読みましたー。
- 作者: スコットフィッツジェラルド,Francis Scott Fitzgerald,村上春樹
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2006/11
- メディア: 単行本
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特に2015年に生きる29歳の僕からして目新しいことというのは何一つなかったのだけれど、どのように書かれるのかこそが問題であるように思われた。歯を食いしばっていては歯を食いしばったままで言えることしか言えない。僕の営みも誰の営みも、すべては極めて個人的な営みに過ぎず、もちろんそれらが相互に作用して僕と貴方の、僕と世界の関係が形作られていくそんな決まりきった当たり前の真理にどのような態度で相対したいのか。この本が示す問題はそこらへんであるように思われた。言葉は、振る舞いは、僕の確かな個人的な意思によって世界へ投げ出されるけれどそれがどのような結果を引き起こすのかはどうにもわからない。僕は僕の望む結果を手に入れるために、例えば「愛してる」ということを僕だけではなく貴方にとっても自明なことにしようと、最善を尽くさんと躍起になる。僕は僕のために最善を尽くさなくてはならない、躍起にならなくてはならない、他ならぬ僕のために、貴方がどうあれ僕が続いていく以上、どうしたって僕は僕のためにどのみち頑張らなくっちゃ仕方ない。そこんとこ僕は必死だ。けれどそういう態度って、ある意味ではやっぱり捨て鉢なんじゃないだろうか。歯を食いしばっていては歯を食いしばったままで言えることしか言えない。そういう態度は、いつ殴られてもいいように歯を食いしばっているのとそうは変わらないんじゃないだろうか。人はこの物語をどのように読むのか僕は知らない。僕が感じたのはギャッツビーへの後ろめたさだった。僕はいつからか殴られない工夫を身につけるのに熱心だった。殴られてもへこたれない気概を身につけるのに熱心だった。それらは生きるのに必要なことだったろうと思うので特にそれで損をした失敗をした回り道をしたとも思わないのだけれど、最初からそのつもりで予定通りに身につけたわけでは決してなかった。最初の予定では、もっと、もっと違う何かを探して、そうして駆けずり回る予定でいたのだけれど。もちろん僕にはまだ随分時間が残されているし、知恵だって昔よりかはあるし、話せる見知った顔だってわずかながらあるわけだから、今後またゆっくりと時間をかけてそいつを探し回るつもりではいるのだけれど、だからこそ、何だかギャッツビーに申し訳が立たないようなそういう気分になってしまうのだ。歯を食いしばっていては歯を食いしばったままで言えることしか言えない。それだけじゃあどうにも足りないらしいことを知った僕は、これから、歯を食いしばって痛みに備えることをやめてそうしなくっちゃ言えないことをもう一度確認しながら探し物を続けていく。けれどそうして、食いしばった歯を緩めようとする時は、笑えるくらいに臆病にキョロキョロと周りを眺めて目の前に立つ誰かの瞳に映る自分の顔をじっくりと覗きこんでから、やっとこ口を開くのだろう。そしてまたその時も、なんだかギャッツビーに申し訳ないような気持ちになるのだろう。
全然違うっちゃ全然違うんだけど、ザ・ハイロウズの『不死身のエレキマン』って曲を思い出したりなどした。「子供の頃から憧れてたものになれなかったんなら大人のフリすんな」とは言われたものの、だからって子供じみた大人をやっていたんじゃみっともない、大人のフリだけはしないように大人をやっていくしかないんだけれども、それだけのことがなかなかどうして難しい。相手に大人のフリをされては一巻の終わりだ。ましてや子供じみた大人の前で大人のフリをやめるだなんてもっての他だ。なんてことを考えているとギャッツビーの微笑みがまたも思い出される。それは勿論まったく僕の想像上の微笑みなのだけれど。以上です。