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感情とは挑むべきパズルの1ピースである。あるいはうんこ

例えば密室に二人の人間がいたとして、片一方がうんこが出たいって言い出すとするじゃないですか。なんだようんこ出たいって、なんでうんこ視点なんだよダメだようんこすんなよ、いやそんなこと言われてもすごいんだもん出たいよー出たいよーってうんこがすごいんだよ、いやだからなんでうんこ視点なの?何うんこに喋らせて同情を惹こうとしてるの?そういう犬で視聴率取ろうみたいな魂胆やめてくれない?そんな言い方されても絶対うんこしちゃダメだから。いやもう絶対出たいって暗いところ怖いってさっきからすごい言ってて、って話になった時に、まぁどうしたって出ちゃったうんこをどうしよっかって話にしかならないと思うんですよね。例えば、その部屋にはたまたまアレがあったから、あの一般的には開けると七面鳥的な何かしらの鶏肉が入っているであろう銀の半球が、あの開けた時に「フヮ~~~ン!!」という効果音が出がちな銀の半球がたまたま部屋にあったからアレで隠そう、用を足すその瞬間は金隠し的な使い方もできるから一石二鳥だね、七面鳥的な何かしらの鶏肉が入っているであろう銀の半球なだけに、アレだけに一石二鳥だねつってな、ちなみに金隠しっていうのは和式便所の前方後円墳でいうところの後円にあたる部分ね、いや和式便所の場合は前についてるんだけどあの半球的な部分ね、あれを金隠しって言うんですね。そのまんまの名前ですけどもうちょっと何かなかったんかいって感じですけど明日から使える豆知識。明日、医師免許を取るやいなや幕末にタイムスリップした時に綾瀬はるかに披露したい豆知識をお届けしたわけですけど、そんなこんなで二人で話し合って出来たのが後のトイレである。あと、次にうんこする人が銀の半球のアレを持ち上げてうんこが露わになる時に「フヮ~~~ン!!」っていう効果音、これが後の音姫である。みたいな例え話をしたかったのに、悲しいかなその例え話の中で普通に和式便所の話題が出ちゃってるからよくわからなくなっちゃってる。なんで俺そこで一回金隠しの方いっちゃったかな~、金隠しって単語を思いついた時に一回いこうかどうか迷ったんですよ、ただ直後にそれをタイムスリップして綾瀬はるかに言うってところまで思いついちゃったからこれはいくしかねえってなっちゃったわけでつまり全部大沢たかおのせいだと思うんですけど、あとうんこ出たいっていう一人称で表記してたせいで「話題が出ちゃってるから」の「出ちゃってる」も何となく下品なふうに聴こえてくるしこの後に「出」という漢字が出るたびにそういう感じが出ちゃうからもう挽回できない。ここからどれだけ良いこと言ったとしても漢字の「出」が出ちゃった瞬間に「あ、しょせんこれ冒頭1000字くらいうんこの話してたやつの言ってることだから真に受けちゃダメだな」って我に帰られるのでもうだめだ。

これは、うんこの場合は出たがりうんこが出てきたらどうしようかという話になるはずで、「俺のうんこの出たい気持ちが尊重されるべきだから俺は部屋の真ん中にうんこを出す。お前がそれに文句を言う権利は無い」とか「お前のうんこなんぞ役に立たないしうんこがこの部屋にあることによって俺が不快を感じ仕事の能率が落ちることの方がよっぽど問題だ。なのでお前は金輪際うんこをしてはならない」という無茶な話にはならないのに、うんこが感情に置き換わるとしばしばそういう話になるが、それは変だ、という話です。それは変だ、という話が、始まります。

