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京都宇治観光感想文(1年ぶり2回目)

▼前回はこちら。

▼前回も大層良い町だと感じたが、また足を運び再確認した。やはり宇治はいい。すごくいい。ぶっちゃけリモートワークみたいな働き方ができるなら今すぐにでも住みたいくらいだ。何がどうというわけでもないんだが、毎日でも散歩できるような、そういう良さがある。宇治川の輝く水面がそう思わせるのだろうか、太陽ひとつ取ってみてもただ闇雲に照りつけるんじゃなしに、この町をより魅力的に見せようと一役買って出てやろうと意気込んでるような、そんな風にも見えてくる。空は高く、風は頬を撫でて、緑は揺れて、なんだか何もかもがいちいちわざとらしくやわらかい。ただし住んでるのは所詮京都人なので大概感じ悪い。しかし、それも些細な問題だと思えるほどに、宇治はいい。

▼まず黄檗という駅で降りて評判のパン屋に向かった。

▼おお、一介のパン屋がブクマ14もついてる(2016年6月17日段階)。本当に有名なんだな。このお店の二重ドアの間のスペースに空調がないことは既に別のエントリで述べた通りである。これを読んでいる方の中には、なぜこのようなそれらしいのどかな日記且つ紛いなりにも観光の参考になるやもしれぬお役立ち情報を多少なり含むエントリを差し置いておっちゃんの一言に延々難癖をつけているだけの糞記事なんかを優先して書くのだと思われるかもしれないが、これはもう仕方がない。今回なんて言うてもこうしてちゃんとした備忘録も書いとこうって気が向いたからまだマシで、以前に一泊二日で伊勢に行った時なんか変なおっさんがいた話書いてそれっきりだからね。もう今更治りっこないのである。

▼30分ほど並んで見事パンを買い遂せた後はいい感じの野っ原を探してそこでパンをもぐもぐとした。パンは嫁さん曰くものすごくおいしいとのことであった。僕はあまりパンが好きではなく、というか、パンに多くを求めないタイプで、腹を膨らませる間に合わせで食べるもの以上にパンのことを気にかけたことがない。ので普通においしかったけどそれ以上のことはよくわからなかった。200円だかする菓子パンを3つほど平らげたが、僕はこういう時ただ「パンよりもびっくりドンキーの方がおいしいな」と考えるのが常である。これはもう仕方がない。今更治りっこないのである。一方専らのパン好きである嫁は大絶賛していたので、そうかおいしいんだなと思った。パンの味の良し悪しは嫁がジャッジするので僕はお日様がぽかぽかなことなどを考えながら呑気にぱくつけばいいのだ。それがズイショ家の役割分担である。嫁さんが満足そうなのでわざわざ並んだ甲斐があってよかった。

▼それで黄檗での用事は一旦これだけだったので駅に向かっててくてく歩いていると、このパン屋は最近移転したばかりであったようでたまたま旧店舗の前を通りかかった。旧店舗のすぐ横にはいかにもこじんまりとした昔ながらの個人商店があり、特に買いたいものもなかったので立ち寄ることもなかったが、ここにあのパン屋があった時はパンを買うついでにここでパンを食べながら飲もうとリボンシトロンやスコールを買っていくお客さんもたくさんいたんだろうななどと想像した。そういういかにもリボンシトロンやスコールを売ってそうな商店だったのである。

▼ひと駅乗って三室戸寺へ向かう。あじさいの名所だそうで、ちょうど見頃であった。

三室戸寺 : あじさい園

▼別にいいんだけど、はてなブログはリンク先によってカードが使えたり使えなかったりで若干気持ち悪い。ズイショさんいい加減な性格に見えてこういうの結構気になるタイプなのだ。むしろ気にし始めると生活に支障が出るレベルで病的に気にするので日頃は極力何でもいい加減に考えるよう心がけているのである。

