性的多様性についてもっともらしい理屈(多くは整合性が取れていません)を用いるのではなく、単純に「生理的にダメ」「気持ちが整理できない」と言えば良いと思いますし、それは別に責められるべきものではありません。
— 熊谷俊人(千葉市長) (@kumagai_chiba) 2016年11月11日
私はそんな発言が無くなる社会を望む側ですが、多くの日本人にとって性的多様性の議論は始まったばかりです。社会・人はそんなに急激には変われません。特に愛という最も根源的な感情に関するものであれば尚更です。今の時点で嫌悪感の表明すら認めないのでは、却って相互理解を阻害すると私は考えます https://t.co/wkdpyVP5Lj
— 熊谷俊人(千葉市長) (@kumagai_chiba) 2016年11月11日
今から出かけるので手短です。
僕はこの市長の態度を支持する。あと、この市長のアイコン、構図の問題なのかわからないけど、見てるといつもエヴァ初号機を思い出す。
「生理的にダメ」が即アウトとはならずに一旦発言したことそれ自体は許容される世界というのは「生理的にダメ」という主張がそのまま正当化されず暴力としても機能しない世界だと思う。「生理的にダメ」という発言が許容できない世界というのは「生理的にダメ」という発言が場に圧倒的でクリティカルな影響を及ぼしてしまうと考えるからこそ許容できないのだろう。結局「生理的にダメ」が当事者にとっては一大事でも、社会的に見たときに大したのない「たまにいるんだよねそういう人」で済む話であるなら、きっとそんなに目くじら立てる必要もないのだ。
であれば、その程度の主観的な発言が個人から出たところで大勢になんら影響のないしっかりとした議論の場、というか、そういう議論をどこでもできるような下地を作っていきましょうよ。というのが紫色の市長の考えているところなのかな、と僕は想像した。
そこで排除しなくてはならないと考えるしかできないのは、現状の議論の下地がそれだけ未成熟で脆弱、あるいはそこらへんはクリアしているのだが十分に浸透していないということなのだと思う。もちろん、そのような状況を形成する義務がマイノリティの側にあるわけでなし、みんなでやっていかなくてはならんことなので、誰の努力不足を咎めたいとかはない。
ただ「こんなこと言うやつをテーブルに座らせるわけにはいかない」という現状だとまだまだ先は長いよね、という話だと思う。そういう主張をするなと黙らせたところで、そのような発言を是として暴力として行使することすら肯定する別テーブルが出来上がるだけだ。全員を許容できて全員が座れるテーブルを作っていく必要があるよね、って話だと思った。もちろんそれは「生理的にダメ」という立場そのものを許容するのではなく「そういう人はあなただけじゃなく他にもたまにいるのだけれどね」とみんなで説得できるようなテーブルである。
「現状、許容することは難しい」という話であれば、それは僕ももっともだと思う。ただ、今後も排除し続けるべきだ、ただ粛々と排除していけば良いという態度は、それこそが議論の放棄であり「自分がよけりゃそれで良い」という態度にほかならず、そのような態度は別の勢力の「自分がよけりゃそれで良い」という態度にそのうちしてやられてしまうのではないかと危惧する。
「漸進」という言葉を大事にしたい。ステップバイステップで考えたい。今、目の前から汚いものを即座に見えなくしてしまいたいという考えの先にあるのは、汚いものが絶えず発生し続ける世界で、汚いものがあんまり発生しない世界ではないと思う。以上です。