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子は意味もなく生まれ

この文章は、最初「子は意味もなく生まれ」というタイトルで考えて書き始めたのでそのままになっているが、書き終えて改めて考えてみるとわざわざ「子」と対象を限定する必要がないことに気付いた。人は誰も誰かの子だし、親もかつて未だ親ならざるものの子だった。「人は意味もなく生まれ」でよかったじゃん、と思った。

嫁が、昔からの友人と先日遊びに行っていて楽しかったらしいので何よりだったのだが、そこで話した色々について聞かされるなかで出てきた話題のたくさんの中のひとつに、嫁さんと嫁さんの会った友人の共通の友人のなんとかさんの息子の話題が出てきた。なんとかさんの息子さんは大層な変わり者の子であるらしく、なかなか話も通じなければよくわからない行動も多くて、そのお母さんは色々悩みもした結果、宇宙人から預かったもんだと思って育てているらしい。

それでお母さん、日頃大変なことは色々あるらしいのだけれど、ある時にその息子さんが幼稚園だか小学校だかでお遊戯会だか学芸会だかをやる時があって、そこで息子さんは何かしらのメイトのみんなと一緒に舞台に上がりマーチングみたいな小太鼓を叩く演目に参加したらしいのだけど、他の子どもたちが一生懸命太鼓をリズムだかに合わせて叩くなか、息子さんはぼーっと突っ立って太鼓も叩かず時間を過ごしていたそうだ。それを見ていたお母さんに、他所の誰かのママ友さんが声をかけた。「いやー、よかったですねー」。

嫁と友人はそのエピソードを受けて、そんな風に言われた時になんて返せばいいのだろう、そもそもどういう意味で向こうは言っているんだろう、と二人で話していたそうだ。それで「なんて返す?」と俺は嫁さんに言われたので僕はあんまりそんなに考えることもなく「ああ、どうも」とかでいいんじゃない?と返すと、嫁さんは「ああ、それでいいのかぁ」と言っていた。

たぶんこれって発達障害がどうのとかの話なのかもしれないけど俺は専門的な知識もないし子どもを持つ身分でもないので、そこらへん全部知らないていで続ける。

俺がこの話を嫁さんとしていて最初に思ったのは、「え、だって、その人は太鼓を上手に叩かせるためにその子を生んだわけではないのだよね?」ということだ。太鼓を叩かせるために生んだわけではないのなら、太鼓がうまく叩けないくらい、そんなことどうってことない。「いやー、よかったですね」と言ってきたママ友さんが嫌味かどうなのかも俺にはよくわからないのだけど(かけっこの時にそのお母さんが転んでビリっ子のママ友さんに「いやー、よかったですね」と言った可能性もあるかもしれない)、別に太鼓なんざ叩けなくて困るもんでもなし、どうも気にするこっちゃないように思われる。喇叭を吹かせるつもりで生んだんなら、太鼓くらい人並みには叩けた方がいいのかもしれないが、別にそんなつもりで生んだわけでもないだろう。

人は意味もなく生まれる。

別に何か使命があって生まれることもなく、誰かの都合でなんとなく生まれる。何の段取りもなしに生まれるだけで一大事なのに、そのうえ宿命なんか宿命付けられて堪るか。人は、意味もなく生まれ、誰に意味を問われることもなく生きればいい。そういう前提であれば、生きるということは自分が生まれた意味を探すことだ、なんて自分にくらいは言ってみてもいいのかもしれない。でも決して他人にそれを言ってはいけない

思い出したのは、いつだかの昔に見た、それよりもずっと昔のビデオテープで。そこには幼少期の僕が運動会だかなんだかで転んで泣いている姿が映っていた。そしてそこにはそれを笑う父親の声もあった。僕は運動ができない子どもだったのだけれど、それが嫌だった気持ちが当時あったのは覚えてはいるのだけれど、僕はそんな僕を見て父親が笑って見ているその映像を見て、なんとなくありがたくも思った。ここで父親が転んで泣く僕を見て本気でがっかりしていたら、僕は駄目なやつなんだと思って本気でがっかりしていたかもしれない。運動できないやつは運動できないし、できて喜ぶぶんには構わない。ただ、まぁどっちにしたって大したことではない。どっちでもいい。たぶんそういうことなんだろうな、と思った。

翻って、太鼓をうまく叩けなかった件の小僧について僕が思うことは、その小僧はどういうつもりなんだ?ということだ。彼は、そもそも太鼓を叩きたかったのだろうか。叩きたくなかったのだとしたら、むしろ僕は彼のことを褒めてやりたい。そうか、太鼓なんざこれっぽっちの興味もないのに、周りに合わせておとなしく突っ立ってやっていたのか、そりゃあ殊勝だと言うのが僕にとって一番自然だ。もし本人が太鼓を上手に叩きたくて悔しがっているのなら、何か次はうまくやれる工夫を一緒に考えてやりたい。ただ、その過程で「みんなが言うてるからやりたいだけちゃうか?太鼓ってそんなに大事か?」みたいなことは何回か聞くと思う。

結局、かけっこが出来なかろうと太鼓が叩けなかろうと、別にそいつはそんなことするために生まれてきたわけじゃなし、なんでもいいじゃないか、と思う。何かをするためとか、そういう意味もなく、ただ漠然と子どもとか人って生まれてくるのだ。だから、それでいいじゃん、って思うんだけど。

こんなもん、俺は別に誰の親でもないし、外野だから無責任に言える何の参考にもならないどころか参考にするだけ損なことなのかもしれないけれど、人が生まれることにも生きることにも死ぬことにも意味なんかないし、意味は当人が見つけた意味にしかほかならないし、それって結局世界と自分の付き合い方を見つけるってこととほとんどイコールなんだろうなと思って、俺はここらへんの話で言えば「優しく育ってくれればいい」とかも微妙だなと思ってて、優しくいようとすることで世界との距離感がわからなくなる人もいるしね。優しくなることで不幸になるなら優しくなんかなくていいと思うし、まぁ人を著しく傷つけるとかしなけりゃそれでいいよ、ただ、世界と自分の付き合い方を、世界に自分がいる意味を、勝手に一人で見つけりゃいいじゃんと思う。そのうえで、ちょっとした先輩として俺が世界について知っていることくらいはそりゃあいくらでも教えるし。

くらいのゆるい感じでいるのが、この世に意味もなく生まれる人に対しての接し方としてはちょうどいいんじゃないかなと思うんだけど、俺はなんか人間を育てた経験とたないのであんま知らん。俺がまったくの他人事だからこんな軽口叩けるだけなんだろうなとかは全然わかるんだけど、これくらいで考えるのが一番ラクなんじゃないの、みたいな、そんなことを思ったのだった。

以上です。