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嫁がカラ松ガールズになりました

うちの嫁さんはいわゆるオタク気質のある人で、外では「初恋はスナフキン」とか言ってますが(それもどうなんだよ)実際には幽遊白書の蔵馬が初恋の人でありその後もガンダムWのヒイロとか京極堂シリーズの関口くんとか指輪物語のボロミアさんとかその時々で創作上のキャラクターに熱い思いを寄せながら思春期を駆け抜けていたとのことで、ちなみに僕は今とりあえず挙げた4人くらいのキャラが時系列的に順番合ってるのか全然わからないまま書いてる程度にそんなに詳しくありません。その後もまぁ色々なものをつまみ食いしながら生きているようで今でもテニスの王子様の好きなキャラの誕生日にはそのことを僕に報告してくれてケーキを食っています(一番好きなキャラは乾貞治だそうです)。彼女が自らのそういう趣向を「こいつたぶんカミングアウトしても大丈夫だな」と判断したのは交際して数年が経ってからのことでしたが、その時点では全盛期の熱はすでに冷めていたようで時間やお金を湯水のごとく投下するみたいなこともなかったので「そうなんだ、それは楽しい趣味があって何よりだねハッピーだね」と流しておきましたがその後も時たまあるキャラクターが好きで好きで堪らなくなる発作みたいな時期が訪れてるのは僕自身目撃していて、球磨川禊、バーナビーブルックスJr、志村新八、アルミン・アルレルトなどなど多くのキャラクターたちが彼女の胸を撃ち抜いては去来し、たまに帰ってきていました。そんな嫁さんですが先週くらいから口を開けばずっとカラ松の話をしていて端的に言ってヤバい。

カラ松とは今話題のアニメ『おそ松さん』に登場するキャラクターで6つ子のニートの次男坊なんですがニヒルで斜に構えたところがありまたやや厨二な言動が目立つものの実は根は繊細な心優しい性格で、自分が人質にされてるのに他の兄弟が助けにも来てくれずみんなで家で梨を食べていた時も「俺も梨を食べたかった」と泣くだけで他の兄弟を悪く言うような非難めいた言葉は口にせず、また兄弟中もっともソリが合わないはずの四男・一松が酔いつぶれた時は率先して負ぶって帰るし、寝る時も一松と隣同士です。尊い(らしい)。どうも嫁さんはこのキャラクター及び6つ子の兄弟を痛く気に入ってしまったようで暇さえあればpixivを漁り、スーパーに行くとうっかり梨を買ってきてしまい、俺は録画したドラマを消化したいというのにオープニングをコマ送りで観たりしています。

これまで彼女とそこそこ長い付き合いをしてきましたが、自分が見てきた限りでみると今回のは過去の発作と比べてみても最大規模のものであり理由の一つはリアルタイムであるということがまず一つあり、彼女はそこらへんのコンテンツを心血注いで追いかける全盛期はすでに終えており『タイバニ』にしても『進撃の巨人』にしてもオンエアが終了してから「どうも面白いらしい」という話を聴いて視聴していたわけでそうなると次週の放送を待ち焦がれることもなければ二次創作的なコンテンツにしても界隈でのトレンドや論争もある程度落ち着いて出来上がりを迎えた段階でむさぼり始めるわけですから、タカが知れているというか熱量のコントロールも容易なわけです。しかし今回の『おそ松さん』は違う、次週の放送を心待ちにするファンたちが抑え切れぬ衝動を原動力に日々新たな二次コンテンツや用語を量産し続けるそんな祭りの只中を共に生きていることができるわけでそんな中で熱量を適度にコントロールなどできるわけがない。だって見てよこれ、一人だけ梨を食べられなかったカラ松のために延々梨を食べ続けるカラ松の動画が作られてたりするんだよ。こんなのおかしいよ。

そんなこんなで僕もそれに付き合ってるうちに一見すると同じにしか見えない6つ子を完全に見分けられるようになってしまっているわけですが、嫁自身の疑問及び嫁曰くおそ松さん沼にハマる多くの女性らが抱えている疑問らしいのですが「なぜ私はこんなほとんど外見が同じ6つ子の誰が好きどこが好きとはしゃいでいるのか」という問題があるようで、僕もそこに興味があります。なので、そこらへんの話をこれからするわけなのですが、今からする話は嫁の感情の機微がどのようなメカニズムでどういう論理を以て発生しているのかを僕なりに言語化しようという試みであり、特にアニメに熱をあげるすべての男女に対して一般化する気はサラサラなく、嫁の心の運動力学を自分の持ち合わせの世界解釈道具で捉え理解し寄り添おうと試みるのは伴侶として当然の務めであり僕はそれを果たそうとしているに過ぎないということをまずは了解頂きたい。そのうえで、自身の心的世界で何が起こっているのか第三者に説明しようとするにあたり以下の話が有用であると判断された方におきましてはご自由にお使いください程度に読んでください。

