←ズイショ→

ズイショさんのブログはズイショさんの人生のズイショで更新されます!

おそ松さんを腐女子のためのアニメと思っている人向けおそ松さん推薦文

えーっと、もう3月も終わりってことでアニメとかドラマなんかも入れ替わる時期なんで「さー4月から何見よっかなー」とごそごそやっているわけですけど、人間そればっかじゃ人格に厚みが出ませんから前を見るだけではなく過去を振り返る過程も必要だなと思って、「お前はたかがアニメで何を尊大なことを言ってるんだ?」って顔で今ローランドゴリラが俺を睨みつけてるんですけどそんなわけで今日のエントリは動物園からお届けしています。獣臭さがすごいよ!

それで、何振り返ろっかなーって考えた時にやっぱ外せないのが去年の10月から始まったと思ったらアッという間に超弩級の大ブームにまで発展してる『おそ松さん』ですよ。赤塚不二夫の代表作『おそ松くん』のあの六つ子が大人になって帰ってきた!っていう、21世紀に今更そんな設定でどうやって戦うつもりなんだよっていう放送開始前に抱いてた感覚がもう俺には思い出せないくらいの大盛況ですよ。言わずもがな腐女子人気がとんでもないことになってるみたいで、うちの嫁もめでたくドハマリをキメめたのはかつてこのブログでも報告したとおりです*1。その後も嫁のおそ松さんへの情熱(以下、繰り返す予定はないけれどとりあえず「松熱」とする)は留まることを知らずファミマと連動した「対象の商品を2個買うごとにクリアファイル一枚をプレゼント」なんて企画でも6つ子のそれぞれのバージョンのクリアファイル6種をコンプリートするために俺がファミマを6件も7件もハシゴする始末で大体A5のクリアファイルなんてそんなにたくさん集めて何に使うつもりなんだよ歯医者の領収書くらいしかA5のクリアファイルに挟むような書類なんてこの世に存在しないだろどんだけ虫歯治すんだよ対象の商品のラインナップが豊富じゃないファミマが多すぎて俺がここ1ヶ月でどんだけじゃがりこめんたいバター味を食べたと思ってんだよ。じゃがりこめんたいバター味以外の対象商品がどこのファミマ行っても全然ねえんだよ。もう一生分じゃがりこめんたいバター味食べたわ。そら虫歯も増えるわ。

しかし、そんな感じで大人気の『おそ松さん』なわけですけど、周りのアニメ好きの友人なんかと話しててもったいないなと思ったのは腐女子の食いつきが良すぎて一般層からどうも敬遠されてるきらいがあるわけですね。一般層の男ね。「今までそういうBLだったりキャラ萌えだったりみたいなアニメの楽しみ方をしたことはなかったんですけど松でがっつりやられました」って女性は結構いるんですけど、男なんかだと「あー、なんか腐女子人気すごいらしいね」ってところでストッパーがかかっちゃって未視聴って奴が結構いるんですよ。まぁ、俺の観測範囲の問題って言い方はできちゃうのかもしれませんけど。

しかし、それはもったいねえなと思って。

いや、俺はそういうキャラ萌え的なアニメの見方あんまりしない方なんですけど、それでも全然面白いんですよ、『おそ松さん』。もちろん俺が信用ならないって意見もありまさあよ、何せ嫁がドハマりしてますから、この半年間ちょっとマジメな話、夫婦として共に生活を営むうえで起こるコミュニケーションエラーが増えたんじゃねえかそれリアルに『おそ松さん』に原因の一端があるんじゃねえかみたいなところありますから、嫁は嫁でカラ松のことで頭がいっぱいで生活の端々で色んなことがいつもより少しだけ疎かになってたりだとか、俺も俺で「こいつ口を開けばカラ松の話ばっかりだな」って思って些細な普段なら気にもしないようなところで少しカリカリしちゃってみたいな部分があったりとか、こんだけ一緒に暮らすうえでお互いに配慮しあう工夫を日々考える必要が出てきたのは籍入れて同棲始めて最初の一年以来だなって断言できるレベルでしたから。正直、神父も言っとけよって思ったもん、「病める時も健やかなる時も」じゃねえよ、足りねえよ、「嫁がカラ松ガールズになった時も愛することを誓いますか?」ってのも事前に言っとけっつーの。せめて心の準備させるのがお前の役割だったんじゃねえのか。まぁ、でも、夫婦の片一方が何かに熱狂的に熱中する時ってのは死ぬまで一緒にいりゃあどっかでやってくるわけで、そういう状況のひとつの現れ方のパターンが我が家の場合はたまたま『おそ松さん』だったってだけですからね、そういう時にどういう二人でいるかってのは夫婦がずっと一緒にいるうえで絶対考えなくちゃならないことなのでその機会を与えてくれた『おそ松さん』には感謝こそすれ恨む筋合いはないわけですけれども、それでもやっぱ苦労はさせられましたから。そんな僕が「面白い」って言ってるんだからきっと面白いんだって思うか、アレだろ虐待された子供はそれでも親を愛そうとしてしまうもんなんだ理論であいつ嫁が好きな『おそ松さん』を肯定しようと必死だぞって思うかは人それぞれ個々人の判断に委ねるしかないわけですけど、いや、普通に見ても普通に面白いんだって。

