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男性が善意で声をかけると「声かけ事案」にされてしまう問題雑感

ネットでたびたび話題になるよね、男の人がなんか良かれと思って困ってそうな女性とか子供になんか手伝えることありますか的な感じで話しかけたら全力で善意を拒否されて、挙句には「事案」として通報されましたみたいなやつね。16時半頃、どこどこ区で黄色いマントを羽織ったシャアの元嫁みたいな声の男が女子小学生に自分の顔の一部を引きちぎって食べさせようとしました、みたいな。ダメだよお前、カバ以外に話しかけちゃ、みたいなのあるじゃないですか。

ネットの都市伝説というか真偽不明のツイートとかで見かけることもあれば、実際にネットに公開されてる防犯を呼びかける通報事案の紹介なんかでも「そ、それは普通に話しかけただけの、不審者ではない人では?」と思える内容があってそれがスクショでリツイートされてるのを見かけたりもする。

で、二項対立大好きインターネットではたびたびこの話題が議論になって、「善意をこんな風に足蹴にしやがって」派vs「だってもしかしたら本当に良からぬことを考える人かもしれないんだから当然の自衛でしょう」派が喧々諤々ピーチクパーチクとやってるのを見かけるわけですね。

かくいう僕はというと、もう20年以上前かな、札幌の住宅街を友達の家まで歩こうとめちゃめちゃ吹雪の向かい風の中歩いてるとキャリーバッグが雪に捕まっちゃってろくに引き摺ることもできないまま立ち往生してるおばあちゃんに出くわしてさ、純粋な善意の気持ちで「歩く方向同じなら持ちましょうか?」て声をかけたんですけどめちゃめちゃ警戒されて口も開かずホウキみたいなスカスカの身体で威嚇されたもんだからまあいいやと思って「失礼しました」とその場を後にして、まあ見ず知らずの若い男からそんなん言われたらおばあちゃん怖かっただろうな半分あのバッグの中身は銀行に預けられない現金かめちゃめちゃ仲の悪い息子嫁の愛犬のパピヨンの死骸かどっちかだな半分くらいの気持ちで、50%の確率で俺が怖かった、25%の確率で5000万円(猪瀬のカバンよりは大きかったので)、25%の確率でパピヨンの亡骸ということで俺の中では終わった話なんでいいんですけど、まあ、そういうことはあるよねと学んだもんです。

この二項対立について思うのは、この二項対立が存在する世の中を作ったのは双方というか全員だよねというのがまずあって、近隣住民を本当の善人か疑ってかかって悪い人じゃないにしても面倒くさい人かもしれないので避けようってのを当たり前に考えるのは防犯意識と関係なくこの30年だか40年だかで育まれてきた流れだとは思うんだ。子供を勝手に叱ってくれるカミナリジジイみたいなの、藤子不二雄作品の原作なんかではたびたび見かけたものだけど、俺が北海道の片田舎出身の34歳だけどギリであのようなものを見たことがあるかなどうかなくらいのライン、いや見たわ、中学生の頃に公園で夜の21時にロケット花火をお互いにぶつけ合う遊びを仲の良い友達同士でしてたら近所のおっさんが怒りに来てたわ、立ち漕ぎで逃げたわ。一方で大阪に一人で引っ越して大学生になって近所の公園でドラゴン花火をおでこの上で着火するみたいなことをして遊んでた時にやってきてたのは近所のおっさんではなく警察官だったな、これが時代の差なのか地域の差なのかはよくわからんのだけど。