▼ズイショ家のデートは神社仏閣に出向くことが非常に多いのだがその中で得た知見として、神社仏閣は商売っ気丸出しのところの方がなんだかんだ面白い。厳かさなどももちろん加点になるのだが単純に儲かってんな金かけてんなと思わせるところの方が何かと見どころがあって楽しませてくれる。儲かってんのにはなんだかんだそれなりの理由があるわけだ。なので初めて訪れた土地で神社仏閣を巡るのであればホームページがしっかりしてるところを狙った方がいい。歯医者を探す時と同じである。ただし歯医者の場合はインプラントをゴリゴリに推してるところはガチの拝金主義なので信用してはならないみたいな偏見が俺の中にある。

▼しっぽを撫でるとご利益があるという蛇の石像やそれと類似したコンセプトの兎の石像やら牛の石像などがあった。みんなご利益欲しさに(遊ぶ金欲しさみたいに言うな)わしゃわしゃと群がっては撫で回しており、僕はだいぶ以前に亡くなった飼い犬が生前親戚の家に行くと小さな従兄弟たちに構われすぎて疲れてグッタリしていたのを思い出した。石像にはそういうことがないので心置きなく撫で回すことができる。これらの石像がいつ頃に作られたのかは知らないが一体これまでどれだけの人に撫で回されてきたのであろう、触れるとご利益があるとされる部分は他の部分に比べて色味が黒みがかっており艶やかな光沢も見受けられる。毎日毎日撫でられ続けていれば当然そうなるわけだ。僕はこういうの見ると割りにぐっと来る。この場所は今僕が訪れたこの瞬間だけではなく、ここはずっとそういう場所でこれからもずっとそういう場所なのだという当たり前のことにぐっと来る。観光客が帰ったらiPadをいじり出す裸族なんかとは違って、この場所はいつだって、片時も嘘偽りなくずっと、そういう場所で在り続けてきたのだ。由緒ある土地でこのような長きに渡る人の往来の痕跡を見るにつけ、僕はいつもそういうことを考えてしまう。そういうことを思えばこそ、吊革触りたくないのと同じ理論で俺は石像には触らないのであった。

▼境内の片隅には大きな鐘があって、参拝客が衝いて鳴らせるようになっているのでずっとゴンゴン言っていてまた風情があって良い。せっかくだし我々も一つ衝いておくかと列に並んだが、よく見ると一衝き100円だった。1000円払ったら16ビートで10回衝いていいのかなぁと考えたがたくさんの人が並んでいたのでそんなことしたら連コイン感覚でしばかれるのかもしれないとも思った。鐘は衝いたら鳴った。

▼そんな感じで境内を一通りぐるりとするといよいよあじさい庭園である。あじさいは事前に聞いていた通りたくさん咲いていた。僕はアホなので「たくさんだぞ」と言われるとかなりたくさんあることを想像するし「でかいぞ」と言われるとかなりでかいのだろうと想像するため、実際を見ても大体「まぁ想像通りだな」みたいな感想で終わってしまう。これまでで僕の想像を上回ったものと言えば想像よりもたくさん鳥居があった伏見稲荷大社と、想像よりもでかかった奈良の大仏くらいのものだ。

▼とは言っても実際には別につまらぬケチをつけて白けるでもなあじさい庭園もそこそこに楽しむことができた。まぁ俺はあまり花を愛でる味わいみたいなものをあまり解さない男ではあるのであくまでそこそこではあるものの、嫁は元来から花を愛する女であじさいは中でも割りに好む花だそうで随分満足気だったので何よりだった。あじさいはこれまであまりしっかりと眺めたことがなく、俺はそういう時なんでも「たぶん北海道にはなかったのだろう」と考えて片付けるのだが俺に興味がなかったから記憶にないだけで流石にあじさいくらい北海道にだってあるだろうという気もする。今の私に真実を明らかにすべくちゃちゃっとググる意思は毛頭ないので、誰かググった人がいたらツイッターか何かで教えてください。それで、初めて見たあじさいであったが(初めてって言い切った)、色合いは豊かでなかなか良かった。何より香りがあまりしないのがいやに鼻が利くせいで花のあるところに行くといつも泣かされる自分にはありがたかった。

