←ズイショ→

ズイショさんのブログはズイショさんの人生のズイショで更新されます!

逝かされた恨みと生かされた後ろめたさが蔓延していくのだろうか

いつからの時代かは知らないが「畳の上で死ぬ」という慣用句が日本にはあって、それの意味するところは「出先での事故とか変死とかじゃなしに、自分の家の布団を敷いた畳の上で穏やかにその生涯を遂げること」みたいな意味なのだろうと思っているのだが、まさか自分の生きてるあいだにこの慣用句の意味がまるっとひっくり返ることになるかもしれないのかと考えるとなかなか驚きだ。

数年前に病気を患って病院に入院してお世話になった時に、高額医療費制度?に随分お世話になっていることがわかる明細を見て強がりで「普段から安くない社会保険料納めてるんだから、たまにはこうして病院の世話になるのも元を取るって意味では悪くないかもしれませんね」と僕が嘯くと、担当の看護師さんが「そんなこといちいち気にしなくたって、今時なかなか病院以外ではそうは死ねませんから。死ぬ直前にはみんな元が取れますよ」と返してくれて「なるほどたしかに、そりゃあ違いねえ」と笑っていたものだが、そんなジョークが今後も成立し続けるかでいうと恐らく風前の灯なのだろうと実感させられる昨今だ。

たぶん10年以上も前に『イキガミ』というタイトルの漫画があった。あんまりちゃんと覚えてないのだが、近未来の日本では生まれたばかりの赤ちゃんに平等に何かしらの薬を投薬して、その何かしらの薬には1000分の1だか10000分の1だかの確率で「何歳の何月の何日何時に死ぬ」という時限爆弾的な毒が含まれており、政府はどの戸籍のどいつがいつ死ぬかを厳格に管理しており、そいつが死ぬ24時間前に公務員が「お前あと24時間で死にますよ」という通知をしに行く、みたいな設定だったと思う。戦地に赴くことを命じる「赤紙」ならぬ、戦地に赴くまでもなくただ死そのものを宣告する「逝き紙」を届けに行くというわけだ。そんな馬鹿げた法律が作中で成立した経緯は「命の価値を国民が広く理解するため」みたいな理由だった気がする。ドラマ化もされてて、たしか草なぎ剛(なぎの字は草冠に屍)主演で主人公の決め台詞は「俺の胃袋は宇宙だ」だった気がする、記憶が曖昧なので間違ってたら申し訳ない。

さて、翻って2021年現代の日本であるが、まあそんな様相にこれからなってくるのかなぁ(他の感染爆発を経験した国と同様に)という感慨だ。

ニュースで報道される数字は何処を見ても増加の一途を辿り、これがCR北斗の拳だったらいいのになぁくらい増えまくっている。

医療の助けを借りることも叶わず畳の上で亡くなってしまった人のニュースも見受けられるようになり、今はそれなりに個別に取り上げられているそれらの事象もいずれは数字に集約されて、CRになっていくのだろう諦観がある。

2011年に起きた311東日本震災は、もちろん被災された当事者の人々にとっても忌まわしく悼ましい経験になっただけに留まらず、繰り返し何度もリピートされる津波の映像とほとんど静止画のようにリアルタイムで静観され続ける原発の映像とは、被災地から遠いすべての日本国民の注目をも一手に集め、直接的には関係がないはずの多くの国民の心を締め付けた。

対して、このコロナというやつはなんなんだろうな、本当に。

多くの人々の想定通りにオリンピックは開催されたが、今日は誰がメダルを獲りましたみたいな話を楽しげにタレントらが談笑した後に15分のニュースコーナーでコロナの感染者数を局アナが神妙な面持ちで語るその光景は、中学校の社会の先生が戦国武将の面白豆知識をめちゃめちゃ時間を割いて雄弁に語りつつ、何百万の人が死んだ近現代の戦争の歴史をテストに出るところだけ要約してチャチャっと巻きで終えてた感じを思い出した。思えば(少なくとも俺の通う学校の先生は)武田信玄は便所で考え事をするのでめちゃめちゃ便所が広いことは教えてくれていたが、ヒトラーが何百万人殺したかは特に教えてくれなかった。回答欄には「武田信玄」とか「ヒトラー」とか人名を書けば、それで丸が貰えた。

畳の上で息も絶え絶えに死んでいく人たちにはそもそものドラマがないし、そこにドラマを見出そうとしても感染症である以上(それ以外にも理由はたくさんあるだろうが)まめに取材するのもなかなか難しい。だからきっと、これからも数字だけが堆く報道されていくのかもしれない。これも諦念だ。

 

僕が気にかかるのは、その数字が増えるにつれ、確実にその数字が表す「死」というやつは、圧倒的なリアリティをもって我々の日常に忍び寄ってくるのだろうということだ。

 

「あなたが死ぬかもしれない」という話ではない。「あなたの大切な誰かが死ぬかも」という話ですらない。

もちろん、そちらの側の当事者になる可能性は十分にあるのだが、そちらを免れたから「ああ良かったな」という話でもない。

友達の大切が死ぬかもしれないし、大切な友達の大切な友達の親が死ぬかもしれないし、大切な友達が大切じゃない他人の死をフランクに語るかもしれない。それを語るのはあなたかもしれない。自分より遠かったり近かったりする有象無象の死が、誰しもの傍らに当たり前に存在する世界になった時に何が起こるだろうということが非常に気掛かりだ。

大切な人が畳の上で十分な医療を受けることなく死んでいったという事実のみを受け取ることは大変に辛いことだろうし、大切じゃない人が同じように死んでいった時に人は自分が苦しまないようにその人が死んでも仕方なかった理由を探すかもしれない。

たまたま自分の大事な人が医療の施しを受けて助かったらほっと胸を撫で下ろし世界に感謝をするだろうし、その後に別の大切な人があっさりと死んでしまったら、死んでしまった人と助かった人と何が違ったか思い悩むこともあるのではないかと思う。

逝くも生きるも運次第の局面で、私たちはその無常にどれだけ耐えられるだろうかということを考える。

私たちというのは多数の個人、ひいては社会だ。ある者は、たまたま大切な人を畳の上で逝かされ、ある者はたまたま医療の恩恵を受けて生かされる。きっと全ての人を生かしたいあまりに小さな受け皿のもとで、逝かされる者と生かされる者がランダムに選別される。その現実に、遺された全ての者たちが晒されるのだ。

「誰も死なないでほしい」と誰もが思ってるんだろうと思いたいが、おちおちそんな願いは叶わないのかもしれないと考えると暗澹とした気持ちになる。次に考えるのは、その先がどうなるか、だ。

身近な死を悼む人は、身近な死がなかった人を恨まずにいられるだろうか。身近な死がなかった人は、遠くの死をどこまで悼むことができるだろうか。どこかの誰かが死ななかった事実に理由を求めて死ななかった事実を間違いだと思わずにいれるだろうか。どこかの誰かが死んだ事実に理由を求めて死ぬ必然性を見出さずにいれるだろうか。

なにもコロナに限ったわけでもなく、恐怖も尊大も憎しみも主観的な公正さも、すべてが簡単に伝搬して共振するこの世界で、僕はどこまで人に優しく生きていけるだろうか、みたいなことを考えているし、俺がまず真っ先に死んだらみんなこのブログ拡散よろ。

以上です。