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映画『華麗なるギャツビー』感想文

  観ましたー。

華麗なるギャツビー [DVD]

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  以前、小説で読んでいて、その感想は既に書いております。

 最高に面白かったんだけど、今回は特に俺の入り方が良かったですね。トビーマグワイア君もディカプリオ君も良かったですが、俺の臨み方が良かった。自分で自分を褒めたいです。

 まず事前に小説を読んでいて、なるほどこれはアメリカ文学史に残る名作なんだと思って、物語本来の面白さもまぁ触りくらいは実感することが出来て、合ってるか知らないよ知らないけど、人間は自分の既知のものと比較して配置することで未知を理解するというか自分の中に情報として留めることができるわけだから、そうして僕らは新しいものを取り込んでいくほかないわけだから、合ってるか知らないよ俺がそう配置しただけで合ってるかは知らないんだけど俺の中で「なるほど、たぶんこの『グレート・ギャッツビー』という小説は、恐らく日本人にとっての漱石の『こころ』みたいなそういうポジションとしてアメリカ人に愛されてるんだろうな」と一先ずそういう風に俺の脳の引き出しにこの物語をしまいこんでたんですね、そういった経緯を踏まえて俺は観たわけですこの映画、はい、ドン!

 俺「アメリカの『こころ』、派手だな!! アメリカかよ!! お前まじアメリカだな、アメリカ!!」

 いやーすごいですね、アメリカ。兎に角、糞派手です。いやこれ実際さ、ここまで派手ではなかったでしょ流石に。スコット・フィッツジェラルドにこれ見せたらたぶんウケるでしょとか思うんですけどどうなんですかねよくわかりません。1920年頃のニューヨークを描いた本作ですが、実際の1920年頃のニューヨークを描く気とか最初っから無かったんだろと思うんですけど、それはきっと実際のインドとガンダーラ的な意味で言ってる天竺は一緒だけど別物でアレがアレなんでそこは分けて考えてくださいみたいなそういうノリなんじゃねえのと思うんですけど、本当にあんなんだったならあんなんだったでめちゃめちゃ面白いからいいですし、「アメリカの『こころ』はあんな仕上がりになりますし、これでいいんです。問題ないです」という話ならそれはそれで面白いので、僕はどちらでも構いません。でもどちらかといえばやっぱ後者であって欲しいかな。当時実現可能だった派手さを忠実に再現するんじゃなくて、今の技術で表現できるありったけの派手さを全力で注ぎ込んだ目いっぱいギリギリのトンでもなく派手な派手すぎるパーティー、ギャッツビーのパーティーはそんなパーティーであって欲しいというアメリカ人の願いがそこにあるのなら、その願いとその願いによってスクリーン上に現れたド派手すぎるパーティーそのものこそが、この物語のテーマに肉薄しているよなと思える。

 外人の演技ってよくわからないのでよくわからないんだけど、ビジュアルだけの話でいえばみんな「あーそうそう、こいつこんなん。イメージ通り」ってところで全く違和感がなかった。特にディカプリオがなんかわからんけど兎に角完璧だなと思って、僕は『タイタニック』の頃から、「いやこいつそんなにかっこいいか?四角くない?なんていうか四角くない?」と思ってたんですが彼の魅力というのは単純なかっこよさじゃなくて、謎の説得力なんだなということに近年合点がいきました。「よくわからんがこの馬鹿はどうやら本気らしい」と他人に思わせる謎の説得力がありますよね、この人の顔つきというのは。そしてそれこそがギャッツビーに最も必要な要素であるとも思われた。やっぱあのやっとデイジーがキャラウェイの家にやってきたシーンで、『ザ・ビーチ』と全く同じテンション・緊迫感で振り向けるってのはなかなか常人にできるこっちゃないですよ。娘っこ一人やってきただけですからね、すごく個人的な事情で一事が万事一大事と捉えることがとても上手な人なんだなと思いました。あと、キャラウェイだけ、原作を読んでもどういう奴なのかいまいち掴みきれてなかったんだけど、トビーマグワイアがすげえしっくり来て、「なんだこいつでよかったのか」って感じでとても腑に落ちたのでそれも良かった。

 さて、僕がこの物語に感じたことというのは、以前に書いた小説の感想文の方を読んでくださいってところではあるんですが、そういうのが映画でちゃんと描けてるのかと言われたら正直よくわからん。というかたぶん怪しい。しかし、それがどうしたという考え方に自分がなりつつあるなということに気付いた。僕だって今まで口にすることはありましたよ、例えばCGがド派手な映画なんかを観て「人間が全然描けてない」みたいなこと言いたくなることってどうしてもあるじゃないですか。でもでも例えば、この『華麗なるギャツビー』に関して言えば、あんだけイケイケなニューヨークが描けてるなら人間は描けてなくてももう別に良くない? 人間の部分に関しては小説の『グレート・ギャッツビー』の方があんだけ描けてたんだから、もうそれで良くない? と思ったところがありまして、そして俺は小説も読んだし、映画も読んだし、そうしてその両方に触れたことでこの物語の持つ精神性みたいなものがよりリアルに分かった気になれてるのだから、もうそういう分担制度と考えたほうがいいんじゃないかと思えてきた。たぶんこれは、今は例として、一つの物語を小説だったり映画だったりその感想文だったりという形で触れている話をしているわけだけど、何もそれは物語に限った話じゃなくて僕や貴方が希求してやまないあらゆる何かに関して言えるわけで、まぁにやけ顔で一番面白くない言い方を探せば「悪いところではなく良いところを探そう」みたいな言い方になるのですがそのまんまの意味ではなく、良いところを探してそのモノを良いと認めようなんて甘っちょろいことを言うつもりはなく、つまんねえもんはつまんねえでいいんですけど、そのつまんねえもんもつまんねえもんなりに何かを希求した結果生まれたもので、きっとその何かの一部にスポットを当てている。その何かにもっとちゃんとスポットを当てているものは他にもたくさんあるのだから、それがつまんねえって結論はつまんねえって結論で全く問題はないんですけど、僕らが真に追い求めているものというのは単品として「良い作品」と呼べるような作品そのものなのではなく、いくつかの・或いはたくさんの作品を通してそれぞれの角度からスポットを当てていくことである日突然俺にとって俺の実感込み込みで以前からずっと知っていたみたいな気持ちで明らかにされるずっと希求していた何かそのものであり、僕らが作品に触れて探すべきはその何かを掴むための糸口なのだなぁ。

 全然話が変わるけどトビーマグワイアが終始ニヤニヤしているのはやっぱみんなキルスティン・ダンストに比べたらめちゃめちゃキレイだから仕方ないよなと思って観ていた。以上です。