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言語とは思考の型であり、共感を目的とした言語表現は思考の幅を狭める

言語表現によってお前達は日々アウトプットに邁進しているつもりなのかもしれないが、実は油断するとともすればお前たちはただインプットを繰り返している。

言語とは一般的にコミュニケーションツールであり他者と交流して意思疎通するためのものとして認識されがちだが、同時に言語が内省的な営為を助けるためのツールでもあるというその側面は、インターネットが浸透して誰しもが誰だかかにカジュアルにテキストをお届けすることがとてもお手軽に当たり前になった現代においてはますます軽視されているように感じる。

言語が上手に操ることができなかった頃を思い出してみよう。まず言語は誰のためのものであっただろうか。他でもない自分のためのものであったように僕には思い出される。私の思いや考えや感情が、他者に伝わるかどうかももちろん自分が言語を操れているかどうかの大きな判断基準のひとつではあったものの、それ以上に今・ここにいる自分のなかにある、今・ここにいる自分のなかにしかない、自分から薄皮一枚離れた外の世界にはまだ・どこにも存在しない、自分の思考というものを今・ここに顕在化させるための手段としての言語が何より俺には尊かったし、その顕在化の成功・失敗を判断していたのは他者でもなくほかでもない今・ここにいる自分であった。

言語は鋳型のようなもので、操り捏ねくり組んず解れつなんとか形にしようと足掻き、そこに熱々に煮えたぎった己の感情を流し込んだ時、その時初めてずっと私の内にしかなかったそれが言葉として表現として今・ここに存在できるようになる。

そうして生まれてきたそれが美しいとか内にあったそれそのものだとかずいぶん見栄えが悪いとか私の内にあるそれとはずいぶん異なる出来だとか、そんなことに一喜一憂するのが私と言語との関係であって、それが私にとっての思考するという営為であった。

言語とは思考の型であり、言語の形がそれがつまり「私の考えていること」それ自体になってしまう。

コミュニケーションツールとしての言語の側面ばかり重視して考えようとすれば、言葉とはしょせん言葉であり、自らの内面や本心などとは全く独立した存在だという見解も持ち出したくなる人もいるかもしれないが、私はそういう部分はもちろんないとは言わないにしても、ずいぶんと言語の本質とそこに潜む問題を矮小化させたがる考えだなと思ってしまう。

言語と思考の関係は、私と鏡のなかの私のようなもので、鏡のなかの私に作り笑いを貼り付けてやろうとするならば、どうしたって自らが破顔するより仕方がない。だからこそ私たちは鏡のなかの私に安易な作り笑いではない本当の笑顔を見せてもらうために、ときにはいかにも余裕のない難しい自分の顔を覗き込みながら、言葉をより上手に扱うことにいつまでも腐心してきたのではないか。内省のための言葉はいつも私たちの隣にあった。

その本質は今も変わらないだろうとは思うのだが、しかしその一方で、私と言葉以上に、言葉の隣にはいつも他者がより近くにいることが現代ではずいぶん当たり前になってしまった。いつからか、鏡のなかの私の前に立つ私以上に鏡のなかの私を覗き込む誰かのことをより強く意識することが自然でカジュアルな価値観になってしまった。ように感じられることが私には最近多い。

鏡のなかの自分とそれを覗き込む誰かが同じ顔で笑い合えるように、人は顔面の筋肉をどんどんと最適化していく。いつでも同じ顔で笑い合えるように、言語はより一層コミュニケーションのためのツールとしての進化を遂げて、どんな感情を流し込んでもいつも同じ形に成形されるようになる。同じ鋳型を持つ者同士はいつも鏡越しに笑い合い、そうではないもの同士は、同じ一枚の鏡のなかに並び立つことすらない。

 

たとえばインターネットの負の側面みたいな話はエコーチェンバーみたいな言葉と共にたびたび語られるが、そういうものとは「おお怖い怖い」と距離を置いてポジティブに健やかにインターネットを楽しんでいる方々に置かれましても、そこで起こっている事象というのはどちらも同じ構造で大した違いがないように最近の僕は考えている。ギスギスしてなくてみんな気心が知れていて、いけすかない鼻持ちならないやつらは置いておいて、楽しく共感しあってお互いを認め合えて助け合って励まし合って、インターネットって何も悪いことばかりじゃないんだよ、上手に使えばインターネットってすごくいいもんだよって人たちも、同じただ一枚の鏡の前にかぶりつきで張り付いて、ひとつの鋳型の一つの笑顔をより素敵により研鑽して、目の前にあるその鏡が自分の色々な表情を覗き見るための道具であることをどこか忘れてしまいがちだ。

 

私は、鏡のなかの私を私だとは思わない。ただ、私を映す鏡がそこにあるばかりで、その鏡のなかに映る私の有り様を決めるのは、今・ここにいる私だ。私は、鏡のなかの私が他者にとってどう思われたいなどと考えたくはない。鏡は、あなたに会いに行くその前に今・ここにある私を確かめるための道具にすぎず、私は鏡のなかの私ではない今・ここにある私があなたに会いに行きたいと思う。

 

以上です。