三室戸寺を後にした我々はそこから更に電車でひと駅下り、終点宇治に到着した。改札を出たすぐのところで大学生だかなんだかが簡易机の上に紙コップを並べ何かしらのアンケートをへの強力を募っていた。聞けば軟水と硬水の飲み比べをして欲しいとのことだった。宇治は水のおいしさも売りのようである。紙コップを二つ渡され飲み比べるとなるほど宇治の軟水の方が喉を通った後の口の中が気持ちまろやかで口当たりが良い。さすが改札出た直後でいきなり猛アピールしてくるだけのことはある。俺はパンの味はわからないがこれで結構味の良し悪しがわかる男なのだ、というのは本人の弁であるが、以前嫁と二人で誰それが勧めていたので試しに遊んでみたお茶の当てっこでは自信満々に答えて絶対満点パーフェクトだと思ったら全部外れていた。話を戻すと、飲み比べた紙コップの中身は正確には水ではなく軟水硬水それぞれで作った抹茶だったのだが、これからせっかくうまいお茶を飲みに行くんだから水でよかったのに~と思った。

▼京阪宇治線はこの宇治を舞台にした吹奏楽部を題材にしたアニメ『響け!ユーフォニアム』と絶賛コラボ中であり、僕は作品そのものやストーリー・世界観に感銘を受けることはあってもキャラクターに入れあげることは元来あまりない質なのだけれども、このアニメの主人公・黄前久美子ちゃんだけは自分でも意味がわからないくらい大好きでかわいすぎてやばいんですが宇治駅改札出てすぐのところにある黄前ちゃんの(ほぼ)等身大パネルをまじまじと見るのを忘れてしまった。軟水硬水の人たちに気を取られてすっかり失念してしまっていたのだ。3分はまじまじと見ていられるほど熱を上げているので結果的には忘れてよかったのかもしれない。

▼前回立ち寄った蕎麦屋で今回も昼食を摂る予定であったが我々が到着した12時半時点で店頭で順番を待っているお客さんのぶんを除き、既に麺が尽きて終わってしまっていた。前回は平日に来ていたためそんなりありつけていたが、土日に来てみればやはりそれだけ人気のお店なのである。次はもっと早い時間に来るか平日を使って訪れようと思う。ここのそばは兎角絶品で僕は食べ終わって店を出たあとも15分くらい「うまかったうまかった」と騒ぎ続けていたほどである。ちなみにそばはズイショさんの「いちばんすきなたべもの」です。当然会計を済ます際にも店員の人に「ごちそうさまです!すごいおいしかったです!」と興奮気味に伝えたが、「お前に言われんでもうちのそばがおいしいことくらいわかってるわ」と言わんばかりのうすいリアクションだったので「あ、そういえばここ京都だったわ」と思い出したものである。それでも俺は次行った時も塩対応しか返ってこないとわかっていても元気よくおいしかったを伝えることでしょう。つまり、それくらい、美ん味い。

▼しかたがないのでパン食ってそこまで腹が空いているでもなし、構いやしないやと食事のことは置いて、これまた前回も世話になっているお茶の老舗かんばやしへ。

▼前回ここで生まれて初めてガチの抹茶というものを口にしてその素晴らしさに感動して後日、家でも茶を点てられるよう入門セットを買ったほどである。その後しばらく茶を点てるのブームは続いたがぶっちゃけ手間暇がかかるのでその頻度は月日と共に落ちていき今ではすっかり最後に立てたのいつだっけという人類の営みの75%は大体そういう結末に落ち着くよねという有様となっていた。そういうわけなので初心に帰る意味も含めてまたこうして立ち寄ったわけである。それで飲むわけだけど、もちろんお抹茶自体も家で使ってるのより上等なやつではあるんだろうけど、もう全然違うのね。俺が家で自分で点てて飲んでたのとは全く別の飲み物って感じ。はぁ、そりゃ飽きますわあって感じ。だってこれに感銘を受けてこれを飲みたくて始めたんだから、これには全然及ばない大したことない茶ばっか自分で点てて飲んでりゃそりゃモチベーション保てませんよ。そういうわけで学んだのは何かに継続的に取り組むには理想とするイメージを常に持ち続けることだよね、時にそれは一人で維持するには難しかったりするから外部から与えられる刺激という形でもいいから、忘れかけたらどうにかして再確認するってことだよね。まぁ別に毎回ここじゃなくてもちゃんとしたお店でちゃんと点てられた茶を飲むってのが、家で茶を点て続けるための一番に手っ取り早い方法なのだろう。あとはやっぱ一回茶の体験教室みたいなの行った方がいいな。今、YouTubeのみを拠り所に茶ぁ点ててるからな。ガス使う刀鍛冶くらい信用できない。

