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人を信じられない人は人を信じすぎなのではないか

もう男なんて信じない!

もう女なんて信じない!

もう大人なんて信じない!

もう人間なんて信じない!

昔はそれなりに気が弱くて空気を読む子供だったので、小学校低学年くらいの頃までは割に大人を信じていた。子供の知る大人っていうのは、いわゆる学校の先生とかそういう人のことだ。大人は僕ら子供のことを真剣に大事に思っているし、公明正大に物事を考えているし、自分たちが出来ているからこそ子供にも「みんなと仲良くしなさい」と言うのだし、そんな大人たちが見てくれているからこそ子供は無邪気でいられるのだし、だから自分は無邪気でいなければならないと思っていた。無邪気でいることこそが「私は大人を信じていますよ」という表明であり、こちらが信じていればこそ大人もそのように振る舞ってくれる。勿論その頃、そんな言語化なんてできているはずもなかったが僕はいわゆるそういう共犯関係のようなものを僕と大人を含む世界との間にイメージしていたような気がする。

しかし、そんな幻想は自分が大人になる日を待つまでもなくやがて忽ちに瓦解した。小学3年生の時に、1組の担任の後藤先生と2組の担任の五十嵐先生は仲が悪いらしいという話を小耳に挟んだのだ。大人は立派で、普段私達にそうしろと言うように、大人同士はみんな仲良くやっているもんだと思っていた、きっとそうなのだからそう思わなくてはならないと思い込んでいた私にとってそれはとてもショッキングなニュースだった。

まさに肩の荷が降りるような思いだった。なんだ、大人は信じているほど立派なものではないのか。ならばもう無理に信じようとしなくていいんだ。自分にわかる範囲というのは途轍もなく限られているというのに無邪気に無制限に手放しにわからないところまでまるっと信じなくてはならないのが息苦しくて嫌で嫌で仕方がなかった。なぜそうしなければならないと思っていたのかは今でもよくわからない。ともあれ、僕はよくわからない自分で自分に課していた義務から遂に解放された。これは「大人なんてもう信じられない」とスネたわけではない。大人が信じられない以上に僕は同年代の子供たちがみんな気に食わなかった。しかし大人が仲良くしなさいというのでそうしなければならないと思っていた。ところが大人の言うことを無理に信じなくても良いということは、気の合わない奴とは無理に仲良くしなくていいんだということにやっとこさ気付いたのだ。何かをまるっと信じなくていい、気の合う奴も合わない奴もそいつと仲良くするもしないも大人だろうが子供だろうがそいつの言ってることが耳を貸すに値するか否か全部自分で判断して決めてもよいのだ。もう俺は何も信じなくていい。勿論その頃、そんな言語化なんてできているはずもなかったが、僕は天にも昇る思いであった。そしてそんなふうに割りきってみればこそ、世の中にはなかなか話せるやつもいるということに僕は漸く思い至った。

もう男なんて信じない!

もう女なんて信じない!

もう大人なんて信じない!

もう人間なんて信じない!

そんな少年期のささやかな原体験を抱えた僕には、だから、こういったセリフがいまいちピンとこない。これらの言葉の前提には「信じたいけど信じることができない」というニュアンスがあるように思うのだけれど、「信じたくもないのに信じなくてはいけない」と思っていた僕にはどうにももうひとつよくわからないのだ。まるっと手放しに何かを盲信するだなんて僕には甚だおっかない。

男なんてどこにもいない。女なんてどこにもいない。大人なんてどこにもいない。人間なんてどこにもいない。そこにいるのは、僕が僕を通してこの世界を眼差しているように、彼を通してこの世界を眼差す彼と、彼女を通してこの世界を眼差す彼女と、貴方を通してこの世界を眼差す貴方と、ただそれだけだ。僕が僕のことなんかひとつも信用できなくってだからこそ他の何かを信じなくてはならないと勘違いしていたように、僕以外のすべても同じように信用ならないやつだった。

だから僕は貴方にひとつ、ふたつ、言葉を投げかける。貴方が信用ならないからこそ、貴方のことを知りたいと思える。貴方が眼差す世界の向こうから、僕は貴方を眼差すことができる。貴方のことを信じてなんかいたら僕にはきっとそんなことできやしなかった。貴方のことを信じていたら僕は貴方に出会うことなんか叶わなかったし、貴方のことを信じていた僕はきっと貴方になんかひとつの興味も持てず自分のことばかり考えていたことだろう。僕は貴方を信じることができなくて本当によかった、この世界がなにひとつ信用するに値しない世界で本当によかった。

僕は、貴方は、何も信じなくていい。これは控えめに言ってとんでもない福音だ。