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「私たちは複雑さに耐えて生きていかなければならない」

 自分が未だ小学一年生だった頃の時分、近所になんとかのおばちゃんと呼んでいた僕にとても良くしてくれた貴婦人があった。何がキッカケかは覚えてもいないが、当時の僕にとってそのなんとかのおばちゃんの家に遊びに行くのはとても自然なことで、行くとなんとかのおばちゃんの家にはおもちゃがたくさんあって、好きに遊んでいいとおばちゃんに言われたし、だから好きに遊んでいた。もう必要ないから貰ってくれて良いと言われ、お中元お歳暮で送るような菓子を詰める缶箱にいっぱいのキン肉マン消しゴムSDガンダム消しゴムとか、缶箱いっぱいのビックリマンシールとかをもらったりもした。どちらも僕と同級生との間ではそんなに流行っていた気もしないので、僕はそれを友達に自慢することもなく、一人で、家で、大切に遊んでいた。僕より少しかよっぽどか上の年齢の子供のブームだったのだろうと思う。今になって思えば、なんとかのおばちゃんは、子供が大学に入るだか高校卒業を機に上京するだかで、一人だったのかもしれない。最悪、事故か何かで子供を亡くしてたって驚かない。今となってはよくわからんが、おばちゃんは、ある意味では過剰に、僕を可愛がって構ってやってくれた。

 ある時、おばちゃんが僕にルービックキューブをくれた。もう遊ぶ人はいないから、もらって欲しいと言われた。それは別に感傷的な言葉ではなくって、おばちゃんが僕に何かをくれる時はいつだってそう言う。色を揃えて遊ぶものだから頑張ってみてくれとも言われた。なので僕は頑張った。本当なら説明書とかには組み立てるセオリーとか書いているのだろうか。今の僕はそのセオリーをネットで調べることができる。それを見ながらルービックキューブを完成させることができる。しかし、当時はそんなこと出来やしなかった。当時の僕は小学一年生の子供なりに頭を悩ませ四苦八苦したが、ルービックキューブを揃えることはどれだけ頭を抱えても終ぞどうにもならなかった。やがて僕は名案を思いついた。シールを剥がして貼り替えてやれば良い。そうすれば、色を六面揃えてやることができる。そして僕はそれを早速実行に移した。顛末を言えば僕は熱心にシールを剥がし剥がししているところを母親に見つかり、そして僕はこっぴどく怒られた。なんとかのおばちゃんの家に母親と謝りに行く運びとなった。おばちゃんはいいよいいよと笑って言ってくれたが母親はすいませんと頭を下げていた。母の口から「弁償」という言葉が出て、なんとかのおばちゃんは「そんなのいいから」と言っていた。その時に僕は初めて、ただ僕は色を揃えてやりたいと思っていただけなのだけど、僕はあのルービックキューブを【壊してしまった】のだと、思い知った。今になって思えば、キン消しだってビックリマンシールだって、もらった量を考えると1万円を優に超えてたはずなのだけど、ルービックキューブが当時どういう値段で売られてどういう位置づけのオモチャだったのかはよくわからない。母はルービックキューブの件で過去最高に詫びを入れていた。

 ともあれ、僕はそうして、色を揃えたいその一心で、ルービックキューブを壊した。取り返しのつかないことをしてしまったのだった。良かれと思ってやったことが、全く的はずれな真逆の行為だった。そういうことって生きててたまにある。そういうことの初めてって誰しもにあるのだろうか。僕にとってのそれは、このように記憶されている。僕の記憶の最古の、「あんなことするんじゃなかった」だ。

  掲題の言葉、「私たちは複雑さに耐えて生きていかなければならない」、これは、僕の言葉ではない。これは日本という国のなんかすごく偉くて立派な尊い人、皇后美智子様の言葉であるそうだ。俺も何回かその人テレビで見たことがある。たぶんきっと偉い人なのだろう。そんな人の言葉を引いた誰だかの論評だかを、僕に教えてくれた人がいる。僕が先日書いたエントリのブコメに、知らん誰かがそんな論評だかなんだかを残してくれた。そんなものを相手にするのならば、お前口裂け女も信じろよ、と自分に思うところも残るが、ともあれ僕はこの言葉に出会った。