誰が悪いのか誰かが悪いのかもわからないけど、俺がオギャーって生まれてから向こう、いわゆるご近所同士みたいなコミュニティというものは退廃の一途を辿ってきたように感じる。むしろウーバーイーツのような、サザエさんでいう居酒屋のサブちゃんに相当する隣人は増えているにも関わらず、他人あるいは運んでくれるロボットとしての付き合い方しかしないのが現状だよね。俺は毎週、たまごとかバナナとか届けてくれるコープの宅配の兄ちゃんと「髪切った?」とか「髪染め直した?」とか普通に話すんだけど、こういうのはあんまり主流じゃない世の中になってるんだろうなとは思うんだよな。俺は先日3歳の息子とでかい公園に遊びに行って、でかい滑り台があったんだけど、それが滑り台が螺旋型に回る滑り台で、ぐるっと捻れる構造なので前の子が滑り終わったかどうかが、次に滑ろうとしてる子供からは見えないようになってる作りなのね。だから俺は、自分の息子が前に滑った子に突撃どっしーんみたいにはならないように気を配っていたらついでに他の子にも「まだダメだよ!滑っちゃダメだよ!ほら、君は避けて、滑り終わったら横にずれて!いいよー!上の君、もう滑っていいよー!」とかやる羽目になってさ、この滑り台、大人がこういうオペレーションする前提で設計されてるじゃんてむかつきながらやっててさ、で、他所のガキの子供の親がさ、その俺をニヤニヤ見てんの!お前らもやれよ!手伝えよ!て思うんだけどさ、まあ、いいけどさ、ガキのオペなんざできるから、いいんだけど。あれ俺、ただの特定のお子さんの親だとちゃんと認識されてたのかな。いざとなれば集団でとっ捕まえればいい変なおじさんだと思われてたのかは気になるんだけど。俺は、ママ友、パパ友が欲しかったんだよ本当は〜!!

ま、極端な例ではあるけども、そんな感じでさ、「希薄な社会」はみんなが望んで作っているよね、とかは思うんだよね本当。で、希薄な社会の方にみんなが舵を切る中で何せ「知らない人」は何を考えてるかわからなくって怖いからそりゃあ俺だって自分の子供には「知らない人にはついていっちゃいけないよ」って教えるだろうしそれが「当たり前」なんだろうなということはわかる。

ここで少し話は変わるんだが、子供を車に乗せるときにはチャイルドシートに固定してやりたいし電動チャリの後ろに乗せる時にはヘルメットを被せてやりたい。これは「当たり前」のことですが、いったいなぜ「当たり前」なのでしょうか。「何かあった時危ないから」、うんうんまあそうなんですけどこれは答えとしては半分くらいで、俺がいつも思うのは何かあったときに「あー◯◯していてよかった〜」て思いたいからだなと思ってて、それはもっと言えば何かあったときに「ああ、あの時ちゃんと◯◯さえしていれば」と思いたくないからだと思うんだよね。

つまり、万が一のときに「後悔したくない」という気持ちが人を不安にさせるし、その不安を払拭して「安心」でいたいからこそ人は事前策に腐心するし、その結果としてより「安全」を求める。

これらの「後悔したくない」と「安心」と「安全」は同じように見えて実はそれぞれ独立していて必ずしも常に相関するわけではない、ということをまずは確認したい。

たとえばそれこそ自転車に乗るときにヘルメットを被せるとかチャイルドシートにちゃんと固定するとか。「後悔したくない」については10段階評価で10でしょう。何かあったときに「ちゃんとやっていればこんなひどい怪我にはならなかったのに」と思わなくて済みますので。「安心」についてはどうでしょう、ヘルメットやチャイルドシートをちゃんとしてるから事故になんか遭わない、事故に遭っても大した怪我をするわけがない、と考える人はまあいないのではないかと思います。「安心」についてはせいぜい2点くらいじゃないでしょうか。「安全」については、まあちょっとした事故なら準備をしてなかったときに比べれば相対的にそんな酷い目になる確率は下がるので5点くらいでしょうか。「安心」や「安全」をもっと確実に獲得したいなら、たとえば車通りの少ない道を選ぶとかそもそも電車を選択するとかが必要かもしれません。もちろん電車は電車で人がたくさんいますので嫌な思いをすることはあるかもしれないし、思わぬ危険が潜んでいないとも限らないわけですが。

じゃあそれらヘルメットやチャイルドシートをちゃんと準備したうえで、交通ルールをしっかり守るというのはどうでしょう。これも「後悔したくない」的には10点ですね。赤信号を無視して事故に遭ったら悔やんでも悔みきれないでしょうから。「安心」の面ではどうでしょう、これはかなり人それぞれだとは思います。安全運転を心がけることで、不安なく目的地に向かえる人もいれば、他の乱暴な運転車を警戒してどこまで安全運転を心がけても心休まらない人もいるでしょう、あいだを取って5としましょうか。「安全」の観点から見ると、うーん7くらいかな?できることはやってますし、実際に交通ルールをしっかり守っていれば、守らないよりも危ない目に遭う確率はぐっと減ります。0にはならないけども。

