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20161117

顔見知りでも自分が一方的に知っている人でもいいのだけれど、「自分より少し先を歩いていってくれることがどれほど頼もしいことか」って感覚を覚える「少し年上の人」っていうカテゴリ枠がきっと誰しもの人生のなかに存在してるみたいなことを日頃ぼんやりと思っていて、僕にもそういう人がたくさんいるしみんなにもきっとそういう人がいるのだろうと思っていて、ただでさえ生きてるだけでも十分すぎるほどかったりいのにそのうえ加齢も待ったなしっていう踏んだり蹴ったりのベリーハードモードの世界にGOD's CHILDも僕も和田アキ子も堕とされた。もしもこれがチュートリアル的なイージーモードだったら寿命は同じだけど体力も肌の張りも死ぬ直前まで全盛期のままで、残りHP5でステータス画面が真っ黄っ黄になっても元気に飛び膝蹴りを繰り出すハッサンみたいにきっと楽しくやれたのに、現実を生きる僕らはどうしたって老いて朽ちていく。羊水のなかで過ごした十月十日、僕はセレクトボタンを連打し続けたのに、僕が生きるのは老いシステム搭載のベリーハードモードであるという宿命はついぞ動かなかった。だから僕には「少し年上の人」が必要で、30歳もなかなか悪くないぜと宣う人が、不惑と言ってもまだまだこれからだぜと言ってのける人が、60歳も案外捨てたもんじゃないぜと言ってくれる人が、僕の生きるその瞬間瞬間にいてくれればいてくれるだけ困らない。じゃあもう少しだけ生きてみようかなの繰り返しの果てに終わってみれば悪くない人生が待っていると僕は信じていたくって、そう思わせてくれる人を見るにつけ、僕も人にそう思わせる歳の取り方をしたいもんだなと思ううち、とうとう僕は僕だけで完結して僕でいることができなくなってしまった。僕の前を歩く人がいて、僕の後ろを歩く人がいて、そんな彼らなしに僕がまっすぐ立っていた時がおぎゃーと叫んでから向こうこっち、果たして一瞬だってあっただろうか。いつからかそう考えてしまうようになったから、どうしたって人の死は堪える。会ったことがあるとかないとか関係なく、足元が思いの外ぐらつく。きっと多くの人にとってそんな存在であったろう人の訃報を耳にして、なんかそんなことを改めて考え込んでしまった。それでどうしても落ち着かなくて書いた。勝手なことを言えば、あなたと一緒にもっと歳を取りたかった。ご冥福をお祈りします。以上です。