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子は親に関白宣言を謳ってくれない

間もなく5歳になる息子がいる。

生まれた時は3000gあるかないかだったのが今では15kgとか16kgとかだかで、目に入れても痛くないか試そうとしてももうまるで全然入らない。入るわけがない。目に入れるとしたらまず足からかなと息子の足を俺の目に近づけてみたところで、踵を俺のまつげでくすぐられた息子がけたけたと笑うばかりだ。つまり、目に入らないからと言っても、まるで可愛くないわけでもない。息子が笑うと嬉しい。

生まれてからこっちまでのあいだ、ほとんど運動神経が犬にも到底及ばないしょぼい犬くらいのもんだと思っていた息子も、さすがに5歳が近づいてくるとようよう立派な社会的動物に成長しているように感じる。つまりは猿には到底運動神経が及ばない猿程度には色々考えるようになっている。それはかつての俺であり、彼はこの先、かつての俺と同じように社会の中でえっちらおっちらどうにかどさどさ回ってどうにか生き長らえようとするホモ・サピエンスへと成長していくのだろう。

この春から幼稚園の年中組になった息子が、先日初めて、人間関係に関するネガティブな話題を口にした。別にそれほど深刻な話題でもなく「同じクラスの誰々君が好きじゃない」と口にしただとか、そのレベルの話だ。しかしそれは、この前まで犬ころと変わらずに見えた彼と、ちょっとした猿にしか見えなかった彼とは違う、社会的動物の第一歩を踏み出したその発露であり、親にとっては一大事である。また同時に、それが息子本人にとっての一大事であることも、かつて犬ころ同然であり猿同然に過ぎなかった時代があって今ここにいる俺も、親としてではなく俺個人として知っている。

俺は幼稚園も含む広い意味での学校教育(集団教育?)のなかで繰り出される「みんな友達なんだから仲良くしましょうね」という謎の妄言と、馬鹿ほど喧嘩をしていた性質である。甲本ヒロトがどこかのインタビューか何かで言っていた話で、なんとなくの要約にはなってしまうのだが「山手線で同じ車両に乗り合わせた人たちと仲良く友達になりましょうね、そんなん無理じゃん。でも喧嘩もしないじゃん。学校ってのはそういうことを練習ところじゃない?」みたいな、そんな話を小耳に挟んだのも随分大人になってからだ。この甲本ヒロトの話はなかなか耳が痛く、幼稚園から中学くらいまでの僕は「みんな友達なんだから仲良くしましょうね」みたいな大人から押し付けられる言葉を真に受けてそしてそれに反発しすぎて、随分損をした。無駄な諍いを同じクラスメイトとも教師ともしたし、いわゆるスクールカーストのマウントの取り合いにも「腐心した」と恥じる気持ちと共に告白してもそこに嘘がない。殴って殴られて突っかけてすっ転んで誤解されて疎まれて、誰かを悪者にしたり、誰かに悪者にされたり、人気者になったり爪弾きにされたり、まあ高校まではそういうことをずーっと繰り返していたなと自身を振り返るしかない。それから、もちろん相手は選ぶけれども自分の未熟を省みて人に頭を下げて、人に好意というか「お前と仲良くやりたい、お前という人間を尊敬している」を素直に伝えるようになったりとか、そういうふうにして教室とか山手線の車両みたいな同じ箱に閉じ込められていなくても時たまに連絡を取り合って楽しく話せる時間を作れるような友人ができるようになるのは、大学生になって社会人になってというそれなりに先の話だ。

 

なので、「同じクラスの誰々君が好きじゃない」みたいなことを言う息子に俺から言えることは思いの外見つからなかった。

 

歯を磨かねば虫歯になるし、食べ物の好き嫌いはできることならしない方がいい。風呂には毎日入った方がいいし、机に向かって読み書きを練習する習慣はないよりもあった方が良い。100%間違いないことはあるし、そういうことを教えて躾けることは容易い。しかし、そこに留まらない社会的な生き物に俺の息子はいよいよなっていくのだな、ということを感じるばかりであった。

不仲のそいつと何があったのか、ふんわり聞いてみたもののふんわりだけあって多くは聞けなかったが、まあなんか仲違いになるエピソードがあったのだろう。できるだけふんわり話しやすいトーンで聞いてみたが、彼もあまり話したくなさそうだったので、まあいいかと思った。何より俺もそんな5歳児同士がどういう喧嘩をしたとかマジでどうでもいいし。彼にとってそれが一大事であることはわかるけど、傍から見たらどうでもいいどこにでもある些細な出来事であるんだろうと思うし。

なので俺は、よくわからんけど、「一回喧嘩したら二度と仲直りしちゃいけないわけではないから、向こうが遊ぼーって言ってた時に嫌じゃなかったら遊んでもいいし、もし自分から言いたかったら遊ぼーって言ってもいいんだよ。嫌なら遊ぼーを断ってもいいし、遊ぼーって言わなくてもいいと思うよ」と言った。

キリストが生まれただか死んだかが西暦の区切りらしいけど、それより前も後もずっと「みんな仲良く」とか「みんな誠実に」と喚き続けてそれをやり尽くしてのこの2022年、俺もお前らも、この悲惨な有様だ。人間関係について俺が人に教えられることはとてもとても少ない。俺が子供の頃から教えられてきたことも何もかも嘘ばっかりだ。自分の都合や立場を避けて考えれば、自分の子供に限らず自分より下の年齢の奴らに俺が胸を張って教えてやれることなんて一握の砂からこぼれ落ちるほんの一粒くらいなんだろう。だから教えられることはほとんどないことを恥じながら、手前の見栄のために間違ったことを偉そうに大人ぶって教えることもいけないと思う。

ここまで心掛けたところで笑えるほど答えはない。いっそ答えがあれば良いのにな、とも思う。その答えを誰かが教えてくれればどんなにラクだろうか。

お前を親にもらう前に言っておきたいことがある。

そんな風に言ってくれれば、どんなにラクだろうか。

だけどそんなことは子供は言ってくれないから子供に何を言うべきかはわからないし、まあもっと言えば恋人も配偶者も友人も会社の同僚も部下も上司も、誰もそんな宣言してくれないし、だから自分で考えるしかないんだなーと思う。

愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶと言うけれど、ならば自分を賢者と思わない愚者にできることは、愚直に目の前の人間の今に自分の今で寄り添うことで明日を考えて、相手の今を邪魔しないことしかないんじゃないかなと思う。

 

以上です。