「私たちは複雑さに耐えて生きていかなければならない」

引用元:http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~nadamoto/work/20020130.htm

  私たちは複雑さに耐えて生きていかなければならない。僕はこの言葉を目にした瞬間、泣きたくなった。僕が、こうありたいと思うのは、まさしくそういうことであった。態度で示すしかないと思っていたことが、言葉として自分の目の前に現れることは、なんとこうも頼もしい。私たちは複雑さに耐えて生きていかなければならない。本当にそう思う。ルービックキューブのシールを剥がしたあの時の私は、たしかに複雑さに音を上げたのだ。

 時計の針が間違った時間を指している。そんな時、今の時間を指すように針を指で摘み問答無用に回し上げることははっきり言って容易だ。12時のところまで針をねじ伏せれば、針は12時を指すだろう。しかし果たして、今から24時間後、その針が今とおなじように12時を指しているかどうかは、甚だ疑問だ。

 私たちは複雑さに耐えて生きていかなければならない。

 今この瞬間、目の前の、時計の針を直すのは簡単だ、ただその針を摘んで回してやればいい。それだけでいい。お前はいつまでそれができる。どこでできる。この世界にはどれだけの時計がある。この世界はどれだけの時計に支えられている。どこにあろうとも同じ時刻を示す時計に、我々はどれだけ助けられてきただろう。それを差し置いて、ただ漠然と、今目の前にある的外れの時刻を指す時計の針を、ただ漠然と自分の腕に巻いた時計が指し示す時刻と同じに回して、それで満足して一体何になる。24時間後、どうなっているのかそこには何の保証もない。一日に一度ズレた時刻を矯正しに参って、針をグニャグニャにするまでそうしているつもりなのだろうか。あなたの腕に巻かれた時計の時刻が正しい保証なんて誰にだってできないのに。

 複雑さに耐えて生きる。

 その言葉を聞いて僕が思うのはそんな話だ。僕は、いつだって針に触りたくない。その細部に思いを馳せたい。その全てがわかれば、全てがうまくいくはずだ。最適が見つかるはずだ。ただそう思っている。分解して、歯車をひとつひとつ何のための歯車かを吟味して、ただその果てに何かがあるはずだと信じている。私たちは複雑さに耐えて生きていかなければならない。安易なわかりやすさに飛びついてはならない。その先には何もない。だってわかりやすい世界はもうそれだけで虚構なのだから。現実はややこしい。

 現実に生きなければ現実は変えられない。だから私たちは複雑さに耐えて生きていかなければならない。そのための手段とか武器とかは私にはまだわからない。ただ、生きねばならない。簡単じゃなさを受け入れ、簡単さを突っぱね、そして生きるより仕方ない。手段と武器はわからない。誠実さか、合理性か、はたまたユーモアとか、馬鹿だとか、冷酷さか。少なくともギャグではないだろう。何せこんなに深刻な話だ。笑いなんかきっと何の役にも立たないだろう。それでも、何かを探さなくてはならない。複雑さに耐えるためには、きっとその何かが必要だ。ギャグなんか糞の役にも立たないものなんざなくなってしまえ。ただ、明日を良く生きるために必要なそれを探そう。それはそこにある複雑さを我が事として嚥下して、そして消化するのに必要な能力だ。それがなくては僕らはきっと、複雑さにそういつまでも耐えられない。僕にはそれが何かまるでわからず心苦しいけれど、僕はその存在と、複雑さに耐える人の心をただ頑なに想像し続けたい。

 では最後に、全然関係ないけどルービックキューブで思い出した好きなGIF動画を貼ります。

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 以上です。