▼ここで再び黄檗へと舞い戻る。次に向かうのは黄檗萬福寺禅宗のお寺である。

▼ここに来た目的はこれまた嫁の希望である座禅体験である。それで、このままその感想を書いても別によかったのだけれど、書こうと思えば結構書くことがありそうなのと、これじゃない文体で書いた方が面白く書けるような気がするのでこのエントリでは割愛する。

▼座禅体験以外の話で言うと、萬福寺は総本山というだけあって、結構広いお寺だったのだけど、ここは仏像が色々あって禅宗のお寺の傾向なのだろうか、あまり仏像に馴染みのない人が想像するようないかにもな仏像を考えて訪れてしまったら面食らうようなコミカルでファンキーなキャラデザの仏像が目白押しでとてもおもしろかった。仏像は色々観に行ってるけど、ここに限らず実は結構砕けてるようなお前これ面白いと思って作ってんだろと言いたくなるような仏像というのはたくさんあって、考えてみればアメコミも少年ジャンプもない時代に作られてる奴らである。現代において我々がアメコミやジャンプに求めているようなエンタメ性を仏像が引き受けていたとしてもそれは真っこと自然なことであるわけだ。そういう面白みがあるなら興味があるが、どこ行ったらいいかよくわからんという人には、今回は行ってないけど同じく宇治にある平等院鳳凰堂か、京都にある三十三間堂あたりをオススメしたい。

▼座禅体験を終えた我々は、あとは歩いて駅まで戻り電車に揺られて帰路に着くわけだが、この黄檗という町は、びゅんびゅんとツバメが飛び交う町だった。至るところで巣が作られているのを見かける。これまでもどこか訪れた先の土地でツバメを目にすることはないでもなかったが、これほど多くのツバメたちが在る町というのは初めてのような気がする。これは本当に北海道ではツバメなんか見たことなかった気がする。そうだ、僕はこれを見て「ああ、いいところだなぁ」と思ったのだった。こんなところで暮らしてみたいなぁと思ったのだ。巣を拵えるツバメを見つけては、初夏の到来を実感する。そんな生活をしている人も世の中にはいるのだなぁということを知った僕は、なんだかそれがとても贅沢なことに思えて羨ましく感じてしまったのだった。

▼いつも外に出かける時はこんな調子で、嫁が行きたいところを見つけてきては僕はただそこについていく。放っておくと何日だってテレビとパソコンの前から動かないでいられる男である。しかし外に出ればそれなりに何かを感じて何かを思うことができる。ついてくる度に僕は「へ~そうなんだぁ、感じたり思ったりするんだ~」と自分に感心している。たまには自分に感心してみるのも大事なことなので、だからたまには出掛けてみるのがいいのだろう。しかし僕は一人で出掛けるのはどうしても苦手で億劫で、いざ歩いてみても一人では何を見てもなんてことなく見えてしまうのでそういう意味では一緒に歩く人がいるということには随分助かっている。帰り、他の用事もあって立ち寄ったショッピングモールで、嫁はどこで覚えたのかは知らないが「楽しかった一日の終わりにピアスを買うとそれをつける度に楽しかったことを思い出せる」と言ってピアスを買っていた。

▼あとなんかこういう文体で綴ってるとあたかも僕が寡黙な穏やかな表情で見知らぬ町の空気を肌で感じながら思索に耽って歩く叙情豊かなナイスガイであるように見えるかもしれないが道中嫁を笑わせようと四六時中間断なく喋っているし油断すると歌ったりもする。以上です。