それでもどういうわけだかと言うかどうしてもと言うか、巷に出回ってる『おそ松さん』の魅力なんて話題は腐女子的なBL的な色彩を含んだ形で語られることが多いようで、それはもったいないなと思いましたのでそこらへんからちょっと離れて「かわいい!」とか「萌える!」とか「尊い!」とかは一旦脇に置いたうえでの俺による俺なりに思うおそ松さんの魅力っていうのを好き勝手喋らせて頂き、盛り上がってると逆に見る気が起きないんだよねそういう腐女子が好むようなアニメは苦手なんだよねなんて思ってる人の視聴のきっかけのひとつにでもなればと思い、筆を執りました次第です。ぼちぼちDVDとかブルーレイの販売とかレンタルも先日から始まったところで、ちょうど来週にはテレビ放送が最終回ってタイミングでもあるので、文字通りのお祭り騒ぎというフェイズから少しずつフラットに観賞できる状況に移行していく最中が今なのではないかとも思います。以下の文章で興味を持たれた方は是非手に取ってみてやってください。

とまぁ、もうこの時点で2500字くらい喋ってるんですけど、本題はここからです。

さて、とか言いつつも、いきなり『おそ松さん』じゃない話からスタートするわけですけど皆さん『殺し屋1』という漫画に登場する二郎・三郎というキャラクターをご存知でしょうか? こいつら暴力にモノを言わせて各地で暴れまわる武闘派ヤクザの双子なんですが、名前を見れば察しがつくとおり実は一郎という兄貴がおりました。もともとは三つ子だったんですね。しかし些細な兄弟喧嘩がエスカレートした果てに二郎と三郎は一郎を殺してしまっており、内心では残るもう一人の兄弟もいつか自分の手で殺してやろうと考えているクレイジーな連中です。彼らは事あるごとに対立しては喧嘩をおっ始めて「自分が兄弟の中で一番優れていること」を証明しようとします。無茶苦茶なキャラ設定ではありますが、そこには謎のリアリティがありまして、それは双子でなくともヤクザでなくとも血を分けた兄弟姉妹に対して抱く複雑な感情の何たるかというものを兄弟姉妹を持つ多くの人々が少なからず知っていることに起因するのではないかと僕は想像します。僕も妹が一人と弟が一人いる身分にあるわけで、幸いなことにこれといって盛大に憎しみ合うこともなくうまいことよろしくやれておりますが、それは互いに互いを意識しすぎず比べ合いすぎず各々が勝手に各々が作った居場所である程度自由に好き勝手やっていくことができているからであって、親もそのようにさせてくれているからであって、今後またお互いがどうしようもなく血を分けた兄弟であり同じ一組の親を持ちある種の運命共同体であることを強烈に意識させられる機会がやってきた場合にも同じようにそれなりによろしくやっていけるのかというと想像するだにその限りではありません。特に自分なんて人間はそうやって無闇に人と比べられるのなんかヤダなぁって思う性質で、これはまた全然関係ない昔から何となく思ってた与太話なんですけれども、もし自分がいつか親になってその子供が双子だったりした場合には、できるだけ全然規則性のない、自分がニコイチであることを極力意識しないで済むような離れた名前をつけてやろうと思っております。マサルとショウとか、ケンスケとリュウヘイとか、メグミとキョウコとか、リサとカナエとか、パッと並んだ二つの名前を見ただけでは誰も双子だとは思いも寄らないだろう名前をつけてやりたいなと思っております。もちろん、そうではなくて似通った名前の双子だとか兄弟だとかでよろしくやってる人は世の中にゴマンとおりますのでそういう風な名付けが不幸だなんてことを言う気は毛頭ありませんが、僕自身がそうであるゆえに僕個人の感覚としては「俺たちは血を分けた世界に二つとない一生助け合っていくかけがえのない兄弟なんだ」って雰囲気よりかは「同じ股ぐらから飛び出て同じ釜の飯を食った仲間ではあるけれどもあいつはあいつで俺は俺さ」って雰囲気でいたほうが何かとやりやすいんじゃねえかなと思っているところがあるわけです。

