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バベル

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idコールというか言及時って今はてなは通知飛ぶんだっけ?どうだっけ。まあTwitterで報告すればいいか。

シロクマ先生の記事2つ読んで、明らかにだいたい同じ論点を違う語り口で話していて(まあシロクマさんがだいたい同じ話ばっかしてるのはいつものことだが)、なんか思ったことテキトーに書く。Twitterに連投しようかなと思って「あ、長くなりそうだしブログにしとくか」と思っただけで、構想は何もないです!!

 

まずなんか思ったのは、そうね、昔は今よりもっと腕っぷしや政治力やコミュ力やなんやらである種の暴力ないし権力を行使できる人とできない人の格差がものすごく大きかったよね。今でももちろんたくさんあるけど、それでも随分ましになった。ましになったというか、そういう力に頼って生きてる人は今も変わらずそのように生きてるんだが、それを持たざる者でも対抗してあわよくば仕留められる手段が育ってきたというか。みんなが平等に使える初期装備がちょっと強化されたみたいな(もちろんこの初期装備をうまく使いこなせないから相対的に変わらずしんどい人もたくさんいます)。

で、その初期装備ってのがいわゆる「正しさ」みたいなものと「正しさに従って機能する(しなくてはならない)前提の公的機関」みたいなものなんでしょうけど、ここまではまあシロクマ先生の言ってることをなぞってるだけなんですけど、乱暴に言えば「正しさ」を担保に保証される「権力」「暴力」を誰でも平等に使える社会って、それもう社会全体でミルグラム実験スタンフォード監獄実験をやってるってことなんだなと思って。えーまーわざわざこんなはてなの最果ての瑣末なズイショさんのブログ読んでる人間なんてどうせ厨二病でその手のwikipedia読み漁ってる人しかいないと思うので当然ご存知かと思いますが、どちらも「権力を行使する側」という役割を与えられた人間は、割と他人を抑圧することに積極的になるし罰を与えたり懲らしめたりを普通に行えちゃう残酷さが発露するみたいなそういう実験なんですけど。スタンフォード監獄実験の場合、あくまで演技というか設定という前提で、被験者を看守と囚人に分けてそれぞれのロールを任せると看守役はどんどん囚人に容赦ない看守になるし、そうなると囚人はどんどん看守に反抗的になるし、みたいななんかそんなやつなんですけど。まあ、日本社会の少なくとも一部は今まさにそんな状況ですよね。しかもみんな自分のことを看守側だと思ってるからタチが悪い。はてなブログTwitter始めて少なくとも10年以上のなんかそれくらいインターネットやってますけど、そこらへんの社会の変化の過渡期に割と前の方の席で立ち会えたのはラッキーだったと思う。違う立場の人間同士が話し合うみたいなことはちょっと難しくなって、「正しさの奪い合い」「単なるポリコレ陣取り合戦」の様相が色濃くなっていくのは、まあ10年そこらでの変化としてはあっという間と言って差し支えないだろう。自分が看守側であるために相手を囚人認定するために躍起になる、そういう風潮は確実に強くなったもんだなぁと感じる。もちろん躍起になってる人は声がでかくて目立つのでそんな人ばかりじゃないのは当たり前なんだけど。

で、やっぱ過渡期って言ったのは本当に過渡期だったから。何言ってんだこいつみたい人はインターネットを見ればなんぼでも見つかるけど、過渡期なら仕方ねえかぁとは思う。虐げられてきた当事者が反撃できる新しい武器が新たに登場したらそりゃ使うっしょ、て思うし。ただ、これが本当に過渡期に起こる混乱なのか今後のスタンダードになってくのかはちょっともう何十年か見てみないとわかんねえなとは思ってて。というのはみなさんご存知の通り、差別や憎しみというやつは伝播するし次世代への継承も積極的に行われるものだから。僕は北海道のそこそこ片田舎の出だから、親世代の和人とアイヌが憎しみあってる偏見しあってるのも子供の頃から見てきたし、自分の頭が今以上に足りない当時は大人の言うことを真に受けてアイヌのこと嫌いだったし。厄介なのは和人の俺の親が偏見を刷り込んでくるだけじゃなくて、アイヌの大人も虐げられたそれまでの人生があったうえでしかたないのかもしれないけど和人の子供への当たりはめちゃめちゃきつかったから、対立や差別の構造を保存しようとする点では双陣営一致しててめちゃめちゃ子供に刷り込んでたなと今となっては思うんだ。でもそれっておかしいな変だなって今は思えてるからラッキーだけど、大阪に住んでてもたまに在日とか同和の話を見聞きして「え、まだあるんだ」と思うんだけど、俺はたまたま一応「目の前の人間の属性とか考えず普通に話そう」と一応一応思えるようになっただけで、北海道を離れたから見えなくなっただけでアイヌ差別は今も普通にあるだろうし、俺が俺なりに普通に話そうとしても話せない人は同じ世代でもたくさんいるだろうし、その人にはその人の普通に話せなくなる人生がそれまでにあったのだろうと思う。

