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夫婦別姓を選択できるようになったら迷惑な人は、別に普通に存在する

あのなんか最近、やるのかな、最高裁、ぼく法律のこととかよくわからないからよくわかんないんだけど、やるから話題になってるのかな、夫婦別姓の話題が盛り上がってるのを見かけた。最高裁の裁判官は、とても背が高いのかな、3高はもちろん押さえてないと最高なんてなかなか言えませんよね。最高の判決を見せてくれよ頼むぜ最高裁!みたいな。

まぁ、裁判がどうのはよく知らないんすけど、なんか夫婦別姓についてで話が盛り上がってるのを見かけて、面白いんですよね。

最初に僕個人の意見を述べておくと、夫婦別姓賛成です。選択肢がないばっかりに辛い思いをする人がいるのは良くないことだと思う。僕は男性なのでそこらへんの感じよく分かりませんが既婚男性なので、嫁はなんか苗字変わったらしいということは聞いております。ファミレスの待ち受けリストみたいなのに俺の苗字書いてるのを見ると、「おいおいノロケはよせよ~(笑)」って思いますよね。こんなところで見せつけなくていいだろう~(笑)って笑うんですけど、彼女は元々の苗字を捨てて僕の苗字を名乗ることを決断したんです、と考えるとそれは大変なことだな~とはなりますよね。想像ができる。少なくともそれは決して当たり前のことではない。それにつけても僕の苗字はスタッカートの数がハンパないので、最初の頃はたいそう苦労したらしいですよ、そういうあたりで見ても如何にもどうにも苗字を変えるということは大変そうらしいということは聞き及んでおります。なので、まぁそれって面倒臭そうだなと思うので、それに限らずとも<私>を意味する記号が変わってしまうことを非常にノッピキならないと感じることも特に自然だとは思うので、私は夫婦別姓を選択できる制度には賛成です。

だけれども、僕以外のほかの夫婦別姓に賛成する人に僕が賛成するかというと、そうでもないよなーとか思う。先日見かけたところで言えば、「いやいや、そんなね、迷惑ですよ。なんでそんなもん選ばなあかんのですか。夫の姓を名乗るでええやないですか。ガタガタ言わんといてくださいよ。」という意見があり、それに対して「いやいや、今の選択肢を否定しているわけではない。あなたがそうしたいなら今までどおり夫の姓を名乗ればいいじゃないですか、何も問題ないですよ。何も迷惑なことないですよ」って反論があるわけですけど。

これは正論です。見紛う事なき正論です。

けど、この正論が役に立つかというと怪しいなと思うんですよね。「いや、今までどおりを選択したらええだけやん、何も面倒はないやん」ってのは、これとても糞な論理だと思う。今僕が想像してるのは恐ろしいババアですよね、ダルメシアンの皮を剥いでコートにするようなギャグみたいな更年期のババアなんですけど、いや知らないよ。実際にそんな面白いババアがガラスケースを隔てないこっち側にいるのかは知れないけれども、この話をする際に考慮すべきはそういうババアだと思うんですよね。人は誰も一人では生きられないから周りにいつも誰かがいて、それゆえに「私の選択」を誰にも文句を言われないようにするのは大変難しいことなわけです。選択するのはとても大変なのです。「私の意志でそうした」っていうのが誰の目にも明らかになるのは大変なことだな~と思うんですよね。ありがちなフレーズとして「規則ですので」というものがありますけど、この糞フレーズにハラワタ煮えくり返ったことはあったとしても、このフレーズのゴリ押しで切り抜けられる局面というのも過去にあったわけじゃないですか。まぁ言う側としては便利なのです。

ババアが迫ってもあなたは怯まずに言う。「規則ですので」。それはなんと素晴らしいことなのでしょうか、「夫婦別姓を選べる権利」、それは「旧姓を捨てない権利」、そして「旧姓を捨てない権利を放棄する権利」、という運びになりまして実際にそうある・べきなのです。このいずれかを選び取る自由の是非こそが俎上に上がったそれであり、「規則ですので」を捨てて逐一自分で選択した動機を語れというのが、「夫婦別姓を選択する権利」を持つうえでの最低条件なわけです。

で、そう考えた時にそこまでしたその権利欲しいか~って話なんですよね。もちろん何をどうしても何をかなぐり捨ててもそれを手に入れたい人っていうのはそれでそれでいるよ、いるけどそうじゃない人もいる。男性はまぁ全員そうですよね、女性がそういうこと言い出すとダルい、俺はどっちでもいいけど親が何言うかわからないし。結局説得しなくちゃならんのはそこらへんになってくるわけです、そこは個人の問題になるわけじゃないですか。個人の問題を巻き起こす余地をわざわざ作るのが、夫婦別姓を認めるってことなのです。101みたいなコート作りたがる更年期のババアが、「別姓でいいじゃない、できるんだからそうしなさいよ」と言ってくる可能性はあるわけです。糞ジジイが、「さて、ウチに来ないことも選択できるわけだけど、お前の嫁はどうするんかね」と言うことができるわけです。

ここらへんに怯えるような人って俺には決して少数とは思えないんですよね。ジジイ・ババアの柔軟性の無さって跳び箱跳ばせなくてもマル分かりじゃないですか。多様性を認めても良さそうな世代なのに、そういうのを嫌がる層って、結局そういう年寄りが家族にいるんじゃねえのとか思うんですよね。そういう人らからすると、今は「そういう規則なんで」つって「夫の姓しか選べないことになってるからご期待に添えられずすまんね」つって、そういう風に済ませられるほうがよっぽどラクだとは思うんだよね。

繰り返すに僕は、そういう自由は何でも推進されたほうがいいと思う人間なんだけど、その自由を完全に受け渡されると周りにあーだこーだ言われる人ってのは割りといるわけで、そいつらが胸張ってうまいことやれるように、法律的なところの是非はさておいて、世間の空気みたいなのを変えていくのも大事だと思うんだよなー。

結局マジョリティに怯えるみたいなのってとても普通なことなわけで、マイノリティである私は踏ん張って当然みたいなノリで自分が頑張れるならいいけど、そこで脱落してマジョリティに転げ落ちる人間は転げ落ちて当然みたいな意識で、ずっとマイノリティやってたらそりゃああんたずっとマイノリティでしょみたいな。多数派になったら困るから、みんなに共感されないやり方やってるんじゃないですか、みたいな。「だけどそれはさぁ」って文句言ってくるマジョリティを敵だと看做すのがマイノリティを長くやるコツだとは思うんだけれども、それは世の中をもっとクリーンにしてやるコツではないよなみたいな、そういうことを思うので日々困る。以上です。