ではまたシチュエーションを変えて、「夜道を歩くのを避ける」の場合はどうでしょう。「後悔したくない」は10かもしれませんね。もし万が一何かがあった時には「そんな時間に歩いてさえいなければ」と思うかもしれません。「安心」は文句なく10でしょう、夜道を歩いて不安を感じるならば夜道を歩かなければ不安は0です。誰であろうと夜道でも不安を感じず歩ければそれが一番ですが、なかなかそうはならない現実は歯痒いものです。「安全」の面から考えると大変難しいです。昼歩いててどんな酷い目に遭わないとも限らないとしても、実際夜の方が危ないのは統計的には間違いないのかもしれない、統計をここで探してくるのはものすごくめんどくさいしそれは本旨ではないのでここでは「わからない」としておきましょう。

ほかに例えばを持ち出そうと思えばいくらでも持ち出せるのですがそれをやってるといつまで経っても次の話に進めませんので次の話に行きますが、僕がここで言いたいのは我々の取る自衛行動というのは基本的には常に「後悔したくない」が10で、それでどれくらい「安心」できるかどうかはケースバイケース人それぞれで「安全」に至ってはもっとその他の行動によって人それぞれのケースバイケースで、あらゆる自衛っていうのは結局まず何よりも「後悔したくない」からやっているんだろうなということです。何かトラブルに巻き込まれる確率というのは全体から見ると極めて小さく、軽微です。しかし軽微だからこそ、そのババを自分だけは引きたくないから人は自衛するわけなんだなと思うのです。

ここまで事件事故を引き合いに語って来ましたが、病気とかになるともっともっとそんなもんですよね。酒タバコ飽食好きに飲み散らかして天寿を全うする人もいれば、常に健康を大事に生きてきたのに若くして大病を患い亡くなられる方もいる。酒タバコ飽食をして病気する人は「だから注意したのに」と周りから言われて自分でも後悔するし病気をしなければ「大丈夫大丈夫、医者のいうことなんて真に受けるな」と言うし、酒タバコ飽食をやらずに病気する人は「どうしてほかにもっと健康を考えない人がいるのに」と嘆くでしょうし健康に長生きできれば「そりゃあ俺が長生きできないわけがないだろうと誇らしげに語るでしょう。全ては残念ながらそんな感じで、傾向や相関は当然ありつつもそれは全てではなく、人は自分が何かトラブルの当事者になった時にどんな言い訳をしたいかどんな後悔をしたいかしたくないかを軸に意思決定しながら生きているところが大部分ではないかと思うのです。

 

翻って、掲題の「知らない人に声をかけられた」に戻りましょう。

 

まずは、声をかけられた側から考えます。ここで「一見善意っぽい何かを拒否する」という行動を取った時に得られるものはどうでしょうか。「後悔したくない」は100点ですね、これで迂闊についていって殺されでもしたら後悔しかないですから。「安心」についてはどうでしょう、拒否するを選ぶ人からすると100点でしょう、だって迂闊についていったら「この人本当に大丈夫かなぁ」ってずっと不安に思うわけですから、それなら拒否する方がいいですね。「安全」の観点で言うとどうでしょう、これはわからないですね、その人が本当に善意で助けてくれる人なら、まあその人の善意の施し方がキモい可能性も踏まえて70から100、その人が最初からそういう目的の悪人だったら0かな?

いやあれ、評価値がこんがらがってる。「拒否する」ことで得られる「安全」の話だったっけか、そう考えると悪人なら100で善人なら0から30かな?いや、これは声をかけられた側がどういう風に困ってるかの状況によるな。いやいや、ややこしいぞ、その困ってる状況の危険度が0から100なのか誰が判断するべきなのだろう?それによって差し伸べられた善意に乗るか乗らないかも変わってくるだろうけど、どんな状況であれ相手が悪人だったら危険度は100で確定なのでややこしい、ここらへんでこれまでのこの評価軸での考え方は一旦詰みます。

