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「自分の家族が殺されても同じことが言えるのか」への反論

タイムラインにこの記事が流れてきて「まぁそうだな」と思った。

で、この記事に対して掲題のような批判が溢れかえってるのも目についた。

なのでこれを書いている。

「自分の家族が殺されても同じことが言えるのか」について僕が思ったことは「いや、直接の被害者遺族はそんなこととても言えないだろうしそう言う必要もないだろ」だった。

そして、だからこそ当事者じゃない誰かが「それでも誰かが言わなくちゃならないこと」を言うべきなんだろうと思う。そしてこの記事の筆者はまさにそれをやっているんだと思う。

自分の家族が殺されてしまった人にそんな殊勝なことを言えとはとても言えない。言えるわけがない。決して無理に言わせたりなんかしてはならない。

しかし、そのような視点を社会が持つことが同じような理不尽が繰り返されないために必要であるならば、それなら代わりに当事者ではない誰かが言うべきだ。

もしかしたら今不幸の只中にあったのはどこかの誰かではなく自分であったかもしれない。この事実は誰にとっても恐ろしく堪え難い。

しかし、ならばこそ、今不幸の只中にたまたまおらずにいる人々は、当事者でないからこそ当事者には到底引き受けられない役割を探して、その役割に向き合うべきなのではないかと思う。

理不尽に怯え、無力感に苛み、理不尽をただ恨み、憤りに身を任せることは簡単だ。

しかし、実際に私たちがそれほどまでにただ無力であるかについては未だなお疑問だ。

自分の家族が殺されたわけではないからこそ、もし殺されていたのが自分の家族だったとしたらとてもとても向き合えない問題に向き合いたい。

当事者だからこそ言えることがあるように、当事者ではないからこそ言えることできることを探したい。

簡単に社会は人間は無力だと諦めたくない。

きっとどうにかできたはずだ、もう少しマシにできるはずだ、そう思っていたい。

もちろん僕がそんな風に考えられるのも自分が当事者じゃないからで、自分の家族が殺されても同じことが言えるのかと問われれば僕は全くそんなことできるわけがないと思う。

しかしそれは当事者と非当事者にどうしようもなく分断されるしかないゆえの役割分担の問題で、ダブルスタンダードとかとは全く別の話なのではないかと思う。

逆に言えば、どこかの誰かのその悲しみと怒りに同化しなければ、自分が当事者になった時に悲しみと怒りに身を任せる資格がないという話でもないのだと思う。

みんな怖いしみんな辛い。

その中でできることを探して、誰かにはできないけど自分にはできることを探して、少しでも世の中をマシにしたい。そういう世の中であってほしいと思うから僕はそうしたい。

何も当事者であることばかりが宿命ではない。万人に万人の宿命がある。やるべきことが、向き合うべき問題が、立ち向かうべき理不尽とそれぞれの宿命に応じた立ち向かい方がある。

てめえのためとてめえの愛する隣人のために僕は今てめえにできることを探したい。そう考えることをいつまでも諦めたくない。

以上です。