←ズイショ→

ズイショさんのブログはズイショさんの人生のズイショで更新されます!

殊に「言語化」が持て囃される時代で忘れたくない大事なこと

インターネットが一部の好事家たちのためのものであったところから社会インフラとして拓かれ世に生きる万人に広く開かれていく過程で、また現実の社会が多様な生き方を志向して指向される形に変化していくなかで、いわゆる「言語化」する力というやつは多くの人々に歓迎され、また希求されるものとなった。

もちろんこれまでも生活レベルにおいては言語化能力などあるに越したことはない生きていくうえでのお役立ちスキルであったことには違いないのだが、今や言語化能力というやつは一人の人間のキャラクターを構成する一要素に留まらずそれ自体が価値として認められる評価軸の一つとなっており、言語化さえうまくできりゃ多くの人々の羨望と賛意を集められて誰しもの飯の種となる可能性すらをも秘めたとてもお手軽で甘美でスマホ一つありゃ誰でもチャレンジできる真っことにドリーミーなスキルとなったのである。

言語化能力がこのように持て囃され褒めそやされるに至った経緯としては先述したとおりまず何よりも多様性を指向する世の中の空気の変化が挙げられるだろう。多様性の指向とはすなわち、手垢がついて形骸化した言葉によって当たり前のように存在している規範に抗おうとする意志である。しかし、まことに残念ながら意志は意志だけでは力とはなりえない。言葉を持たない意志は、たとえそれが古びれた空虚なものであったとしても言葉を持つ意志には如何とも抗いがたいものである。この空虚な言葉により形作られる意志こそが旧時代的な規範であり、人々はまずその規範を打ち壊すためにその規範を規範たらしめる言葉をまさに打ち砕かんとする新しい生きた言葉を必要としたのである。

そして、その時代の要請と需要を感じ取った、あるいは自身のためにそれを必要とした「言語化」が得意な人間たちはインターネットという開かれた世界に向けてペンを取った。画一的な個の在り方を迫る旧時代的な規範を前にして自らが感じた違和感や不信感やを言語化しテキストに起こし、そしてそれは同じモヤモヤを抱えていた人々に「我が意を得たり」と拡散され広く読まれることとなりエンパワメントの契機として歓迎されることとなった。言語化する力によって、人々は規範による束縛を拒もうとする自身のその動機を知り、今まで抗うに抗えなかった理由を知り、抗っても良いというその根拠を知り、そのような自分であるべきだという確信を獲得するに至り、そしてそれが明日からの行動を変える一助となり、その各人の行動が意志として提示されらことで社会のゆるやかな変容を促した結果としての今日が今なのである。みなさん、どうもこんにちわ、ズイショです。よろしくお願いします。

そして今日も人々は自らの違和感を、自分の大切にしたいものを、自分が自分らしく生きるために必要な何かを、より多くの人に共感されて賛同される形で言語化するべく、血眼になって心血を注いでいるわけで、まさにたけしのインターネット・ばんざい!の様相である。

しかし、当然ながら、この皆が言語化を是とし皆がより卓越的に言語化された言葉を求め生み出そうとする流れの弊害は少なからず多分に散見され、些か諍いの種としての側面が大きく見えてきたようにも思われる。そこには「言語化」するという営為についての傲慢と欺瞞、先鋭化された羨望による「言語化」への信仰が見受けられる。
そもそも「言語化」とは何か。それは、真実の喝破ではなく、解釈である。言語化とは、ある事象について「私はこのように解釈した」という表明に過ぎない。間違っても言語化とは、ある事象の在り様を一義的に定義する営為ではない。言語化とは、決して事象に先立たず、事象の存在の後に生まれる営為であるはずだろう。それが逆転した場合、人はそれを言語化ではなく規範と呼ぶべきだろう。

言語化とは、素朴を因数分解する営為である。規範をただそのままに受け入れる素朴を打ち払い、規範に抗う人のその人の声のその抗う素朴さを、素朴なままで存在できるようにする助け舟こそが言語化だとズイショさんは思うわけなのね。

この場合においても、言語化は常に素朴に先立たない。まずそこに、良かれ悪かれの素朴が存在して、その素朴を肯定するためか、あるいは一方の素朴に抗う素朴を肯定するためか、いずれかの場合に限り「言語化」は「言語化」としての存在意義を発揮しうる。ある素朴の存在を否定するために振るわれる言語化は、それは一見言語化のように見えてその癖言語化ではなく、実のところ言語化を羨望する人々の最も憎む規範に過ぎないのだ。私はこれからも言語化を大事に大事に抱きしめて生きる。それは規範に抗うためだ。規範の側に回るためではない。

言語化は誰のためのものか、万人の己のためのものだ。誰かの規範に抗い、自分らしく生きるための術だ。それは決して、誰かを私の規範に押し込めるためのものであってはならない。

しかし些か言語化は、今の世の中において、諍いを吹っかけて、諍いを有利に進めるために振るわれ過ぎているようにも感じるのだ。言語化は、あなたがあなたを肯定する一助にはなるが、あなたをあなたたらしめるあなたを正当化する手段にはなりえない。万人には万人の素朴があり、あなたが言語化して正当化したつもりになったあなたも所詮あなたの素朴に過ぎない。

多様性とは素朴を素朴のままに留めることなのだろうと思う。その人の素朴を他人の素朴によって否定されないようにすることなのだと思う。そして、ある人の素朴がまた別の誰かの素朴に侵害されないように抗う術が言語化なのだと思う。言語化が、まるで聖人のように誰かしこの素朴を許すために振るわれるべきものだとは思わないが、言語化が誰かの素朴をまるで規範のように否定する様を見るのはなかなかに心苦しい。言語化という営為は、常に規範より素朴の側にあってほしいと思う。

言語化とは、補助線を引く営為だと思う。ある事象を表す難解な図に、スッと一本、線を引くだけで、私とあなたとの違いが見えてきて、私は私で、あなたはあなたで、これからも私は私らしく、あなたはあなたらしく生きていく、そんな1秒後が想像できる、そんな補助線が引けたらいいなと思う。僕が引きたい線は、分断のその境目を規定する線ではなくて、そんな補助線だ。

あとアレだ、真実を喝破って書いた時に「あとでドルチェ&喝破ーなって絶対どっかど書こう」と思ったの忘れてたわ。

以上です。