摘んだので一回とりあえず端に置いて、善意によって声を掛けた側から、冷静に声を掛けられた側から見た自分の評価値を考えてみましょう。「自分の善意を断る」ことで相手が何を得ているのかを考えてみましょう。まず「後悔したくない」で言うと100点です、相手からすると自分なんかわけのわからん存在なのでこの後どうなるかわからないんだから、断るのは当然でしょう。「俺の善意を断ったら大変な目に遭うかもしれないのに」とあなたは思うかもしれませんが、本人が選んだんだから仕方がない。俺の善意を断ったあのババアはとりあえず凍死のニュースが翌日の新聞になかったので生きてたんでしょうが、もしかしたら「あの人に手伝ってもらえばよかった」と思いながらパピヨンの死骸を公園の便所に捨てに行ってたかもしれません。しかしそれは僕には預かり知らぬところです。「安心」の観点で見ても、まあ100点かはわからないけども、あのババアは善意かわからない俺と行動を共にするよりも一人で不安や苦痛を抱えながら行動することを選んだんかなと思います。「安全」の観点でいうと、0点ですね。俺は俺が安全なことを知っているけど、ババアからすると俺が安全なことは判断できなかったので危険な道を選んだ、ただそれだけです。

何が言いたいかと言うとですね、人はなによりも心の安定のために生きている、自分の善意を拒否されたとしてもそれは自分が特別に危険者認定されたわけではなく、単に「危険か安全か」以上に「心が穏やかでいたい」の方が優先順位がその人にとっては大事だっただけで、善意を施そうとしたあなたが「危険だ」と思われたわけではありませんよ、ということです。

そしてまた一方で、どこの馬の骨ともわからない善意を丁重に断るみなさん、断ることを推奨するみなさん、あなたがたも「安全」を確保するためにその行動を取っているとは限りませんよ、ということです。まずあなた方は「安全」よりも優先して「安心」や「後悔したくない」を確保するために見知らぬ善意かもわからない何かを拒否しているに過ぎない、ということです。「安心」や「後悔したくない」を軸に行動することは決して悪いことではありません。全然普通なことです。ただ、それを「危険かもしれない」と表現する必要はあるのでしょうか?SNSでこの件に触れる時に「危険かもしれないんだから当たり前でしょう」ではなく、「私は万が一が怖くて不安なので結構です」と言うことはそんなに難しいのでしょうか。

 

「後悔したくない」というのはそもそもなんなのかと考えると「負い目を感じたくない」「責められたくない」なのかなと思います。夜道を歩いて何かひどい目に遭ったらきっと誰かかしかに咎められます、「そんな時間に歩いてるから」とか言われるんでしょう、どうせ。そして自分自身も自身に対して思うのでしょう。繰り返しになりますが、そこらへんは誤差です。どんだけ自衛してようと、自衛してなかろうと、当事者になる時はなる。それをみんな内心は知っているからこそ、その時に少しでも胸を張っていられるように、言い訳できるように、自分に厳しく、そして他人にも厳しくしているように、俺にはそういう世の中に見えるんですよね。俺にはその方向がナイスなようにはとても思えない。どうすりゃいいんだろうなと思っている。

この話になるほどと思える人たちが中心となって、少なくとも善意の声掛け事案に関してはさ、信頼が担保できる仕組み作りができるようになればいいなーと思うんだけど、例えば、どこぞの馬の骨じゃなくて何かしらの認可を受けた個人として人に声がけする権利を獲得できるみたいな世界線とかさ、人が安心を得るために他人を疑う世の中が確立されたのはもうどうしようも揺るがないからさ、その中でどうしてこっかっていう補助線を引きたくて長々と喋っていたのであった。

もう書き飽きたので切り上げるけど、なんだろ。とりあえず、声掛ける側は、自分の善意を相手に否定されたからって、てめえの善意を否定されたみたいに怒るな。てめえの善意はてめえが担保しろ。てめえの善意はてめえが肯定しろ。他人に否定されてもお前が善意だと胸を張って言えるならそれはてめえの善意だ。胸を張れ。見返りを求めるな。お前に提供できるのは安全だけで、安心として受け取るかは向こう次第だ。安心できないから拒否されたとしても、安全を提供したかったお前の善意は嘘じゃない。お前の善意を人にジャッジされて癇癪を起こすな、お前の善意はお前が守れ。俺はそうしようと生きている。お前もそうして生きろ。

双方がそんな感じで矛を収めた後に「じゃあもっとこうしよっか」みたいな仕組み作りの話がやっとこさできるんだろうけどねぇ。

以上です。