているわけではありません。妻と、子供と、あとはいくばくかの大切な友人にはそうしたいと心がけて生きていますけど、それ以外の人々には全くそんなことしてません。みんな自然にそんなことできていたら今頃よっぽど世の中マシになってらぁな。

健常者と健常者の間においては、無関心もひとつの「配慮」です。わからないことは無理にわかろうとしない。そっとしておく。力になれないものはなれない。相手の意思とは関係なく、自分の意思で引こうと思ったら引く。それは誰にも咎められない、普通のことだ。当たり前な配慮だ。べつにこの考え方が正しい本来的な在り方だという話ではなく、現状そうじゃん、という話。

しかし、それじゃあダメだよね、というのが僕のなかでの「健常者と障害者」の話だと思っているのだけど、健常者相手にはそれくらいの無関心無責任でいいと思うんだけど、どうも障害者に対してはそうじゃダメだよねと誰しもがうっすらとでも考えていればこそだからこそ「障害者にどう接したらいいかわからないよ」という話になるのだと思うけれど、それに「健常者にふつうにやっているようにやれよ」と言うのはなかなか酷というか、元の木阿弥な感じがして微妙な気がする。ならば多くの人が取るリアクションはやはり「無関心」に帰着するのではないか。

健常者同士が「どう接してほしいか探り合っている」ように見えることもまぁあるのかなぁとは思うけど、実際はそんなことないと思うんだよね。いちいち相手の本当のところを探り合っていますか、みなさん?絶対そんなことないだろっていうのが僕が生きてる体感なんですけど、そんないちいち相手のことを思い考えるみたいなコミュニケーションコストなんてもの、いちいち抱えてられませんよ。これはきっと昔からずっとそう。本当に丁寧に誰かに対してコミュニケーションコストを払える相手だなんて、人生一人がいればせいぜい、得意なやつで十人前後。それ以外の相手と、それ以外じゃない十人前後とだって話している時に誰もが大事にするのは文脈であり共通コードであるはずだ。人は、なけなしのコミュニケーションコストを使って会う人会う人と一対一対応の文脈を築く非効率を避けるため、文脈や、常識や社交辞令やお約束や既得権益やを作る生き物なのだろう。

言い換えればそいつぁ同調圧力と呼ばれることもあっただろう、そう呼ばれるくらいにそれは現代において糞扱いされている。それ自体は良いことだ。良いことなんだけど、そんな「お約束」で成り立つ上っ面のコミュニケーションで共同体を維持するなんざご免だと考えるようになった人が多いのがここ最近の話で、それによってなんかわかんないけど、核家族化?とかするようになったし、いわゆる「孤独な」生活を選ぶ人々は日本に増えたんだろうな、と思う。これもまた別にいいことなんだけど、「時代は変わったなぁ」と思ったので併記しておいた。

つまり、人ってのは別に誰だって「相手のことを思って」という理屈でコミュニケーションしてるわけじゃないと思うんだよな。そんなことやってられないし、やってられないから今は人と人とが疎遠だし、なんでかつては疎遠じゃなかったというと、社交辞令とかナラワシとかの変な共通コードとか常識が多かったからに過ぎなかったんだろうな。それらのルールに従えば、仲間はずれにされず上辺だけでもみんな楽しそうにできる。その裏には「こういう偏見も共有しましょう」「こういう差別も共有しましょう」という糞ルールがあったのはご愛嬌なのだろう彼らにとっては。

そして時代は変わって、そんなご愛嬌な糞ルールも受け入れがたいし、そんなしちめんどくさい共通コードないしルールを守ってまで仲間に入れてもらいたくないやい!!と考えるようになったのが現代の希薄さなのだろうと思っている。そしてそういうこ「既存のルール糞喰らえ、誰ともわかりあいたくないやい」と並行して「お前らが簡単にやってるように、私達ともわかり合ってくれ」という要請が飛んでくる。

誰もわかりあってないんだって。

僕がこの一連の文章で言いたいのは、「だから無理だから諦めましょう」なんてことではないんですよ。ただ、こういうふうにちょっとうっすら目の遠い目で過去を眺めてみると、建前でなんとなくわかりあったフリをするような時代は終わって、そんな無理してまで分かり合おうとはしたくはないけど、分かり合わなくちゃ分かり合わなくちゃとも思わなくてはならない時代に今はあるんだなってことなんです。それって、人類史上未だかつてないくらい大きなチャレンジングな命題を掲げて隣人と向き合わなくちゃならない時代になってるんだなと思うわけです。

過去に「自然とわかりあえた」なんて関係はどれだけ世の中にあったのだろうか。結局みんなわかりあえたふりをするための常識を拵えて共有してただけじゃないのだろうか。あんな風な時代に戻りたくはないから各々自分を突っ張って荒れに荒れてるのが現代だし、あんな風な時代を「お前らわかりあってたじゃん」とも言われたくないし、なんかうまく言い切れなかったけど、まだまだ謎が解けたその暁には霧を晴らすと表現しても差し支えないようなモヤモヤが、なんっか残ってる気がすくんだよなぁ。

眠くなったからまぁいいや(眠くなったからまぁいいや)。以上です。