うちの嫁さんに限って言えば、別に取り立てて腐女子に特化しているわけではなく普通の男女カップリングも百合もなんでも好きらしく女の子キャラがめっちゃ好きになることも普通に多いんですね。『マリア様がみてる』では志摩子さんと聖さまが好きなので乃梨子があまり好きになれなかったり、アスカが好きなので綾波があまり好きでなかったり、『ニセコイ』では千棘が好きなので絶対に楽とくっついて欲しいと思ってるので俺が「どうせ小野寺さんエンドでしょ」と茶化し続けてたら本気で喧嘩になったりなどもします。なので単純に「ホモが好き」みたいな話ではないらしい。また、嫁さんが特に入れあげるキャラクターの造形・外見を思い浮かべて並べてみるとそりゃあ多少の好みの傾向はあるものの特に強い偏りはなく、どうやら心的な部分に魅かれて熱を上げるキャラクターを選んでいるようにも思われます。それで僕はここですごく乱暴に無責任な言葉の使い方をしますが「なるほど、彼女はキャラクターの中にあるイデアを愛でているのだな」と考えるわけです。そりゃあ例えば乾貞治というキャラクターの性格的魅力というのは言語化しようとしてできないわけではないのだけれども、それはどこまで言語化しようとも言語化されたものにしか過ぎず、いわば濁りや紛れを孕んだものにしかなりません。ただ、そこにいる乾貞治というキャラクターそのもの・乾貞治の一挙手一投足にこそ純たるイデアを見出すことが可能であり、彼女はきっとそれを以て乾貞治を愛しているのでしょう。これは何も乾貞治に限った話ではなくすべての深い愛を以てまなざされるキャラクターは何らかの抽出不可能なイデアを内包しており、イデアそのものあるいは惹かれあうイデアイデアの呼応に彼女の魂は反応しているのではないだろうか。このような仮説を考えてみた時、外見は同じで内するイデアだけが異なる6つ子の兄弟というコンセプトはイデアの容れ物・器として極めて優秀な概念であるように思われる。

また、イデアイデアそのものとして認識することはできないが我々が肉体的に知覚している世界においてそのイデアがいかにも宿っていそうなエイドスの形・有り様は何かを考えそのもっともらしさを確認しあうことで間接的にイデアを知覚し同じイデアを共有していると確認することができる。例えば、乾貞治海堂薫が二人暮らしをしていて給料日を迎えたとした時に夕食がパエリアであるよりもスキヤキである様を想像した方がいかにももっともらしく思われテンションが上がるのはこのような仕組みゆえに起こる現象なのである。あくまでこれは私が嫁の心的運動を解釈するためにあつらえた論理であるため一般化するつもりはないのだが、仮にこの考え方をもって界隈でよく見かけるどっちがタチでどっちがネコなのか論争を見た場合、キャラクターの中にどのようなイデアを見出すかは人それぞれであるため同じキャラクターの中に違うイデアを見出すもの同士が対立しているのではないかと解釈することもできるのかもしれない。

ところで自分はというとそういうキャラクターに強い思い入れを抱くということはほとんどない人間ではあるのだけれども、幸いなことにこのようなイデアに由来するもっともらしさを探そうとする行為は嫌いではなく、例えば星野源は水道管を見に来てくれそうだなとか考えるのは好きなので、それゆえアニメを視聴するうえでも並んでおでんを食べる時には向かって右から順に長男~六男の順になるもっともらしさや、6人が一枚の布団で寝る際には末っ子のトド松が真ん中で長男おそ松と次男カラ松に挟まれ寝相が悪そうな十四松が一番端にいるもっともらしさを共有し一緒に楽しむことができる。これは私たち夫婦にとっては僥倖であったと言えるだろう。

しかし、こうして如何にもオタク趣味に理解があるような顔をして書いてはいるものの許容できる範疇に収まっているから涼しい顔をしていられるだけで昨日は遂に「来年は久々にインテ行くかも」と言い出していたがそれについてはとりあえず「お、おう……良かったね楽しそうで」とだけ言いつつ内心「こいつの『インテ行く』がなんぼくらい金使う想定なのか全然わからんな」と思いながら成り行きを見守る次第です。以上です。