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「やる気がないなら帰れ」とポリコレダブルバインド

 ネットなんかで永らく繰り返されている「正しすぎる正義」「正しすぎることの何が悪い」の話題ですがぜんぜん正しくも何ともないことがわかったのでそれを書きます。

 あのー「やる気がないなら帰れ」ってあるじゃないですか、よく腹立つ教師とかが使ってきてたやつ。あれってずるっこいですよね。実のところ言外に要求してるのは「俺に逆らうな」「俺の言うとおりにしろ」なのは明らかじゃないですか。しかし言葉のうえでの質問は「やる気はあるのか?」です。「先生の教え方は理不尽です」と言っても「そんなことは聞いていない。やる気はあるのか?ないのか?どっちなんだ」ってな調子です。こう言われると大抵の子は啖呵を切って教室を出ていくのも大変なので「やる気あります。帰りません」と答えざるをえません。相手の思うツボですね。ここでやる気があると表明したことを褒めてきたりするのもむかつきますね。飴と鞭のつもりかよ。なお、この場合は本当に帰るという選択肢は別にぜんぜんアリですし、他にもみんなで口裏を合わせておいて口々に「先生、僕もやる気ないので帰っていいですか?」と挙手するなどの手があります。

 さて、ではこの「やる気がないなら帰れ」が「お前は差別が良くないこととは思わないのか」だった場合はどうでしょう。シチュエーションは同じです。そこには何か理不尽を感じる。賛同できない部分がある。どうも適切なやり方には思えない。その疑問を口にした時に飛んでくるのが「お前は差別が良くないこととは思わないのか」です。言葉のうえでの質問は「お前は差別が良くないこととは思わないのか」ですが実のところの要求は「俺のやり方にケチをつけるな」「俺の言うとおりにしろ」です。これはなかなかに厄介で、まず「やる気がないなら帰れ」みたいに帰るわけにはいきません。ここで「帰る」に相当する行為は「差別を容認する」です。これは絶対にいけません。差別はいけないのです。しかしここで「はい、私は差別を良くないことだと思います」と答えると彼らは「そうかそうか分かってくれたか」とこちらが全てに賛同したかのようにあなたは理解のある上等な人間だと褒めてくれます。この際に「良くないとは思うんですけど……」と続けて何か言うと「お前は差別が良くないこととは思わないのか?」に戻ります。ドラクエかよ。

 こうなってくると「私はあなたのやり方に不満があります」ということを相手に伝えるための方法は自ずと沈黙するか反発するかのふたつにひとつに限られてしまいます。だって「私は差別を良くないことだと思います」と言ったら向こうは「そうか、わかってくれたか」ってなるんですから。しかし、沈黙と反発、そのいずれを選んだにしてもそこに差別主義者のレッテルを貼るのは容易なことです。沈黙に対しては「沈黙は反論できないということで、つまりそれは俺に口答えした自分が差別主義者であるということを認めたも同じだな」と言えばそれで事足ります。反発を選んでくれればそれもラクな展開で、売り言葉に買い言葉の調子で差別的な言葉を口にしてしまう人もそこらでよく見かけます。大変嘆かわしいことです。どんな理由があろうと差別的なことなんか言うもんじゃありません。言ってはいけません。そして何よりこれでは相手の思うツボです。

 一般的にこのような「やる気がないなら帰れ」にも似た手法を使う人たちは「正しすぎる人たち」とか呼ばれて、正しさを拡大解釈して正しいものまで正しくない認定する人たちのように思われがちですがそうではないのです。彼らはそんなことはしていません。彼らは正しくないものに正しくないと言うだけです。だから、正しくないことを言わせようと仕向けます。

 彼らは例えば、非差別主義者を差別主義者に仕立てあげるのではありません。彼らは、自分を全肯定するかさもなくば差別主義者になるかどちらかを選べ、と、二つに一つの選択を相手に迫るのです。そして差別主義者は弾劾されるべき存在です。この点については僕にも異論はありません。ただし、差別主義者の汚名を被るか、手放しにそのやり方に賛同する立場をとるか、その二つの選択肢しか選べないというのはいくらなんでも理不尽です。僕はこれをポリコレダブルバインドと呼ぶことにしました。しかし、彼らと対話を試みる以上はどちらかを選ぶより仕方ないのです。なので、そのどちらも選びたくない私はもう対話を諦めるより仕方ないのです。

 もちろんこれは、彼らの言うことに聞く耳を持つ必要はない、彼らが差別だと主張するそれは取るに足らないことなのだと考えようという話ではありません。むしろそう考えてしまっては相手の思うツボで一方的に誰もかもを弾劾したい彼らの立場をより強固なものにしてしまいます。彼らのやり方は「やる気がないなら帰れ」と宣う教師同様に陰湿で褒められたものではありません。しかし、それが差別を是正しなくて良い理由にはなりません。むしろ彼らのやり方を否定するためにも差別に対しては断固NOの態度を取る必要があるでしょう。そのうえで彼らの態度にもまたNOを突きつけなくてはならないのです。差別にNOを示すことそれ自体は彼らの態度にYESを示すことにはなりません。また同様に彼らのやり方にNOを示す方法は差別にYESを示すことではありません。

 この理屈、自分でも危なっかしいなと思いながら書いています。というのも、生粋の差別主義者が耳をふさぐ口実にされる可能性があるよなというのは書いていてもわかるからです。しかしそれ以上に、差別を良しとしないながらも他人のポリコレダブルバインド的な言説に触れているがために、積極的に差別へのNOを唱えることを躊躇してしまう人、本心ではそんなこと思っていないのに差別的な態度へと針が振れてしまう人というのは世の中に意外といるんじゃないかとただ愚直に信じている、それが結局こうして懸念はありながらも思ったことを書き連ねている理由です。この文章が、これを読んだ差別に強くNOを言えない誰かのその理由のひとつを取り除くきっかけになることを願っています。夏のスイカが食えなくなったら寂しいなと思うのと同様につまらないことで人と人がいがみ合うのは寂しいなと思う人間がお届けしました。最後までお読み頂きありがとうございます。シェアしてもらえると励みになります。アフィリエイト広告はやってないので現金で二億ください。焼き肉が食べたい。赤土の崖で歌いたい。以上です。