とある芸能人が突然の引退ということでツイッターが盛り上がってるのを見かけて、その引退の原因は写真週刊誌の報道にあるみたいなんだけどそこにある報道内容のひとつにその芸能人のセクシャリティに関する情報が含まれていたらしい。俺はその週刊誌の記事は読んでないので実際のところはよく知らん。
本人の意思を無視してその当人のセクシャリティを誰かに伝えてしまうことはアウティングと呼ぶらしく、それはとんでもなくやってはいけないことだ。今年だったか、それをきっかけに自らの命を絶ってしまった大学生もいた。ヘテロである自分には想像することしかできないが、それほどアウティングというものは辛いことであるようで、だからツイッターを見ていてもみんなとても怒っているようだ。
それで僕も全くやりきれない理不尽な話だと憤る気持ちはあるのだけれど、「アウティングは絶対に許してはならない!」というのはまぁそうなんだけど、全く無関係な第三者としてそれだけでいいのだろうかという気もしてなんだか煮え切らない。
自分はその芸能人とは全く無関係な第三者ではあるけれども一方で同じ社会で生きているもちつもたれつの社会構成員であったりもするわけで、そう考えた時に、アウティングという行為を否定することはそれはそれで必要で大切なことではあるのだけれども、それほどまでにアウティングという行為が今回のようにクリティカルで致命的に作用してしまう現状の社会の在り方、空気に対して自分が取るべき態度は本当にただアウティングという行為を糾弾するだけでいいのだろうか。ここのところで僕はよくわからんくなる。
もちろん例えば「俺はそういう偏見とか全然ないから」「全然気にしないから」みたいに言うことは簡単だ(簡単にそう言ってしまうこと自体が軽薄で無責任で浅慮ではあるかもしれないが)。ただ、そう言う一方で「アウティングなんかされたら本人はどれだけ大変か」「アウティングは人の人生を狂わせるものなんだ」と言うのはなんだかちょっと違うのだけど「俺は気にしないよ?俺は気にしないけど世間は何て思うかな?」でお馴染みの太宰メソッドよろしく結局世間の偏見の存在を肯定して加担してしまってるんじゃないかという気もして、なんだかわからなくなってしまう。
もちろん怒るのは必要なことだ、アウティングはどうしたって許される行為ではない。だけどそれだけじゃないプラスアルファってないのだろうか、アウティングという行為がもたらしてしまう結果が今より少しでも軽微な世の中になるために必要なことが、何か怒る以外にあるんじゃないだろうかなんて気がして僕は怒るより先になんだかぼーっとしてしまうのだ。
繰り返すに僕は「アウティングけしからん」って怒ってる人に文句を言いたいわけじゃない。ただ、それだけじゃないプラスアルファがないかなーと思っている。もちろんどんだけ世に溢れる偏見がマシになったってアウティングが良くないことには違いないんだから(誰も笑わないからって言われたって俺は自分の意思と無関係に自分のチンコを見られるのは嫌なのと同じように)怒ることだっていついつまでだって必要だ。でも他になんか並行してするべき行動、示すべき態度、こんな時に残しておくべき言葉があるんじゃないかと思って、僕はぼーっとしている。そしてこういうことを考えるのは、別に人に考えろって求めることではなくて、別に怒らなくてもやりきれない気持ちにならない余裕がある奴がそいつの好きで勝手に考えておけばいいことだとも思っている。
この通り、全然まとまりないし歯切れのいい結論も何もないのだけど、これは書かずにぼーっとしているだけだと霧散しちゃうやつだ、と思ったので、書いた。以上です。