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医師による嘱託殺人を批判することは簡単で些末なことなのだろう

難病に苦しんで「死にたい」と考えている人がいて、ある医師がその人を同意のもとに殺したという事件が起こったらしい。

その医師はもともと優生思想的な「無駄な命は殺してしまえ、生かすな」的な考え方を持っていたそうだ。

当然この医師はその行いが発覚すると嘱託殺人の容疑で逮捕されて、その行いと抱えていた思想が白日の元に晒された結果、インターネットで多くの人に批判されている。「批判されている」と容疑者の医師を主語にする必要もないかもしれない、多くの人々が、怒り、嘆いている。

その一連の流れを眺めていて思ったんだが、これはなかなか、昨今の人々が怒り嘆く日々のあれやこれやの事象をまるっと圧縮して、極めてシンプルに提示した一件になっているのかなと思った。

「Aをするべきか、Aをするべきではないか」という問いそれ自体に向き合うことは途轍もなく簡単で、ネプリーグの最初の15分くらい簡単だ。Aがたとえば今回のような、優生思想に基づく嘱託殺人であればなおさら、仮にウォッカを一気飲みしてべろんべろんになってるホリケンであろうともラクショーに「Aはするべきではない」と答えられる。Aの是々非々に断固としたNO(あるいはYES)を突きつけることはあまりに呆気なく容易い。その容易さはあるいは心地良くすらあるのかもしれない。

それでは、その「Aをするべきか、Aをするべきではないか」という問いに何らかのアンサーを出したとして、さらにそのアンサー自体が間違っていなかったとして、じゃあそれで何もかもが解決解決のめでたしめでたしになるだろうかと考えるといやそんなことはない。全然ない。まずそもそも、その問いは何故発せられたのか、「Aをするべきか、Aをするべきではないか」という問いの裏には常に「たとえZであったとしても」という、問いそのものを発生させる前提であり現実であり実態が存在していて、そのZこそが本来我々が向き合うべき課題であり、そのZを取り除くことさえできていればそもそも「Aをするべきか、Aをするべきではないか」などという愚問は発生しなかったはずなのになと僕は愚直に考えるのだ。

このZという問題は常に厄介で答えはなく悩ましい。誰にとっても正気を保ち続けながら向き合うには明らかに等しく荷が重く、逃げ出したく、逃げられる人の多くはその思いのままに逃げ出し、何らかの事情で逃げ出せなかった人々だけが取り残される。そしてZという本質の問題から目を逸らし蜘蛛の子を散らしたように逃げ果せZと目が合わないように生き存える人々が、逃げそびれ取り残された彼らの終着点のAを「Aをするべきか、Aをするべきではないか」で語るばかりなのだ。

難病患者を同意のもとに殺してはいけないし、小学校に乗り込んで児童を殺しまくってはいけないし、秋葉原歩行者天国にトラックで突っ込んではいけないし、障害者施設に乗り込んで障害者を殺しまくってはいけないし、アニメ制作会社に火をつけてはいけない。全部全部、痛く当たり前のことだ。

しかし、その背後にあるZに目を向けてどうにかしない限り、その当たり前にやってはいけないことはきっとこの先も起こり続けるだろう。

Aという自己中心的あるいは独善的な悪意を否定することは心地よく容易いが、Zという背後に潜む問題から目を逸らしたままただAを否定するそれだけでは、きっとそれもあなたが心底に憎むAと同様に自己中心的で独善的なだけなのかもしれない。

「同意のもとに殺してほしい死にたい人がいた」という、これ以上もなくシンプルなZがまざまざと報道され語られるこの事件を受けて、多くの人々によってAではなくZが語られる世界を望むし、それが果たされない世界の先には誰もが己の抱えるZを噛み殺して生きるやるせない未来しかないなとも思う。

以上です。