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加害者を作らないための話を上手にするのムズすぎ問題


 コメント欄の遣り取りが面白かった(面白かったって言い切るなよ)。

 100人が100人をぶん殴った時に100人全員がちゃんと相応の罰を受けることが望ましいのは当たり前。当たり前だけどそれが今ちゃんとできているのかというとどうもそうでもないらしいので、それが当たり前の世の中になるためにみんなちゃんと怒らなくちゃならないというのも当たり前。

 一方で、100人が100人をぶん殴った時に100人全員がちゃんと罰を受ければそれで万事オッケーなのかというと、それだけじゃあまだ随分足りない。ぶん殴った奴が適切な罰を受け、それを見届けた人たちが「よかったよかった」と言いながら解散した後に残るのは、100人の殴られた人だけだ。それなりの罰が向こうに下ればそりゃあ少しは気が済むのかもしれないけれど、最初から何もなければそれが何よりだったはずなのも当たり前だ。

 別に殴られる方だって、そいつがもっと他のたくさんの人を殴りにかかる前に好んで殴られに行って悪を炙り出して刺し違える慈善事業のつもりで殴られているわけじゃあない。ただ理不尽に殴られたくもないのに殴られているだけで、最初から殴られなかったのならばそれが一番だったに決まってる。

 じゃあこの理不尽に殴られている100人という数字を90に80に50に減らしていくにはどうすればいいのか。0に近づけるにはどうすればいいのか。そういう話があってもいいはずだ。殴られる人の数を減らすには殴る人の数を減らせば良い。しかし、殴った人を殴るやいなやで「やりやがったな」とトッチめて取り除いていくだけでは、そこには常に取り除いた人と同じ数だけの殴られて痛い思いをしてしまった人が存在してしまう。どうにもこれだけでは殴られてしまう人の数は一定以下には減りそうにない。そこから更に減らそうとするならば、誰にも誰も殴らせないための知恵とか工夫が必要になってくる。一体それってなんじゃろな。そういう話があってもいいはずだ。

 冒頭で紹介したエントリは、恐らくそういう前提から書かれたエントリなのかなと自分は読んだ。実のところその内容については、僕にもちょっと行儀良すぎてあまり共感できなかったんだけど、そういうアプローチの仕方自体はとても大事だと思うし賛同できる。羆による事件事故の発生件数を減らすために羆の生態を知ろうとするように、殴られる人の絶対数を減らすために殴る人の心理を考えようとすることは割と自然なことのように思う。

 だけれどこういう話をしている人によく見かけるのが、「殴った人を甘やかすな」みたいな、そういう批判を受けているシーンで、それがコメント欄だったわけです。

 まぁ、そういう批判を言いたくなる人の気持ちもわかる。わかるんだけども、「熊はお腹が空くと人間を食べるようだ」と言ってる人に「そんな理由で人間を食べてはいけません」とか言ったって、言ってるその人は熊じゃないんだから熊じゃない人にそれを言っても仕方がないし、もう一つ言えば熊にそれを言っても通じないからどうしよっかって話なんですよね。

 そしてこれと同じような話はきっとどこの界隈にも存在していて、例えば先日あったどこだかの人がアパルトヘイトに肯定的なことを言っていた件とそれに対する周囲の反応については、下記のようなことを言っている人がいてすげえ「そうだよね」と思った。

曽野氏を糾弾するだけでなく、反対者が持つ世界観を超えた上でなお、なぜ人々は「分けて」住まない方がいいのか、きちんと論理的に反論するのでなければ、曽野氏の主張や指摘は支持され続けることになるのではないか、そのことを危惧します。

 特に「世界観を越えた上でなお」というところが重要で、ここを踏まえないことにはいくら論理的に正しいことを言っても話が通じないだろうし、「そんな分からず屋は排除だ」なんてことをいつまで繰り返したところで全ては殴られた人があって初めて排除できるという順番にしかなりません。人食い熊は撃てばいいと言ったって、熊が晴れて人食い熊認定されるのはいつだって人が食べられた後なのです。そういうのはもううんざりなんですよ。

 理不尽な暴力や差別や不寛容や不誠実に出くわした時、それを自分の歩く道すがらに立ちふさがる大きな岩のように感じることは少なくありませんが、それは岩ではなく人なんです。あなたと同じようにどこかから歩いてやってきて、これからまたどこかに歩いていくその途中でたまたまあなたの歩く道と交わって鉢合わせになった人なんです。別に岩だろうと人だろうと邪魔なもんはお構いなしにダイナマイトで木端にしてやればいいってところに僕は特に異論無いんですが、彼らがどこからどう歩きどこに行こうとする中で私たちの目の前に岩みたいな顔で現れるに至ったのか、その轍を辿ってみることだってダイナマイトで木端にしてやるのと同様に必要なことじゃあないですか。その轍を分け入って分け入った先にはきっと如何にも普通の道から間違ってその轍に歩みを進めてしまいそうな紛らわしい分岐点みたいなところがあって、そこに立ち入り禁止の立札を置くだけで年間のダイナマイト使用量が随分節約できるかもしれないわけです。

 理不尽な岩は爆破すりゃいいし、人食い熊は撃てばいい。けれどもそこに轍が残っている限り、何度爆破したところで何度鉛玉を撃ちこんでやったところで彼らはまた何度でもやってくるし、自分や自分と一緒に歩いてたはずの人がいつその轍に足を踏み入れて知らぬ間に獣道を歩くことになっているかだって分かったもんじゃないんです。爆発第一主義の人がいるのは仕方ないし、僕だって誰だってもう爆発のことしか考えられなくなる話題とか領域があるのは仕方のないことだとも思うんですが、そもそもそういう轍が存在してることが問題なのであって、それを取り除かない限りはいつまで経っても色々なアレがソレなんだってことを、毎日は無理でも、ちょっと余裕がある時に、余裕が持てる話題の時に、考えられる時に考えられれば、もう少し世の中マシになるのかな。そんなことを考えながら作ったカレーです。爆発カレーです。名前に反してマイルドな味わい、爆発カレー。どうぞ召し上がれ。以上です。