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フラッシュモブ離婚雑感

結婚式で絶対やめてくれと言ってたはずのフラッシュモブをやられて離婚を決意した女性の話がネットで話題になってたんですが、僕もフラッシュモブとか糞食らえって思うタイプの人間でたまに誕生日にサプライズとかやられてもリアクションの引き出しが世界まる見えテレビ特捜部で昔に見たドッキリ食らった白人くらいしかないのでそれでやり過ごすくらいそういうの苦手で嫌いな人種ではあるんですけど、それは僕がひねくれてるだけでそういうの心から楽しめる人種もいるんだろうなとは思うわけです。たとえば能年玲奈ちゃん。いや、知らんけど。

つまり僕が何を言いたいかというと神様は七日目にフラッシュモブ楽しめる人間とフラッシュモブ楽しめない人間を創りたもうたので我々人類は今目の前にいる人間がそのどちらであるかを見極めなくてはならないしもし相容れない存在であった場合は全力で逃げなくてはならんわけですね。

手垢のついた言葉で「女(男)なんて星の数ほどいるさ」なんて言いますが、棲める星はけっこう限られてる。(結婚を前提としたような)恋愛ってのは星を掴むのではなく、棲めそうな星を探す作業であるわけです。

それで、棲めるか棲めないかは自分で考えて判断しなくちゃならんよ、と思うんです。「爆発するまでは頑張って棲む」みたいな発想じゃしんどいだろと思うわけです。

一口に相互理解などと言いますが「相互理解を深める」ということは時に「なるほど、私たちは一緒にいるべきではないということが理解できましたね」という結論になる可能性を孕んでいます。

わたしたちはいつだって寂しいので、その可能性を恐れた結果突っ込んだ対話を避けて、「人それぞれ」の枠に収まらない相手の決定的な失点や細かい失点の積み重ねを待ち「相手が悪いから仕方ないよね」と関係を終わらせて、また別の相手と同じような恋愛を繰り返す人って生きてて世の中に割りに見かけます。

もちろんこれ悪いことではありません。人に咎められるようなことでもありません。「嫌がるフラッシュモブをやる相手が悪い」、ド正論です。相手が悪い。でも、もし仮に、そういう、「私は悪くなくて相手がこんな悪いことをしたのでもう我慢ならん堪忍袋の緒が切れた」というラインでしか別れる別れないの基準を持たない生き方をしてる人がいるとするならば、それって結構しんどそうだなと思うわけです。その人のイメージする幸せからその人を遠ざける考え方だなと思うわけです。

フラッシュモブ離婚の人は口を酸っぱくして再三忠告したうえで食らったようで気の毒ではあるんですけど、そして僕自身もフラッシュモブ嫌い人間なのでさんざん茶化したりもしてるんですけど、それにしてもみんなの怒り方が「フラッシュモブをやる人間なんざ非常識な馬鹿だ」みたいな傾向にあるような気がして、へいへいへいそうじゃなくて棲み分け棲み分け~って思ったのと、フラッシュモブ嫌いな人はフラッシュモブ嫌いな人と一緒になればいいだけなのに「フラッシュモブなんざ非常識」ということが常識になってくれないとフラッシュモブの好き嫌いを確認し合えないような雰囲気を僕は感じてしまってなんだか微妙な気持ちになる。

誰かと好き合うコツと、誰かと好き合えなかった時にかわいそうに見えるコツってちょっと違うというか真逆だと思うんだけど、なんか後者を大事にする世の中の空気があるよなぁみたいな。わかりあえなかった時に「私は悪くない」と言える保証がないと、わかりあおうとできないなら、それはちょっとしんどいよなぁみたいな。わかりあえないことなんてありがちで良いも悪いもないんじゃねえのって俺は思うんだけど、みんなそうでもねえのかなぁ。みんな自分の感覚的な好き嫌いに自信が持てないから正しさが持て囃されたりしてるのかしらん。などなど、なんかグチャグチャなったけどそんなようなことを思った。以上です。