前倒しで今日、家で節分をした。
たしか一番最初の息子との節分は俺が鬼の面をつけて貞子みたいに這って呻き声を出して、息子がギャン泣きして、嫁にめちゃめちゃ怒られた、みたいな感じだった。
で、初めての節分がそんなだったから息子の中で「鬼怖え〜」て擦り込みがあって、数年はおっかなびっくりの節分だった。俺もそりゃあ大人なので怖くないよ、の鬼をやりつつ。
ここ1年くらいはSwitchを買ってて、ゲームを通して「敵に立ち向かう」みたいな経験をビビりなりに息子は積んで、今年の節分は息子が仕切って指示を寄越してきた。
曰く「お父さんとお母さんは鬼の面を被ったらまずここの部屋にいるところから始めて、この廊下を通って、ここから出てきたら僕が豆を投げるのでこう逃げてください」みたいな、そういう細かい指示を寄越してくるのだ。
自分が怖いことと怖くないことをちゃんと切り分けて理解して、自分が怖くなくて楽しくやれるように場をコントロールしようとする。仕切って俺らに指示を出す。そういうのに俺はガキも成長するもんだなーと思う。一番思う。
でも、俺は親だから指示を受ければその通りに付き合ってやるんだけど、やっぱり外の世界は指示通りに動いてくれないしコントロールなんか全然できないこともたくさんあるから、これからも大変だけどなんとか頑張れよと思う。俺も、そんな支配的な親ではないだろうとは思うけど、なんだかんだ息子を動かしてやろうって気持ちがゼロかといえばもちろんそんなわけもないから、仕切って自分の理想を目指そうとする息子を見ると、こいつはこれからもっと俺のコントロールの外にある個別の人間になっていくんだろうなーとも思う。
そんなことを考えながら、鬼役の俺は豆をぶつけられても一向に怯まず息子を抱え上げて外に連れ出そうとするし、息子が演じる鬼を豆も持たずに追いかけ回す。息子は少しビビりながらもケラケラと笑って、節分というイベントを楽しんでいる。
ほんの数年前は鬼を演じる俺に泣き喚いてたくせに、今日は楽しんでるふうにいる。それは、ごっこ遊びを理解できるように進歩したとも思えるし、親が親じゃなくて鬼になるとは思わずにごっこ遊びで戯れるようになったとも言えるし、ごっこ遊びを受け入れ合う関係というのは他人行儀な関係になっているんだなぁとも思う。
それを悪いことだとは全く思わないし、寂しいとも思わないんだが、言われてみれば他人という存在を一番初めに知るのは親だったかもなぁとか考える。
一生懸命に親に指図して自分なりの段取りを考えて説明する息子は面白い。自分のやりたいようにやりたいのだ。そのために指示を出すということは、言葉なしには親も思い通りに動いてくれないということを理解していて、それは実に他人行儀だ。そして、それでいい。だって俺はお前じゃないから。言葉で意思疎通を図ろうとするのがもっともだ。どんどん他人になっていくのが嬉しい。一心同体なんてできっこない嘘っぱちは捨てて、信頼し合える他人になりたいな〜と思ってるので、実に嬉しい変化だなーと思った。
とは言え、親なので、聞き分けはいいはずで、外にはコントロールできない有象無象がたくさんあるし、そういうところでの悩みも話せる仲ではいたいなーと思うし、それができるかどうかは未知数だし、仲良くはしてたいんだけど、仲良しでいる必要はないんだよなーみたいな、豆が全然関係ないことを考えていた。
あとは、息子にプランを任せると誰が鬼をやって誰が豆を撒いてばっかりで、「鬼は外」しか言ってなかった気がするので、明日か明後日かに、「福は内」をメインにしたイベントをアンコール開催してもいいかもなーと思った。
俺は北海道の出自なので落花生を投げている。
以上です。