なぜ私たちは自分の感情(主にネガティブなもの)を表明する時、その感情が正当で尊重される道理があるという主張をセットで繰り出してしまうのでしょうか。どうしてもうんこがしたくなった時、あなたそんな風に言いますか。「私のうんこは尊重されるべきだ、だから今すぐここでひり出してくれる。私のうんこは汚くないし生きてる証なのだからお前らは鼻をつまむことすら許されない」とか言いますか、言わないでしょう。「うんこ出ちゃうからほんと申し訳ないんだけどどうしましょっか僕のうんこ」って言うでしょう。それに「絶対許さんうんこするな。お前はうんこをしない生き物であるべきだ」とも言わないでしょう。「勘弁してもらいたい部分もあるけど本当にうんこ出ちゃうならしゃあないなどうしましょうかね」ってなるはずじゃないですか。しかしこれがうんこじゃなくて感情の話になると途端にその感情の存在する権利を平気で奪いにかかるし、それに立ち向かう形で声高に自分の感情の正当性を叫んでしまう。意見が分かれて双方が不快感を表明するやいなやアズスーンアズで一方の不快感は正当でもう一方の不快感は持つべきものではないという話になる、でもそんな感情の揺れなんてうんこみたいなもんなんだから幾らそんなこと繰り返したって終わらないんだって。逃げ切れないんだって。肛門は追いかけてくるんだって。走っても走っても肛門は追いかけてくるし便意は「来ちゃった」と呼び鈴を鳴らすんです。だからと言って開き直ってうんこは人間の尊い生命活動だから非難される筋合いはないってそこかしこでしないでしょ。ちゃんとうんちしてるんだもんね?えらいもんね?感情でも同じことできるもんね?

最近の我が家の夫婦トークの傾向としては、10年くらいの付き合いになりますけどまだやっぱ意見が合わなくてもやっとした会話になるなんてことは普通にあるわけですけど、一般的なそういう時のトークって「僕はこうこうこういう道理で、怒った」って文法で喋るじゃないですか、そうすると向こうには向こうの道理があって、どっちの道理が正しくてどっちが怒りを収めるべきかみたいな話になると思うんですけど、10年を経て気づいたのはそんな道理とかどうでもいいから「なんかムカつく。まず俺が今ムカついてるという事実、これは揺らぎません」からスタートして「なぜなのか」を遡っていくと以前より穏やかにスピーディーに妥協点に到達できるということです。このやり方を使うと、まず自分の感情は否定されない。感情の存在は許されている。そしてその感情が今の仕組みに納得していないので、仕組みのどこの部分を変える必要があるのかを考える。もちろん相手の感情が納得できない仕組みの変更はできない。重要なのは、今話しているのは「二人の感情が納得できる仕組みの在り方」であって、決して「どういう在り方が正しいか」という話をしているわけではないということです。

すごくわかりやすい例でいうと、例えば風水に関心があるAさんと風水に全く関心がないBさんが一緒の部屋で暮らす場合、Aさんは風水に従ったルールつまりBさんにとっては全く無意味で窮屈なだけのルールを作ろうとすることでしょう。この場合、「風水に基づいたルールは必要か否か」を考える必要はありません。Aさんの風水に頼りたい感情と、Bさんの無意味なルールをめんどくさいと思う感情を同じように天秤にかけて勘定にかけて、バランスが取れる範囲で風水のルールを取り入れればいいだけです。そしてここで大事なのは、Aさんの側は「風水が正しいからルールが採用されたわけではなく、天秤の間を取って譲り合った結果、ルールが採用されたにすぎない」という共通認識をBさんとの間に持っていなくてはならんということです。同様にBさんの側も、「風水が正しくないからという理由でそのルールを蔑にしてはいけない。このルールは風水の正しさに基づくルールではなく、二人の感情が仲良く暮らすためのルールであるのだから尊重すること」ということを気をつけなくてはなりません。

というようなことを考えているんだけど、まーそういうパートナーシップを誰とでもうまく築けるかというとなかなか難しいんだけど、これがうまく決まりゃあ何とかなりそうな問題は歩いてて枚挙に暇がない。なんつーかねー、なんとか解決しなくちゃならないパズルがあって、そのピースには俺の感情もあって貴方の感情もあって、そりゃ歪なわけわからん形で如何にもどう扱ったもんかわからないピースだったとしても、捨てたら絶対パズルは完成しねえから。どっかにはめ込んで使わなきゃダメなんだって。

ちなみにこのエントリは、一応こっちのスズコさんのエントリに呼応して書かれ始めたわけなんですが案の定全く関係ない話が出ちゃいました。あとほとんどずっとうんこの話しかしてなかったから1000字あたりで出てた危惧まったく杞憂に終わった。以上です。