また札幌で同性婚についての裁判がどうのとか、サイボウズの社長がやってる選択的夫婦別姓がどうのとか、なんか色々やってるけど、めんどくさいな解散解散〜〜って感じで眺めている。
同性婚の話題って婚姻制度を拡張する話だと思ってるんですけど、そして選択的夫婦別姓の話題もまた婚姻制度を拡張する話だと思って眺めてるんですけど。
そもそも婚姻制度って、要る!?その大部分、要る!?
多様化を是とするなら、解釈まで最小単位にしちゃうのが一番手っ取り早いじゃんと思うんよね。最小単位ってなんだろう?
この人と一緒に生きていきたいです。
その程度じゃんと思うんだよねー。その届出を受理してくれよー。だからそれでいいじゃん。相手が同性でも異性でも、そう思ったからそうします、一緒に生きていってお互い助け合いますので、それをしやすい特権下さい、それでいいじゃんか。
なんらかのパートナーであることを届け出られて、それが「あーそうなんだ、あんたらこれから身を寄せ合って生きていくんですね」って受理されたら、それが最低限の最高じゃんか。
たまたまそう思えたパートナーが異性で、世の中の結婚とは違うかもしれないけどーって思って結婚してるひとたちも、まあそれなりいるんでしょうな。いるんでしょういるんでしょう。
だからみんなもそうすりゃいいのにじゃなくて、全部解体しちゃいましょうよ。
婚姻なんてものはめんどくせぇ、めんどくせぇ。
俺がいつも疑問に思うのは、同性婚にしても選択的夫婦別姓論にしても、「婚姻」についてはなんだかんだ固執してんのかなってところです。
婚姻って何なんですか?愛の証明なんですか?その愛が、情愛なのか性愛なのか恋愛なのか、知らないですけど、そんなノリを感じるところがありまさぁな。
国の認可を得ないと、二人の関係は本物にならないんですか?
そんなんどうでも良くない?と常々思ってるんだよな。本当に、二人が満足に身を寄せ合ったり寄せ合わなかったりしながら生きていこうと決めて、そのための必要を求めるならば、婚姻制度の拡張なんて甚だ馬鹿馬鹿しくて、ただの腐れ縁を当たり前に受け入れる法の在り方こそが今一番必要なんじゃねえのと思うんだよねー。
みんな自分の愛をさ、疑いすぎじゃね?とかも思うわけです。
婚姻という枠組みの中で、あなたとパートナーの関係がストレスなく許容されることを、愛の証明だと思ってないかとも思ってしまうわけです。
『愛じゃなくても、恋じゃなくても、君を離しはしない。』
要するにそういうことだと思ってる。
一緒にいたいと思う相手との関係性が、愛なのか恋なのかというのは、実に些細な問題で、自分の中でもよくわからないし、ましてや誰かに決められるものでもない。
俺がハッキリと確信しているのは、同性愛婚賛成派にしても選択的夫婦別姓賛成派にしても、馬鹿ほど婚姻制度に夢を抱いている。婚姻によって得られる金銭的なあるいはその他のインセンティブはあるにせよ、そんなことは些細な問題で、みんな何かしらの称号を得たがっているように見える。婚姻に囚われているように見える。
パートナー制度でいいじゃねえか。それで何の不満があるんだ。お前らが愛し合ってるのか、利害の一致なのか、あるいは何らかの搾取関係なのか、そんなもん全部みんな勝手にやれ。それが今らしい今だろう。
婚姻制度の拡張みたいなクソしょうもない土俵で、みんながピーチクパーチクやってるのは非常に滑稽で如何にも小鳥らしい。
俺が希求するのは、ただのパートナー制度だなぁ。そのパートナーをどう呼ぶかはてめえの勝手だ、妻でも嫁でも旦那でも主人でも相方でも、全部ぶっ壊そうぜと思うばかりだ。
以上です。