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京アニ放火事件初日夜雑感

全容についてはまだ全然明らかになってないし市井の自分から語れることは当たり前に勿論何もない。

今はただ、それは自分だったかもしれない隣人の理不尽な死を悼むばかりだ。

 

反省しきりなのは、朝すぐに第一報「火事の騒ぎが起きてるらしい」と聞いた時に、僕はすごく矮小化してその報を受け取ってしまっていた。

なんか、小火騒ぎくらいに受け取っていた。

だから、ヤマカンがトレンドに上がってるのを見て、ふふっと思ったりもした。

その時は、ちょっと壁に立てかけてた段ボールが燃えてたくらいに、なんの根拠もなく思ってしまっていたんだよね。

 

それでまあふつうに仕事しつつ、合間でSNSを眺めてたら、どうやら言いようもなく悲しく理不尽な出来事がその時その場所で起こっていたことを知るにつけ、どんどんどんどん心が苦しくなってしまった。

僕がふふって思ってたその時にその場所で何があったかを考えるとどんどんどんどん申し訳なくなって、どんどんどんどん申し訳なくなったんです。

 

そして今も未だ全体像はよくわからないし。本当にただ悼むことしかできない。死にたくなんかなかった人が理不尽に死んでしまうなんてどうしたって悲しいよ。

 

みたいな事態の把握と心の流れだった人は別に俺だけじゃないんだろーなーとかも思う。まあ陳腐な言葉で言えば罪悪感なんだろうな。僕は僕の心の流れを恥じるし、それをなんとかして取り戻したいとも浅ましくも思う。

 

けど、できることなんて今のところ何一つないしな。少なくとも今はまだ。僕にできることなんて僕には決められないよなとも思う。

 

すごくたくさんの人が胸を痛めて、それをSNSを通して、みなが思い思いに形にしている。そこに嘘はないし、醜いものなんて何一つない。

 

それはわかってるんだけど、自分自身がそういう後ろめたさのある流れで事態を把握していったからこそ、なんだか据わりが悪い。居心地が悪い。濁流の中、後ろから流れてきた切り株に後頭部ぶん殴られてるような、そういう心地がある。

 

思いを馳せるとか、何かを願うとかってのは、ともすれば何かを求めることと裏表だ。思い過ぎれば、願過ぎれば、それは求めすぎることと同じになってしまう。僕は今、自分がそうなってしまうことが物凄く怖えな。

 

ビートたけし東日本大震災の時に、言ってたんだよね。「1人が死んだ事件が2万件あった」って。あれは警鐘だったんだろうと思う。あまりの理不尽に、あまりの悲しみに、日本中が飲み込まれていた中で、みんなが何かを取り戻すために何かを蔑ろにしてたことに対する警鐘だったのだろうと思う。

 

そして、今日はその言葉をなんだか思い出した。

 

何かを取り戻したい気持ちもわかるし、単純な人の数以上に何かが失われてしまいそうな感覚もわかる。けど、その気持ちや感覚に突き動かされるばかりが良いことなのかは僕にはほとほととんとまるでよくわからない。

 

実際のところまだ何もよくわからないし。ただ悼むべき死が今日そこにあったこと以外は。

 

だから僕は、今はただ死を悼みたいなと思う。理不尽を憂いながらと、理不尽を憎みながらも、理不尽の渦中の人に何も求めたくないなと思う。

 

そこには人の生活があって、そこにはきっと家族があって、友人があって、ただその人が喪われたことを悼みたいと思う。

その人の、その人が属する組織の根底に、創作や多くの人のためになる営為があったとしても、今はまだその創作や営為に何かを求めたり何かを期待したりはしたくないなと思う。

それは取り返したい僕の、少しでも失いたくない僕の傲慢で、それを求めてしまうことは、既に喪われた命と遺された人たちへの軽薄だとも思う。

 

だから、僕は、ただ悼みたいなと思う。ただ悼むことの困難さは、本当に苦しい。だけれど僕はそれを手放したくない。ただ、ただの隣人として隣人を悼みたい。だって、それは僕であったのかもしれない。喪われた命に何かを求めたくはない。

 

亡くなられた方々を、ただ悼む。