という風に考えたうえでの『おそ松さん』です。松野家に生まれた6つ子の兄弟、上から順番におそ松・カラ松・チョロ松・一松・十四松・トド松、同じ顔が6つ、本人視点では自分と同じ顔の同じような名前の同い年の兄弟が5人、これってめちゃめちゃ生きにくくないですか?これってめちゃめちゃ生きにくくないですか?想像するだけでめちゃめちゃ大変すぎると思うんですけど僕だけですか?

『おそ松さん』っていうのは赤塚不二夫イズムを正当に継承した純然たるギャグアニメです。荒唐無稽の展開を特に疑問視することもなくみんなでドタバタ騒いで、死んだり生き返ったりしながらバカなことをやってるバカなキャラクターたちを見ていてギャハハと笑ってりゃそれでいい底抜けに明るいギャグアニメです。しかし、その一方で『おそ松さん』は「同じ顔を持った6つ子の兄弟」という運命の下に生まれた人間が抱えるであろう実存問題に対してリアリティを以って取り組む壮大な思考実験という側面も持っているのです。

ここらへん全部僕の想像の話になるので、みなさん本編をご覧になって「なるほどわかる」だとか「そいつぁ違げえな」とか好き勝手言ってくれりゃいいと思うんですけど、『おそ松くん』時代は無個性であった6つ子たちが大人になって『おそ松さん』になるとそれぞれ自分なりの個性を獲得してパッと見ぃは同じ顔立ちながらもそれぞれ全然違う性格になってるわけですけれども、これは「自然とこうなった」と考えるべきものなんでしょうか。俺にはどうもそうは思えません。前作『おそ松くん』では6つ子は10歳小学5年生、まだまだ難しいことはあんまりわからないワンパク盛りの無邪気な少年どもでいつも一緒にいる5人の兄弟と楽しくはしゃぐ毎日、自分って一体なんなんだなんて考えることもなかなかないでしょう。そして公式設定では「20代前半」とされている『おそ松さん』に時間は飛ぶわけですが、そのあいだの十数年の間に一体彼らには何があったのでしょうか?

いや、普通に思春期あるよね。

俺や貴方や誰しもにあったのと同じように、彼ら6つ子にも思春期があったはずなんだよ。って考えた時に6つ子の思春期ってベリーベリーハードモードじゃないですか。いつも同じ服を着せられてどこに行っても「ああ、あの6つ子の」と言われるのってキツいじゃないですか。名前なんかも間違えられまくるでしょう、イヤミがEDの曲中でも言ってるように「誰が誰でもおんなじザンス」なんてことは会う人会う人みんながどこかしら思ってることでしょう。いや、実際、双子の兄弟を持たない俺は「誰かと間違えられる」なんて経験は実のところしたことがないので想像することしかできないわけだけれども、結構良い気はしないだろうとか思うわけ。「誰が誰でもおんなじザンス」なんて言えるのは他人事だから言えるわけであって本人感覚としては「俺は他の誰でもない全然違う俺だ」ってのが当たり前のことでしょう。その当たり前のことを実感コミコミで確認したい時に6つ子なんてステータスはベリーベリーハードだろうと僕なんかは想像するわけです。そんな中で「誰が誰でもおんなじではない自分たる自分」を確認するために、各々が互いに差別化を図り、自己を確立しようとするのはきっとある意味では自然なことであるわけです。

ほら、なんか、世界仰天ニュースみたいな番組でよくやってたじゃないですか、物心つく前に離れ離れになってしまった双子が大人になって再会すると不思議なことに性格から始まって音楽の趣味やら好きな食べ物やら好んで着るファッションやら何から何まで似通っていてやっぱ双子ってすげえなみたいなの。でもあれはお互いがお互いに意識しようもない状態で自分の興味関心を素直に自分だけのものだと肯定できる環境だったからこそそうなるわけで、むしろずっと一緒にいてしまってはアイツと俺の違いを演出するために意識的に違う個性を選びとって、それが本当の自分らしさなのかもわからぬままに相対的に他の兄弟とは違う自分というものを形作ろうとしていくのではないか。その結果として出来上がったのがあの個性豊かな6つ子たちなのではないかと思うわけです。

