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俺が男として生きる辛さ

これ読んだ。

俺による要約は俺の目から見た要約なのでまぁみんな読んでって感じなんだけど、このタイトルにある「男が男として生きる辛さ」の根源は「男は選ぶ側なので選ばれる側に慣れていない」かららしい*1。俺はそれを見て「今まで胡座に慣れてきたので今更正座なんてできないので男は辛い」みたいな話なのかなと受け取った。そして「は?」と思ったのであった。

僕自身、足の付け根に男だけの飲み会で突然披露するとウケるナニを持ってるので、たぶん分類的には男なのだけど、そりゃあ「男として生きる辛さ」みたいなのって生きててある。思えば小学生の頃から足が速い男子ばかりモテてたことに足が遅い僕は歯がゆい思いをしたしもっと言えばそのモテたいという意識自体もよくよく考えるにずいぶん生きにくい。僕は顔がシュッとしていて脚が速そうでバスケ部じゃないのにレイアップシュートとか普通に決めれそうな顔をしていたので会話の中で実は運動は苦手なんですよと言うと「すごく意外ですね」と当たり前に言われたし、それに対して「そうでしょう、意外性のあるプレイはできないんですけど、意外性自体はあるんです」と返す私は無理をしていた、は言い過ぎかもしれないけれど、そんなにニュートラルな穏やかな気持ちではなかった。何より顔とか関係なく女の子は運動ができるのが意外だったが、男の場合は運動ができないことを意外とするのが当時の一般だったと僕の頭のなかではそういうことになっている。

手垢のついた言葉で「他人を変えることはできないが自分を変えることはできる」みたいなやつがある。あまりに手垢まみれなので舐めるのだって憚られるのだが、そのとおりだと思うので僕はこの言葉を口と舌と喉に通して臓腑に飲み込むより仕方ない。あなたの眺める世界はあなたの目玉から見える世界で、私の眺める世界は私の目玉から見える世界で、一生あなたと私が同じ景色を見ることはない。そのことはとても悲しいことではあるけど、他人を変えることはできないが自分を変えることはできる。ならば自分の目玉を取り替えることで世界は変わる。あなたも変わる。あなたと私の距離も変わる。少なくとも私にとっては。あなたと私が同じ景色を見ることはついぞできずに別れの瞬間が来てしまうのかもしれないが、私は私の目玉を取り替えることで、きっとあなたに近づくことができる。そう考える私にとって「男は選ぶ側なので選ばれる側に慣れていない」だから男は辛いだなんて話はどうにも納得がいかない。目玉を取り替えることができないのは男の上に胡座をかいて目玉を取り替えないあなたの問題で、男の問題ではないはずだ。「お前みたいな男らしくない男は男ではない」じゃなくて「男に生まれた咎は俺もお前も抱えているが、お前の言ってるそれについては男の咎ではなくお前の問題なのではないか」ということだ。

繰り返すに、男が男として生きる辛さってのはある。というか、俺の意思に関係なく、俺が男として生きようと思おうと思うまいと私は男と見做されて生きていくので、社会のなかで生きていきたい私はどうにも男に擬態せざるをえない。それはまぁホモソーシャルな男しかいない場所で下品な話に話を合わせたりとか、そういうのももちろんあるけれども、それ以上に、男であるというだけで男として立てられてしまうことがあるのだから、そこで向こうが好きでもなんでもない俺なんかでもまぁ仕方ないし立ててやってもいいかなと思ってもらえる程度には頑張らなくちゃならない、だとかそういうことはもちろんある。できない時は先述のとおりよくわからないごまかし方をして、気の毒に思うのも思われるのもだってみんな辛いから、そういうごまかし方をすることも男らしくできる時ばかりじゃないからするけれど、そういうことを辛いなと思うことはしょっちゅうだ。

そういう辛さなら分かるけど、でもやっぱ「選ぶ側の根性が染み付いてるから辛い」って言われると全然納得いかねえなぁ。でもやっぱっていうか、僕はそういう風にやってるんで、いわゆる男の側を演じることはあっても、俺は男だしとか男はこう扱われるべきだしなんて思ってやってねえし。人にビールを注ぐ時にラベルを上にしなくちゃならないみたいな窮屈さはあるけどね、自分もラベルを上にしてビールを注がれたいって思ってしまうことをどこまで他人や環境のせいにしていいものなのか僕にはよくわからないや。

件の文章は「僕は男の弱さに向き合う機会があったからわかったよ、でもそういう機会がない人もいるからそういう人たちの大変さもあるんだなって思うよ」って感じで書いてるんだと思いますが、男の弱さに向き合う機会なんていくらでもあったはずさ。ただ、それと同じくらい目を背ける言い訳も男にはたくさんあったんだろうなと思う。俺だってそういう言い訳使ったことなんて過去を振り返れば絶対あるわけで、ただそれを正当化したくはないな。また、「そういう人たちもいる」って言って「私はもうそういう人ではない」とかも言いたくないな。いつまたそういうことをするか分からないって思いながらやってきたいな、と思う。男という属性に属して自分を預けたくないように「そういう人たちではない」という属性にも属したくないし、っていうかどこにも属したくないし俺はゾフィーだ。シュワッ!

まぁここまですでにぐちゃぐちゃなのでテキトーにポエミーにまとめますけど、これ今回、男に文句言ってますけど、別に今回男に文句言ってるけど女にも文句言うし、それはもう性別とか関係なく、自分は性別に喋らされてる被害者だみたいな感じのやつには全部文句言うし、俺だよ。俺は、ただ俺になりたいだけなんだよ。ただそこには性別みたいなのがどうにもある。他にも年上とか年下とか肌の色とか色々あるんだけど、何にせよ性別はある。俺は俺の男という性別に行動を制限されたり支配されたりなんてことはないよあって堪るかと高楊枝に努めたいけれど、社会か神かは男と女を分けて、俺は男として生きるより仕方なくなった。本当はただあなたと会いたかった。男とか女とか関係なく、ただふつうにあなたと出会い、あなたが好きだとか嫌いだとか言いたかった。それができないこの世界をものすごく歯がゆく思う。ままならないなと思う。

ああそうか、冒頭の記事で言ってる男の辛さとか生きにくさと、俺の歯がゆさままならさは違うぞって、それを言いたくて俺は、こんな文章をキャンパスノートに鉛筆で殴り書き、それを筆ペンで清書したのをiPhoneで撮ってアップしようとしたけど文字が滲んでるので読みにくいなと思い、パソコンを立ち上げメモ帳に書き上げ、ランサーズに文章構成を頼み、こうしてブログにアップしようと思ったのだな。以上です。

*1:いやちゃんと読めよ、根源は「マジョリティゆえの弱さを見つめる機会の少なさ」だろ、読めば分かるだろうが。と言われるだろうが、せめて「マジョリティという立場を笠に着て自分の弱さから目を背けられる機会の多さ」とか書いてくれればよかったのになぁと思う。