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ピカチュウは英語でもピカチュウだがヒバニーは英語ではヒバニーではない

近々5歳になる息子がいるんだが、実は1歳の頃からずっと英語教育に力を入れている。

俺自身は英語は全くからっきしだし、むしろ外国人と会った時に通訳を通して褒められたりした時に、サンキューではなくありがとうございますを言いながら元気よくハキハキ頭を下げるので「逆に珍しい」と面白がられるくらいだ。拙いにもほどがある言語でもじもじとサンキューを言うよりは、慣れ親しんだ言語でありがとうございますと言った方が身体も表情もついてきてそっちの方がよっぽど謝意がついてきて、伝わるだろうというのが俺の持論だ。

そういうわけで俺は英語がからっきしでまるでよくわからんしそもそも機械翻訳もこれからますます発達していくだろうし自身が今更英語を覚えようなんて気はサラサラなかったのだが、令和を目前に爆誕した息子についての話であれば話は少し変わってきて、俺は全く勉強しなくても国語のテストは学生時代全く苦労したことがなく常に満点に近い数字を稼げていたので国語に加えて英語でも同じようなマウントを取れれば受験戦争において非常にマウントが取れるだろうし、何よりこの息子が大人になる頃に物理的ではないにせよ経済的に日本が沈没している可能性を考えれば英語を喋れるということは生き方の選択肢を大きく増やすことになるだろうと思って英語にウエイトを置いた環境にカスタマイズしている。俺んちを。

良い時代だねと思うのはネトフリにせよYouTubeにせよ、子供向けのアニメやなんやを英語で摂取する環境がめちゃめちゃに整っている。今の時代、どこの家のお子さんも基本的には映像コンテンツで暇な時間を潰す傾向はあるとは思うんだが、我が家では原則英語コンテンツを見せるような方針にしている。それをずっと継続した結果、英語がまるでわからない俺には聞き取れない流暢な発音の英語で人形遊びをするに俺の息子は至った。まじでたまに何を言ってるのかわからん。

そういうことをやっていると逆に日本語が疎かになって苦労するぜ、みたいな言説も界隈にはやはりあるそうで俺も少し不安に思ったこともあったのだが、日本語しか喋れない父親である俺がブログを見てもお分かりの通りめちゃめちゃ日本語を喋りまくり続けまくる人間なので大丈夫だろうという結論に至った。中島みゆき的に言えば鱗剥がれ落ちながら登っていくしかないくらい父親も母親も日本語の洪水を叩きつけていくのであれば、まあそこらへんはなんとかなるだろう。

そういうわけで何かうまそうなもんを口に頬張ったらヤミー!と叫ぶ洒落臭い子供が育っていくわけなのだが、4歳5歳の子供と言えども一丁前に社会的動物の一端を担っているだけあって保育園や幼稚園にいるあいだは空気を読んで日本語コミュニケーションに徹してあんまり英語を喋ったりしないらしい。家では英語で一人遊びしてるのに。大したもんだ、日本語が読めて英語も読めてそのうえ空気まで読めるなんて実質トリリンガルじゃん、トリンドル玲奈じゃんと感心していたのだが、最近ちょっとした問題が発生したのである。トリンドル玲奈だけに、と言おうと思ったが特にトリンドル玲奈は問題を起こしていない。濡れ衣である。

きっかけは忘れたが、息子はある日ポケモンに興味を持った。ポケモンポケモンと言うのである。それで、ネトフリだかYouTubeだかでポケモンも少しくらい見せてやるかと思って、それもやっぱり英語で見せてやっていたのだが、俺も小学生くらいの時分にポケモン初代赤緑を遊んでカルチャーショックを受けた世代だったのですぐに気付いたのが、ポケモンの名称は和名と洋名が違うパターンがある!!

ピカチュウは英語でもピカチュウなのだが、フシギダネは英語ではフシギダネではない!!そして、俺にはフシギダネの洋名は難しくてよく聞き取れない!!

これはたぶんそのうち面倒なことになりそうな予感がするなぁと思いつつもそれはその時解決すればいいやと思いつつ、とりあえず英語のポケモンをその後も見せていたのだが、その面倒は思ったよりも早くやってきた。

ある日、幼稚園から帰ってきた息子は、幼稚園の同じ組の子供とポケモンの話をしていたら「それは違うよ」と言われたみたいな話を拙い言葉で語ったのであった。

最近のポケモンらしいので俺は知らないんだがヒバニーというポケモンがいるらしく、しかしそのヒバニーというのは和名で、海外に英語コンテンツとして出荷される際にはスクローバニー?という洋名で説明されるらしく、家で英語版アニメを見てそれに習ってスクローバニーという息子は、他所のお子さんに「スクローバニーじゃないよ、ヒバニーだよ」と嗜められたそうな。

息子はやはりこの出来事が承伏でき兼ねる様相だったらしく、少し不機嫌そうにその顛末を我々両親に語った。なんなら、明日にはヒバニーはスクローバニーでもあるということを改めて向こう様に伝えたいということまで話してきた。

俺は、言葉を選びながら息子と話した。

日本語しか話せない幼稚園のお友達とお前は仲良くできるか?できるよなぁ、お前は日本語が話せるものなぁ。

英語しか話せないお友達が目の前に現れた時、日本語しか話せない幼稚園のお友達は仲良くなれるかなぁ?ちょっとわからないな、だって、日本語と英語は違うんだから。

お前はどうかな?英語しか話せないお友達が目の前にいた時に仲良くなれるかな?仲良くなれるかもしれないよ、だってお前は英語でお話ができるんだから。

英語を話すお友達と日本語を話すお友達がいるところにお前もいたらどうかな?お前は日本語も話せるし、英語も頑張って話している。

お前は英語しか話せないお友達の気持ちを日本語しか話せないお友達に伝えてあげることができるし、日本語しか話せないお友達の気持ちを英語しか話せないお友達に伝えてあげることができる。

そうしたらみんなお友達になれるかもしれない。お前がいたら、みんながお友達になれるかもしれない。

お前は英語が得意なのが自慢だけど、それは英語を話す人と話すためのものだ。英語が話せない人に英語が話せることを自慢するためのものではない。お前が二つの言葉を話せることで、もっとたくさんの友達を作れるし、そうしたらもっとたくさんの人たちがお前がいることで友達になれるかもしれないよ。

だから、日本語しか話せない人には日本語で話せ。英語しか話せない人に出会った時はお前の出番だ。自分が話せる英語を話せない人には英語を教えようとせずに日本語で話せ、だってお前は日本語も話せるんだから。

 

そんな話をしながら、難しい話を聞かされて疲れ果てて寝惚けまなこになっている息子を見て、俺は何一つすべてを繕って天を仰いだ。俺にできなかったことを息子に求めている俺に気づいてしまったからだ。

人間は分かり合えないし、分かり合えなかった時はいつだってそれっきりだ。そんなことは分かりきっている。バベルの塔がぐんぐんと聳え立っていって、そのうちに瓦解することを俺はとうの昔に知っている。

そのうえでなお、俺はなお、こんな綺麗事を息子に浴びせかけている。罪深いなと考える。

いつか、俺が、どこそこの外国人に「どこでどう生きて今ここにいようと同じ人間さ、今日ここで会ったことは本当に素晴らしいことだ、俺もあんたもみんな素晴らしい、あなたが大好きだ、会えて嬉しい、これを素敵な出会いにしたい」と伝えたくなくなった時に、ただ日本語をくっちゃべって頭を下げる俺の横で、俺の息子が通訳してくれたら嬉しいだろうなと思うのであった。

 

以上です。