一方で、個性個性って簡単に言うけどさ、個性って何も長所ばっかを個性っていうわけじゃないのね。むしろ、伸ばそうと思ったら長所を伸ばすより短所を伸ばす方が簡単だったりするわけ。「自分の目立つ部分」ってのを個性だって言っちゃってさ、本当は直した方がいいような自分の部分を開き直っちゃうようなことって人間生きてたら誰しも少しは耳が痛いところがあるはずだと思うんだ。で、この個性豊かな6つ子たちの個性ってのも少なからずそういうところがあるわけ。しかも、残念なことにこの6つ子たちはそういう互いの直した方が良いような個性を許し合ってきちゃったような節もあるわけで。何せ、自分は自分でアイツはアイツで、それぞれが違ったキャラクターになりたいっていう願望自体はみんな一致しちゃってるわけだから。とりあえず「俺らしさではないアイツらしさ」っていうのは肯定するに越したことないんだ。利害が一致しちゃってるんだな。「お前はお前のまんまでいいんだよ」「お前らしいよ」って言い合うことで互いがラクになってしまってるような共依存的なところがありまして、まー腐女子相手にすごい釣果を上げた直接的な要因っていうのはこのあたりになるんだろうなーと僕は考えております。でも、まー、そういう他者との許し合いたい関係性って別にBLに限った話ではなくやっぱり誰しもが身に覚えがあるところだとは思うんだよね。人は一人では生きていけなくて、集団の中でしか生きていけなくて、でもその中で没個性的な自分に満足するなんてことはなかなかできなくって、自分を相対化して個性的になりたくって、それを思っているのは自分だけじゃなくてみんなで、そんな風に考えてるみんな同士であーだこーだやってると誰かとすごく仲良くなったり誰かをすごく嫌いになったり誰かに変わって欲しかったり誰かに変わらないで欲しかったり、自分のことを考えてる時間と同じくらい他人のことも考えていたり、今が自分のことを考えてる時間なのか他人のことを考えてる時間なのかもわからなくなってしまったり、そういうことって割によくあるわけじゃないですか。そういう人間が本来的に向き合わざるをえない、他者との関係性の作り方保ち方変わり方壊し方っていうのを「6つ子なので自分と同じ顔が6つある」というものすごくグロテスクな箱庭で如実に見せつけてくるのが『おそ松さん』っていうアニメの面白さだなぁと僕は思うわけですよ。

ここで僕が語っているようなテーマが作品全体を貫いていることは間違いないと思うわけですが『おそ松さん』はあくまでも直球勝負のギャグアニメ、そんな難しいこと考えなくても十分に楽しめる馬鹿話が毎度展開されるばかりです。そんななかでも6つ子同士の関係性や6つ子というパッケージにどのように所属するのかというそれぞれの問題意識は通奏低音として言外に(時には明らかに)フューチャーされ続け、そうですね、遅くとも7話くらいまで見た頃にはどのキャラが好きでどのキャラが好きじゃないか、どういうところが好きでどういうところが気に食わないかが意識せずとも自分の中でわかってくるはずです。そしてそこで貴方が気付いたキャラの好き好きというものは、少なからずあなたが集団の中で自分を他人を相対化しようとする意識ひいては社会的動物であるところの貴方の人間観を反映したものとなっていることも意識せずにはいられないはずです。さすればその後はもう一直線、『おそ松さん』はただのギャグアニメであるばかりではなく、6つ子という箱庭の中で奮闘してそのままでいようとしたり変わろうとしたり変われたり変われなかったりする彼らを見守る物語としてあなたの瞳に映ることでしょう。

本当はここらへんの話を含めての各キャラクターの紹介とか、作中で彼らが変化するイケメンキャラクターF6は彼らの抱えるどのようなコンプレックスや他人へ求める欲求がどのように昇華された結果の設定なのかとかもう少し喋って、序盤の「みんな同じでよくわかんねえよ」というフェイズの副読本にでもしてもらえればとか思ってたんですが、手が疲れてきたのでそれはまた別の機会に気が向いたらやります。

そんなわけで、この文章が新たなおそ松さんフリークの誕生につながることを願いつつ。あ、でも今日、最終回直前にしてここらへんの話にそこまで真っ向から切り込むのかよみたいな切り込み方のシリアス展開でファンみんな戦々恐々とすげえ盛り上がってるから落ち着いて一人でゆっくり観たい奴は最終回終わった後にゆっくり情報集めた方がいいかもしれねえぞ!そこらへんは自己責任でよろしく頼むな!お前にとっても『おそ松さん』が良き物語との出会いとなること、心の底から祈ってるぜ!(ローランドゴリラと肩を組みながら親指を立てる)

以上です。