そういう風に、人間同士が仲良くなれない理由は実に容易く次世代に継承されて誰も得しない不毛な争いは続いていくのだろうが、その仲良くなれない理由が社会が漂白されていくことで更に増えて、さらに人々はバラバラになっていくんじゃねえのかなぁというのがシロクマ先生の一連のエントリを読んで感じた一番の危惧だ。

で、シロクマ先生が偉いのは「じゃあどうすりゃいいんだ」も一応考えてるところだ。それが「人間ってすごくないですか?」みたいな方のやつで、「あんまりわかりあえるところないのにナアナアでふんわりうまいこと一緒にやれてるのすごいすよね」みたいなことを言ってるんですが、なるほど、言語で揉めて人種で揉めて何度も何度もバベルの塔が木っ端微塵になってる我々人類にとって、最後の砦はそれしかないかもしれないと膝を打った。消去法だけどそれしかないかもしれない。

「正しさの奪い合い」「ポリコレ陣取り合戦」と今の社会の方向性を形容しましたが、このゲームをやるとなると、その人の属性とかあるべき社会のルールとかとにかく「定義」の奪い合いになるじゃないですか。で、「定義」ってのはみんなで一律に共有しなくちゃならないっていう定義がまずあるわけですけど、それは無理な領域に我々は今到達しているよと思って。そんなんできっこないからナアナアでやってたところをわざわざ主戦場にしちゃったらそりゃうまくいくわけないよね、ていう。確かに、たとえば同性婚の話題についてのコメントとかでもよく見るよね、「理解は要らないから権利だけくれ」みたいなの。一方で「どうして愛する人と一緒にいたいだけなのに理解してくれないの」もたくさん見る。声としてはどうしても後者の方がエモーショナルで強いので目立つ。そしてその後には理解できない人の強い反発が目立って「理解し合えない」という不協和音がメインストリームになってしまって断絶が深まる。断絶が深まれば、それを次世代に継承する機運が高まる。僕もこれまで別の属性の立場にいる当事者として、いろんな他の立場を理解しようと努めてきたけど、その中でなんとなく理解し合えたと思える人の方がもちろん圧倒的に少なくて、こちらの抱える悩みや苦しみを理解してもらえなかったら腹も立つし、頑張って自分なりに考えて理解しようとしたのに「まだまだ全然理解が足りない」とダメ出しされても腹が立つし、理解し合おうとすると大変なことの方がそりゃ多くて、だからこそある程度でも理解し合えて友情なり信頼が発生した時の喜びはひとしおだけどもしかしたらそれってパチンコで大当たりが出たら嬉しいのとそんなに変わらないのかもしれない。もちろん、そういう風に誰かと繋がれるのはかけがえのない経験になるし、少なからずともの理解者を得ることは人生の大きな財産になるけど。

ただ、同じ思想の人と簡単に繋がれる現代においては、大当たりが出るのが当たり前くらいのめちゃめちゃ出るパチンコをやりつつ、大当たりが出ないパチンコも一緒に打ってクソ台だって台パンするのが当たり前になってないかみたいなところがあって、下の世代に何を伝承したいのかとしたらそこかなーみたいな。パチンコはたまにしか出ないし、たまにしか出ないから面白いんだよみたいな。

いや、違うわ、めちゃめちゃ話が脱線してるから。なんだ、えーと、みんながみんなと分かりあうのはちょっとキツいけど、お互い「そうなんだ」くらいで済ませられたらいいよねって話なのかな。お互いの立場やなんやを定義し合って、どちらの言い分が正しいかを定義しようと言い合うのって、結局「争点を明らかにする」ってことじゃないですか。そしてお互いに譲れない争点を明らかにするって、全面的に相手をコテンパンにするまで戦い合うってことじゃないですか。理解し合おうとすることって、実は戦い合おうとすることと表裏一体なんだなと思って。じゃあ戦い合おうとすることって理解し合いたいことかっていうと、そんなのはジャンプとか少年漫画の中だけの話だし、対偶も取れてないし。

だからなんだろ、とりあえず一番嫌なのはこのお互いに裁き合うポジションを奪い合う戦いが色んなところで勃発してる現状は嫌だなってのと、これは俺が生きてる間に解決することはないだろうから(俺が生まれるずっと前から続いてる今もずっと続いてる争いがたくさんあるんだから当たり前)、じゃあ俺は何を喋ろうかなと思って、思ったことを喋っただけのやつでした。

あ、でもこれ厨二病こじらせて変なwikipedia読んでるようなやつしか読んでないんだった!ダメじゃん!もっと発信力がないと喋っても意味ないじゃん!?発信力を持つためにはえーと、なんだっけ、松ちゃん審査員やりすぎ!これ言ったら発信力高まるんだっけ!?

まあ、一人一人えっちらおっちら日常と隣人を大事にやっていくしかないですもんね。

以上です。