たとえば体罰とかハラスメントとか果てはストーカーとか痴情のもつれとか、たびたび加害者が「愛してるからやったんだ」「愛情がない相手にはそんなことしない」みたいなことを言ってるのを見かける。
それを見てみんな「ふざけるな」「そんな言い訳が通じるわけないだろ」と憤る。ここまではわかる。
「お前のそれは愛ではない」「お前の愛は正しくない」こうなってくると俺はちょっとわからなくなる。
別に愛だろうがなんだろうが知ったこっちゃないがダメなもんはダメ、で良くない?
それが本当の愛だったとしても加害を正当化する理由にはなりません。それじゃあダメなの?
なぜ人は、他人の愛が本当の愛か、正しい愛かを判断しようとするのだろう。
それは結局みんな「本来なら許されない何かが愛を理由に許されることがある」と信じてるからなのではないだろうか。
愛を理由に自分の行動を許される余地は残しておきたいと心のどこかで思っているからではないか。
愛を理由に許される仕組み自体が解体されては自分も困ってしまうから「愛を言い訳にするな」ではなく「お前のそれは愛ではない」と言うのではないか。
俺はもう加害者の動機が愛だと言うなら、それは愛でいいんじゃないかと思う。
エゴを言い換えた言葉が愛だ。すべての人が愛と呼ぶものは平等に例外なくすべてエゴだ。それでいいじゃないか。
自分の愛は本当だ、お前の愛は本当じゃない、愛を理由にする加害者はきっとあなたと同じようにそう言うだろう。
「本当の愛は尊い」
この「思想」というか「みんながそう信じている社会」という仕組みに、みんな助けられてはいるのだろう。
愛を理由に自分の勘違いや思い込みや先走りや過剰な感情が許されることがあったり、逆に相手を許すことができたり。
きっとその機能の恩恵を知っているからこそ、みんな愛を信じるのだ。
が、愛を信じる社会だからこそ愛を理由に暴走する人間が現れる。
「それは愛じゃない」と咎めることができるのはいつだって誰かが傷つけられたその後だ。俺にはそれが堪らない。
誰かを傷つける仕組みを内包したまま、それでもみんな愛を信じて生きていくしかないのだろうか。
もう愛は、そもそもとして醜いものだとした方がいいんじゃないか。
愛は醜い。だから誰かを愛したいなら愛の醜さを補って余りあるほどの何かを自分が差し出さなくてはならない。
本来的にはそういうことなんじゃないか。
愛の醜さと向き合うのが怖いから愛は美しいと頑なに信じ込むことが許される限り、どれだけ怒っても嘆いても何も変わらないんじゃないかと思ってしまう。